知らないまま

2026/09/13公開



急げ。
頼むから間に合ってくれ。

怪我をしたあいつは、まだ救護テントにいるはず。

走ったら駄目だということは、承知している。
しかし――どうせ、自分は手遅れだ。
揺らめく殺意は、あっという間に全身に広がるだろう。

突然、込み上げる。
血を吐き、額がひんやり冷たくなる。

だが、足を踏み出し、必死に救護テントに駆け込む。


目の前に、具合の悪そうな怪我人を覗き込んでいる衛生兵。
その手には――水差し。

「飲むな!!!」

絶叫する。

次の瞬間、怪我人が苦しみ出し――
テント内の別の場所では、突然人が倒れた。

唖然とした声があちこちから零れる中、必死に探す。
右手の比較的近い場所に、見つけた。

「ルーカス!」

細い体。まだ幼さの残る顔立ち。
同時期に入隊した、頼りない雰囲気のヒュームの青年。

彼に水を与えようとしていた衛生兵を必死に跳ね退け、そのまま倒れ込む。

「アレイン!?」

驚きの声とともに膝を立てるルーカス。
足には包帯。
一瞬顔をしかめるが、手を伸ばして横たわるアレインの肩を掴む。

次の瞬間。
あらゆる方向からわずかな差で響く警笛。
悲鳴。爆音。

刹那、冷静な視線で周囲を一瞥するルーカス。
アレインは身体を起こすこともできないまま、荒い息をついて彼に向く。

その間にも、テント内のあちこちで人が悶え、倒れていく。

外から、状況が理解できない人間たちの怒号。
言葉にならぬ叫び。自軍のものではない喚声。


――助けなんて、来ない。


「逃げろ」

必死に告げるアレインの口が、赤い糸を引く。

油の燃える臭い。
火薬が爆ぜる振動。
工女達の悲鳴。

無言のまま、何かを判断したような、ルーカスの目元。
アレインは見逃さない。

ルーカスは見回し、傍らに置いた剣を見つける。
身体を捻って手を伸ばそうとする彼の腕を、アレインが掴んだ。

ルーカスが視線を下ろすと、エルヴァーンの青年は苦笑いを浮かべていた。

「……俺がいなかったら、どうするんだ……お前」

「アレイン、もう喋るな」

苦しげな声を絞り出すアレインの手を、ルーカスが握った。
だが、静止を無視して言葉が続く。

「……お前は、すぐ……人に舐められるから」

「アレイン」

「もっと……堂々としてろよ、な」

戦友を見つめるアレインの瞳が揺れる。

長身の種族が多い自軍。
時たま差別的な扱いを受ける友を励まし、殺戮の恐怖と戦った日々が脳裏を掠めていく。

もう庇うことができない。
励ますことができない寂しさに、息が詰まる。

「逃げろ」

もう一度言った。
直後、全身が震える。


もう、動かない。

ルーカスの手から、アレインの手が、するりと落ちる。



拠点で営まれていた製造所も、火薬の臭いと黒い煙に飲み込まれ。
陣中ではためいていたものとは異なる、青い旗がなだれ込む。

動く者の姿を探し、粛清していく影。

悲鳴の数が減っていく中、状況を見回しながら踏み込んでくる鎧の音。
役目の重さと比例しているかのような重装備。

「設備はすべて焼き払え。工女や職人もだ」

低い声が部下達に告げる。

伴っていた一人が、何かに気付く。
鋭く銃を構えた。

救護班のテント。
その前に立ち尽くす、足に包帯を巻いたヒュームの青年。
胴にだけ鎧を身に着け、片手に剣を握っている。

負傷兵か。

だが。
怯えた様子はなく、ただ静かに周囲を観察していた。
熱風に揺らぐ黒髪と、炎が映るブラウンの瞳。

次の瞬間。
銃を構えた部下の視界に、鋼の腕が制するようにかざされる。

「あれは違う」

低い声が言った。

飛び交う火の粉が、空へ舞う。
そしてまた、離れた場所から悲鳴がひとつ。

指揮官である男は、この地の誰も知らない名で青年を呼んだ。



「報告しろ、マキューシオ」



その日、ひとつの拠点が“取り戻された”。
――その内側で、何が行われたかも知らぬまま。



<End>

あとがき

二軍スピンオフ『知らないまま』でした。