交換条件
2005/02/16公開
青い空の下にあるこの街は、まるで一切の色彩を失ってしまったかのような、灰色の廃墟と化していた。
民家は焼け崩れ、かつて開けた通りだったであろう道も、戦闘の残骸に埋もれて足場すらない。
遠目には空に立ち上る黒煙が見えていたが、幸か不幸か、先日降った雨が火の手を抑えてくれたらしい。
黒煙から開放された空は晴れ渡り、まるでこの灰色の街とは別世界のもののように美しく輝いている。
マキューシオは、その無音の灰の街に、一人で立っていた。
運悪く両軍の衝突に巻き込まれてしまったこの街の惨状を前に、目を細める。
瓦礫、濁った水溜り、砕けた兵器の破片、破れた軍旗、そして……失われた命。
街に横たわる命の抜け殻の数々に、弔うことすらできない無力を噛み締め、無意識に唇を噛む。
ここに辿り着くまで、何人もの民と出会ったが―――生きた者は、一人もいなかった。
「マキューシオ!」
背後から、怒気のこもった声が彼を呼んだ。
肩越しに振り返ると、ブロンドの髪を高く一束に結い上げたヒュームの女性、スティユが、装備の音を鳴らしながら瓦礫を越えて駆け寄ってくる。
「まだ戦闘後間もないので、固まって行動するようにと……そう言ったのは、あなたでしょう!こんなに奥まで来てしまって……今すぐに戻ってください!」
怒りを抑えた小声の中にも、明らかな怒気がにじんでいる。
「………スティユ…」
彼女に背を向けたまま、マキューシオは呆然とした目で街を見渡した。
「どうしたら……私は、命を救うことができる?」
不意に―――何の感情も感じられない声で、マキューシオがスティユに問うた。
スティユははっとして、息を詰まらせる。
灰色の街。崩れた建物。積み重なる瓦礫と、そこに埋もれる命の残骸。
すぐ近くには、花屋だったであろう木製の車が炎に焼け、瓦礫に潰されていた。
大人、子供、男、女、あらゆるアルタナの民達、そして獣人。
何もかも、失われたものしか視界に映らない。
「………今は戻って、救えるものを皆で探しましょう」
この男は―――あまりにも多くのものを、その身一つで背負おうとする。
何もかも救いたいのだ。
自分の限界などお構いなしに、ただひたすらに、その腕に抱えられぬ程の命を、救おうとする。
………あなたの腕は、二本しかないんですよ?マキューシオ。
スティユは胸を締め付けられるような痛みに襲われ、言葉を飲み込むと堪らず俯いた。
――――風が吹いた。
びゅう、と音を立てて廃墟の隙間を駆け抜け、街中に砂埃を巻き上げていく。
スティユは腕をかざして目を庇い、それから恐る恐る目を開いた。
すると、マキューシオがこちらを振り返って目を見張っていた。
「聞こえたか?」
「え?」
「子供の声だ」
マキューシオはそう言い残すと、唐突に背を向け駆け出した。
瓦礫の山を飛び降りて一目散に掛けていく剣士に、スティユは思わず手を伸ばす。
「あっマキューーー!……もうっ!!」
慌てて、スティユも彼を追う。
彼に追いついた時、マキューシオは民家の角に背をつけ、先を窺っていた。
その先に何かがいることを察したスティユは、何も言わず静かに彼の隣りにつく。
マキューシオの視線の先、二軒先の屋敷の門前に、槍を構えた一体のオークが立っている。
中を覗き込んでいる様子だが、もう一体がすでに門を潜って中へと入って行ったのを、マキューシオは視認していた。
……二体だけ、とは限らない。
だが、子供の声が空耳でないのなら―――急がねばならない。
マキューシオは素早く精神を集中させ、静寂魔法のサイレスを詠唱した。
魔法が発動し、門前のオークの声を封じる。
突如として声を失ったオークは、沈黙の内に驚き、その小さな目に敵の姿を即座に捕らえた。
雄叫びの出ない口を開き、憎しみに満たされた目でこちらへ突進してくる。
マキューシオは身を引き、スティユに視線を送った。
頷いたスティユは、同時に剣を抜き、オークが角を曲がって飛び出してくるのを待つ。
―――――その時。
屋敷の中から、オークの雄叫びが聞こえた。
それも、一体ではない。
二、三体のオークの怒号が同時に響く。
オーク達が何かを見つけたに違いない!
マキューシオは歯を食い縛り、もはや待っている暇はないと判断すると一気に角を飛び出した。
目前まで迫っていたサイレス状態のオークをすれ違い様に斬り裂き、走り抜ける。
続いてスティユが、追おうとしたオークの背に短剣を突き立て、そのまま地に伏せさせた。
声も出せず絶命したオークから短剣を抜き取った彼女が顔を上げると、マキューシオが屋敷の門を潜って突入していくのが見えた。
「マキューシオ!!」
門を越えると、屋敷の庭にもすでに数体の骸が転がっていた。
扉が半ば焼け落ちており、明るい外からは中がよく見えない。
だが、大勢のオークが潜んでいる気配は感じられない。
マキューシオは足を止めず、そのまま扉へ向かう。
屋敷の奥からオークの怒号が聞こえる。
間に合うか……!
数段ある石段を一気に駆け上がり、彼は勢いよく焼けた扉を蹴破った―――。
瞬間―――。
全身を震わせるような咆哮と共に、鮮血にまみれたオークがマキューシオを出迎えた。
血の滴る口から獣のような悲鳴を上げ、そのままマキューシオに覆い被さるように倒れ掛かってくる。
マキューシオは咄嗟に横へ身を投じ、オークの巨体の下敷きになることを回避した。
転がりながら体勢を立て直し、何が起きているのかを確認しようと眉をひそめて倒れたオークを見る。
その向こう側で―――黒い“何か”が鋭く煌めいた。
――――――ギィィィィン!!
反射的に剣を抜いた刹那、マキューシオの細身の剣に強烈な衝撃が叩きつけられた。
凄まじい圧力。―――暗闇からのニ撃目を受け流すように後方へ飛ぶ。
飛んだ直後、恐るべき速さで翻った三撃目がマキューシオの髪を掠めた。
そして、距離を許さない暗闇は、マキューシオが着地するよりも速く四撃目―――!
咄嗟に姿勢を低くしていなせば、斬撃の風圧が頬を裂い裂いた。
マキューシオは相手の正体を見極めるべく、闇に向かって鋭く踏み込む。
――――ギィン!!
刹那、激しい金属音を響かせて互いの刃がぶつかり、火花が散る。
闇に閃く一撃を受け止め、マキューシオは相手の攻撃を封じた。
「―――お兄様、違います!お止めください!!」
その瞬間。
悲鳴にも似た、女性の声が室内に響き渡った。
風が吹く。
割れた窓から流れ込む風に、焼け焦げたカーテンがゆらゆらと揺れ、僅かな陽光が屋内を照らす。
その光が、戦いの只中にある“彼”の姿を、ぼんやりと浮かび上がらせた。
マキューシオの剣を、巨大な鎌の刃で受け止める者―――
それは、黒き鎧に身を包んだエルヴァーンの男だった。
漆黒の闇に溶け込むような甲冑をまとい、まるで死神のごとき静けさと威圧。
「………確かに……違うな」
嘲笑するように口元を歪めた彼の両目は、血の滲む白い布で覆われていた。
リクエスト内容「古奈戸と牧潮の出会い」
~交換条件~
「両軍の戦闘後にも、先程のように獣人がやって来ることが何度かありました。……フィルナードお兄様がいなければ……今頃、私達は生きておりません」
慎重な口調で語るのは、アライザと名乗ったエルヴァーンの女性。
服は土と煤にまみれているが、その佇まいにはどこか貴族らしい気品が感じられる。
彼女の背後にある焦げたソファーには、幼い男の子が二人腰掛けていた。
年上の子が、幼い弟を優しく抱きかかえるようにして座っている。
その子供達は彼女の息子達だと、少し前にアライザ自身の口から告げられた。
ソファーの向こうでは、数名の女性達が身を寄せ合うようにして座り、互いを庇いながら静かに震えている。
元々の計画では、この街は連合軍の拠点となり、戦場はもっと北方へ移るはずだった。
だが予想をはるかに超える速さで獣人軍が進行し、街は瞬く間に戦場の渦に吞まれていった。
態勢が整わぬまま交戦状態に入った連合軍は終始劣勢。
民は逃げ惑い、軍も壊滅的な状況の中で敢え無く撤退していった。
―――その中で、ただ一人、撤退を拒み、最後まで戦場に立ち続けたのが、彼女の兄・フィルナードだった。
アライザは、一向に引く気配のない兄の姿を見つけ叫び、二人の息子を守るために無我夢中で走った。
気が付けば彼女は、この見知らぬ屋敷に身を隠し、目を負傷した兄を手当てしていたと言う。
話を一通り聞いたマキューシオは、窓際に佇む男に視線を向けた。
そこには、黙ったまま動かぬフィルナードの姿があった。
「白魔法を使える者がいないので……ただ布を巻いて、止血することしかできなかったのです」
まるでマキューシオの内心を読み取ったかのように、アライザが訴えるような声で言う。
目の包帯に気を取られていたが、よく見ると彼が負傷しているのは目だけではない。
破損した装甲の下には、明らかに打撲や斬撃を受けた跡。
恐らく、フィルナードは頑として鎧を外さなかったのだろう。
「大丈夫です。マキューシオは白魔法が使えますから」
スティユが優しく微笑みながらアライザに語り掛ける。
マキューシオは彼女の言葉に無言で頷き、窓際にもたれて微動だにしない男にゆっくりと歩み寄る。
「ケアルをかける前に、目の布は外した方がいい」
彼はそう静かに告げる。
アライザの話によれば、フィルナードの目に布が巻かれたまま、すでに一週間近くが経過しているらしい。
このままの状態でケアルをかけたら、下手をすると目が開けなくなる恐れがある。
目は極めて繊細な部位だ。
とにかく具合を窺ってから、慎重に癒さねばならない。
そもそも、治癒し以前の仕様に戻ったとしても、視覚が元のように回復する保証もない。
「………妙だな」
ぼそりと、フィルナードが呟いた。
低くて小さなその声は、どこか気だるげな響きを帯びていた。
「先程……お前達は軍の者だと言ったが……軍の者がこんなところでのんびりしていて良いのか?戦線はもう東に移ったはずだ。ボランティア活動なぞしている暇はないだろう」
威嚇するわけでもなく、独り言のように淡々と言うフィルナード。
窓の外に顔を向けている彼は、まるで布越しの青空を眺めているかのようだ。
「それに……二人だけの部隊なぞ聞いたこともない。……連れ達の指揮は、大丈夫なのか?」
薄い唇の端を吊り上げる彼の言葉を聞いて、スティユがはっとしたようにマキューシオに視線を送った。
彼女の表情に気付き、マキューシオは静かに頷く。
「スティユ。皆を呼んできてくれないか」
「は、はいっ。……ですが……」
返事をしながらも、スティユは立ち去るのを渋った。
彼女の視線は、大きな鎌を携えた不審なエルヴァーンに向けられている。
「スティユ」
マキューシオは穏やかに、けれども静かな圧で彼女の名を呼ぶ。
すると彼女はぐっと唇を引き結び、しばらく迷った末に頷いた。
「……分かりました」
それだけ告げて、足早に屋敷を後にする。
その背を見送ったマキューシオは、再びフィルナードに向き直った。
「施しを受けるのは……お前の連れが来てからにしてもらいたい」
そう言って、フィルナードは背筋をわずかに伸ばした。
「ここまできて隙を作るほど、俺も疲れてはいないのでな」
マキューシオはしばし言葉を失い、ただ彼を見つめていた。
そしてゆっくりと目を細め、ふと後ろにいるアライザに視線を向ける。
彼女は、恨めしそうな表情で兄の後ろ姿を見つめ、そしてマキューシオに小さく頭を下げた。
* * *
半刻後、スティユが仲間の戦士たちを連れて戻ってきた。
彼らはそのまま屋敷に陣を張り、この場所を一時的な拠点とすることになった。
一階には戦士達が詰め、アライザ達難民は二階に移るよう指示が出る。
日が傾き始め、燃え尽きた灰色の街は、橙色の光に静かに染まりつつあった。
マキューシオは今、二階の奥にある一室でフィルナードと二人きりになっていた。
彼の傷の状態が予測できないため、治療はアライザ達とは別の部屋で行うことにしたのだ。
この部屋は、いくつかの窓に戸が閉じられており、どうやら火の手も届かなかったらしい。
年季の入ったテーブルの上には、脱いだ鎧や防具が並べられている。
そして同じく古びた木の椅子に、フィルナードは静かに腰掛けていた。
鎧を脱いだ彼の服には、あらゆる箇所に血が滲んでいる。
その光景を目にした瞬間、マキューシオは焦燥感に息を呑んだ。
焦りを抑えつつ、扉をそっと閉める。
元気の良い甥達が不用意に入ってきてしまわぬよう、しっかりと閉める。
閉め切った室内でも、一階の戦士達の声や足音が微かに聞こえてくる。
その音はどこか頼もしく、また同時に、遠い別の世界のもののようでもあった。
「………想像していたよりも若いな」
治癒を進め、最後のケアルを施し終えたタイミングで、フィルナードがぼそりと呟いた。
マキューシオは一瞬、何の話かと眉を寄せたが、自分のことを見た感想を口にしたのだとすぐに理解し、思わず微笑を浮かべた。
―――どうやら、視覚は失われずに済んだようだ。
「エルヴァーンではないとは分かっていたが、意外だな」
「……目は、見えて?」
尋ねると、フィルナードは尚もじろじろと彼を観察しながら、無言で頷いた。
その目には、感謝や安堵など微塵も感じられない。
ただ研ぎ澄まされた刃のような鋭さだけがある。
何となく、彼がどのようなタイプの人間なのかを察したマキューシオは、礼儀も何もない彼の態度を気にする様子はなかった。
「他の傷も、大丈夫だろうか」
フィルナードはようやく視線を自分の身体へと移し、服に滲んだ血を指先で軽くなぞる。
いくつかの部位に触れて確認すると、小さく息をつき、すっと立ち上がった。
「……あぁ。助かった」
そう言って、呟くように『礼を言う』と付け加えると、何事もなかったかのように鎧に手を伸ばした。
傷は塞がっても、肉体にはまだ多少ダメージが残っているはずだ。
少しそのまま休めばいいものを。
マキューシオは思ったが、口には出さなかった。
今はそれよりも、マキューシオには少し気になることがあった。
治療を終えた直後。
フィルナードがまじまじとマキューシオを見つめ、ふと視線を外したその瞬間だ。
彼の表情に、何らかの、『確信』のようなものが見えた気がした。
表情の乏しい彼の中に潜む、“何か”を目撃したような感覚。
彼が何を考えたのかは分からない。
だが、それを見た瞬間―――マキューシオの中に冷たいものが走った。
今まで軍の人間を助けることなど、幾度となくしてきたことだ。
それなのに……なぜだろう、今までとは違う。
何かが絶対的に違う気がするのだ。
そう思った瞬間。
マキューシオは、フィルナードのことを異常に警戒している自分に気がついた。
彼は黙々と胴鎧を身につけ、次いで篭手に手を伸ばす。
―――――――コンコンッ。
「入るぞ」
扉がノックされ、ドルススの低くて落ち着いた声が聞こえた。
マキューシオがはっとして振り返ると、ゆっくりと扉が開かれ、真っ赤な夕日を背負った巨躯のガルカが姿を現した。
その瞬間だった。
背後でガシャッ!という金属音が響き、マキューシオは反射的に振り返った。
身構えるように肩を引き、無意識に警戒を強める。
視線の先――
フィルナードは足元に落ちた篭手を見下ろし、硬直していた。
黙りこくった彼を見て、マキューシオとドルススは思わず眉を寄せる。
すると、フィルナードの口からくぐもった笑い声が漏れた。
「……くく……そう怖がるな。ただ、手が滑っただけだ」
皮肉れた声で俯いたままそう言うと、ゆっくりとした動きで篭手を拾い上げる。
「俺の傷は治った。……もう仲間のところへ戻った方が良い。他にも仕事はあるだろう」
薄暗い部屋の中、扉から差し込む夕日の赤に照らされたフィルナードの姿は、ぞくりとするような不吉なものに見えた。
マキューシオは、その異様な光景から目を離さず、しばし彼を見つめていた。
そして、低く、静かに言葉を返す。
「……また、何かあったら……声をかけてくれ」
それだけを残して背を向け、扉の方へ歩み出す。
ドルススが無言で道を開け、二人は部屋を後にした。
扉が閉じると、夕日が作り出していた赤い道が断たれ、室内は再び深い闇に包まれる。
フィルナードは手に持った篭手に視線を落としたまま、じっと動かなかった。
「スティユがうるさくてな。様子を見に来たんだが……」
階段に向かう廊下を並んで歩きながら、ドルススが口を開いた。
「フィルナードを知ってる奴がいたんだ。何でも“狂犬”の異名を持つ騎士なんだそうだ。何を考えてるのか分からない男で、戦力としては一流でも、それ以外での信用は皆無……。そんな話をするもんだから、スティユが心配してなぁ。まったく、困ったもんだよ」
そう言って、苦笑しながら頭をかく。
だが、その隣で歩いていたマキューシオは、不意に立ち止まった。
ドルススが不思議そうに振り返ると、マキューシオはそっとフィルナードのいる部屋の方を振り返り、静かに言った。
「……ドルスス、君はどう思う?」
橙に染まる夕陽が、廊下の奥にある扉を照らしていた。
しばらく黙ってその扉を見つめていたドルススは、腕を組みながら溜め息をつく。
「さぁなぁ、俺もよく分からんよ。……ただ一つだけ言うなら―――」
視線をマキューシオに向け、言葉を結ぶ。
「……あの時、怖がったのは―――あちらさんだった気がするがな」
その言葉に、マキューシオは一度視線を落とすと、またそっと扉の方を見つめた。
その眼差しは、深く、何かを探るようだった。
それから数日間、マキューシオ達はその屋敷を拠点に、廃墟と化した街をくまなく探索した。
生存者の痕跡を求め、端から端まで歩き捜したが見つけること叶わず、街の外に逃れた民の探索に移行しようという話が持ち上がった。
調査班の代表者達が午前の報告を終え、それぞれの持ち場へ戻っていく。
その様子をマキューシオは黙って見送っていた。
「もう十分捜したが、諦めるしかなさそうだな。外に逃れた民に望みをかけるしかない」
太い腕を組みながら、ドルススがやや疲れの混じった声で言った。
「明日この街を出よう!じゃないと、外の連中も手遅れになって、ただのミイラ探しになるぞっ」
「ワジジッ。……でも、そうですね。そろそろ引き時かもしれません」
スティユは、ワジジの無神経な言葉をやんわりと咎めながらも、視線を落として同意した。
見張りを指揮しに行っているセトも同意見だったな。
そう思い返しながらマキューシオは顎に手を添え、小さく息を吐いた。
「チビ、チビだぞ、マキューシオ」
「………?」
突然不可解なことを言い出したワジジに視線を落とすと、彼はこちらの足元を指差していた。
その視線の先――外套の裾が、ぐいぐいと下に引っ張られている。
見ると、よろよろと不安定な足取りでマキューシオを見上げているのは、アライザの息子の弟の方だった。
「ろーれーるー?」
金というには少し薄い、アイボリー色の柔らかい髪を揺らしながら、幼児がそう言って首を傾げる。
「パー!おこらゆるぞっ!」
すぐさま、兄の少年が階段を一段ずつ丁寧に駆け下りてくる。
いつもならアライザがしっかり目を光らせているはずだが、今日は二人だけの姿に、皆が視線を交わし合う。
「んー?お前さん方、母さんはどうしたんだ?」
ドルススが問いかけると、兄は弟の手を引きながら『うえ!』と素早く答えた。
「ひるおじちゃんと、はなしてるの、ちょっと、まっててって、いわれたのにパーが」
「にぃーやっ!」
「おこらゆのはぼくなんだぞっ、パーはやく!」
足元でぎゃあぎゃあと小競り合いを始めた兄弟を見て、マキューシオは苦笑を浮かべて腰をかがめた。
困ったように笑いながらも、その背後の仲間たちに目を向けて言う。
「明日、街を出る方向で考えておこう。詳しい話はまた後で。私はこの子達を送ってくるから、先に食事を取ってくれ」
弟をそっと抱き上げながらそう告げると、仲間たちは一様に頷いた。
だが、その中でスティユだけが表情を曇らせる。
「あのっ、私も行きましょうか?」
「ん?なぜ?」
その進言を解さなかったマキューシオは自然な調子でそう尋ねる。
スティユの思うところを察した他の仲間達も、表情を少しばかり真剣なものにした。
「あー……考え様によっては、その子らは、少しの間俺達が面倒見てた方が良いかもしれんぞ?」
言いにくそうにドルススが言えば、スティユはぎゅっと唇を引き結び、ワジジが顔を上げた。
「また言い合いしてるんじゃないのか?昨日もやり合ってたしな。あの男、日増しに何だか荒れてきてるぞ」
「そーそー、うちもそう思うよ!」
ひょいっとセトが輪に飛び入ってきた。見張りは終わったらしい。
どこから聞いていたのか、耳をぴくぴくさせながらマキューシオに詰め寄る。
「スティユがあいつを警戒するのは当然!だってあいつの目、見た?絶対ヤバイって。一昨日、マキューシオのこと見てるあいつの顔、見ちゃったよ。ねぇ~、スティユ?あんまり関わろうとしない方がいいんじゃん?」
「セト、子供達の前だ」
マキューシオが無表情のままたしなめると、セトは「げっ」と口を押さえた。
だがすぐに、幼い二人を見て『どうせ何言ってるか分からないよっ』と苦笑いし、誤魔化す。
マキューシオは一人ひとりの顔を順に見回すと、小さく頷いて言った。
「……気にするな」
それだけを言い残して、兄弟を連れ、その場を後にした。
心配してくれるのは有り難い。
だが―――彼らには、ああいうことは口にして欲しくない。
そう思う一方で、マキューシオ自身もまた、フィルナードを警戒しているのは事実だ。
弟が首にしがみついてくる感触を感じながら、マキューシオは複雑な思いで奥の部屋へ向かっていた。
すると、手をつないでいた兄が、ふいに言った。
「ぼく、ひるおじちゃんだいすき」
不意の言葉に、マキューシオは目を丸くして少年を見下ろす。
「かっこいいし、つおいんだ。ぼく、ひるおじちゃんとけっこんしたいの」
無邪気な瞳がマキューシオを真っすぐに見上げている。
見上げられた彼は、自然と微笑みを浮かべた。
―――心は、申し訳なさでいっぱいだった。
「……セルズニック家の……お父様の無念をお忘れですか!?」
歩いていた先、目的の部屋の扉の向こうから、悲痛な叫びが響いてきた。
声の主は、間違いなくアライザ。
それを聞いた瞬間、手をつないでいた少年がぴたりと足を止め、その場から動かなくなる。
マキューシオは少年をじっと見下ろし、小さく頷いて言った。
「ここにいなさい」
そう言って弟をそっと下ろすと、二人の手をもう一度繋がせた。
弟を守るように抱きしめながら見上げてくる少年に微笑んでから、マキューシオは扉へと歩を進める。
「私は納得いきません!なぜそうフィルナードお兄様は―――!」
中から聞こえる声を無視して、マキューシオは容赦なく扉を叩いた。
ノックした瞬間、室内の声がぴたりと止み、駆け足がこちらへ近付いてくる。
勢いよく開いた扉の向こうに立っていたのは、顔を上気させ涙目のアライザだった。
予想通りの様子にマキューシオは動じることなく、後ろに控える少年達を示す。
彼女は一度部屋の中に視線を戻し、何も言わず子供達のもとに向かった。
「……おい」
彼女を見送るマキューシオに、暗い部屋の奥から声が掛かる。
窓を塞いだ室内は薄暗く、奥に腰掛ける男の影がぼんやりと見える
アライザが子供達を抱きかかえ足早に去るのを確認すると、マキューシオは静かに部屋へ足を踏み入れ、扉を閉めた。
「……何か?」
そう尋ねてみるものの、部屋に漂う空気からこれから何が起こるのかを悟っていた。
気付かれぬよう一瞬だけ腰の剣を確かめる。
横倒しになった家具の上から下りる重い鎧の音が、静かな部屋の中に響く。
フィルナードは壁に立て掛けてあった大鎌を手に取り、ゆっくりと歩みを進めた。
段々と闇に目が慣れてくる中、距離を縮めてくるエルヴァーンに目を細める。
六歩、五歩、四歩。
床が軋み、微かに埃が立つ。
三歩、二歩。
後一歩の距離で彼は止まった。
「……本当のことを言え」
少しの沈黙を置いた後、フィルナードがぼそりと言った。
「……それは何について」
「お前達は軍の人間じゃない」
穏やかな声で受け流そうとするマキューシオの言葉を遮り、低い声が鋭く突き刺さる。
そんなエルヴァーンを見上げているマキューシオは無表情だ。
全身から滲み出す圧力、闇のような瞳が真上から射抜いてくる。
「……何者だ、貴様ら」
フィルナードがそう言った瞬間、部屋を満たしていた緊張が一瞬で殺気へと塗り替えられた。
至近距離で、殺気のこもった眼差しで、大鎌を片手に立つフィルナード。
彼の全てが『逃げ場はない』とマキューシオに告げていた。
「………………」
マキューシオは沈黙を守り、ただ視線を返す。
フィルナードは一切動かず、答えを待つ。
やがて、無表情のままマキューシオが口を開いた。
「ならば、あなたにも答えてもらいたい」
そう言って、彼は無防備に漆黒のエルヴァーンに背を向けた。
普段通りの歩調で近くの窓まで歩くと、埃に構わず窓の戸を開け放った。
光が差し込み、部屋を一瞬にして照らす。
その途端、フィルナードは顔を背け、背中を向けた。
「………あなたは何かを隠している」
淡々と告げ、マキューシオは窓を閉める。
「出会った翌日からだ。あなたから乱れを感じるようになったのは。その焦燥と苛立ちは―――」
「それ以上言うな」
『殺しそうだ』―――と。
低く押し殺した声とともに、大鎌の刃が床をざり、と撫でた。
再び長い沈黙。
「…………俺の話を聞いただろう」
長い沈黙を置いてから、マキューシオに聞かせる意思があるのか疑わしい程微かな声で言う。
「軍の連中からは、“何を考えているのか分からない、殺し合いにしか興味を示さない狂犬だ”と言われている。確かに、地位も名声も興味はない。どうでもいいことだ。寧ろ俺からすれば、軍の連中こそ何を考えているのか分からなかったな」
少しだけマキューシオへ顔を向ける。
「……お前も同じ口だろう?マキューシオ」
その言葉には、数日前にマキューシオが彼から感じた『確信』と同じ響きがあった。
どこかで以前に出会っていたのではないか――そんな既視感すら覚える。
マキューシオが無言でいると、フィルナードは口元を歪めて笑った。
抑えきれない嘲笑が彼の体を小さく揺らす。
その揺ぎ無いフィルナードの確信。警戒はするが、まったく疑わないマキューシオの心。
二人のやり取りは、何もかもが不自然なほどに滑らかだった。
ほとんど互いを見透かしているかのように。
それに気づいたからこそ、フィルナードは笑っている。
お互いが感じた以上に、二人は同じなのかもしれない。
「……どうやらあなたは、大体のことはすでにお見通しのようだ。ならば答える必要はないでしょうね」
「くくく、それを言うならこちらも同じだろう?」
「買い被られては困るな。私はあなたが思っている程賢い男じゃない」
緊張感を孕んだフィルナード相手に、一歩も退かないマキューシオ。
一瞬、フィルナードは目を瞬かせ、そして声を立てて笑った。 黒髪を掴んでくしゃりと乱し、髪の隙間からマキューシオを横目に見やる。
「ふん……ずるい奴だな。よく言われないか?」
にやりと笑うフィルナードに対して、マキューシオは肩をすくめて見せた。
肯定的な彼を見て鼻で笑うとフィルナードは続ける。
「俺のことも、お前の予想で大体当たりだ。全てを話す気はない。お前は俺を理解する必要はないからな。話すとしたら―――それはお前に俺を理解させねばならなくなった時だ」
そういうフィルナードの口振りは、そんな時は永久に来ないと言っていた。
ゆっくりと元の倒れた家具の場所へ戻り、腰を下ろすフィルナード。
「アライザのことは気にするな。言ってはいないが………今後どうするかは伝えてある」
『それで結果がああだ』と、嘲るように付け加える。
ここ数日のアライザの様子を思い返し、マキューシオは合点がいった。
彼らの口論は言い争いではなく、アライザが一方的に異を唱えていただけだったのだ。
しばし考えた後、マキューシオは何も言わず扉へ向かう。 ノブに手をかけたその時――。
「おい」
低い声が再び呼び止める。
返事はせずに肩越しに軽く振り返ると、闇の中のフィルナードは笑っていた。
「今、お前を殺したらどうなる?」
「……セルズニック家の狂犬は、死んだのか?」
マキューシオは扉を開けながら、逆に尋ねた。
「いいや」
暗い部屋の奥で足を組みながら答えるフィルナード。
その言葉を聞くと、マキューシオは何も言わず静かに扉を閉めた。
フィルナードは彼が出て行った扉をしばしの間見つめると、大鎌を手に取り、傾いて立っていた埃まみれの柱時計を乱暴に両断した。
あとがき
何この長さ、何このボリューム、ちょっと待てよオイーーー。今までのリク小説と違い過ぎて非常に申し訳ないです…。
長らくお待たせいたしましたが、これで勘弁してください。orz
最後、二人が駆け引きを交わしている場面。
フィルナードの危険な探りに対し、挑発で返すマキューシオ。
狂犬の応えは「行動」で示されています。
読んだ方それぞれの解釈で味わっていただければ嬉しいです。
サイガさんリクエストありがとうございました!!
というか、リクエストの仕方があほ空間仕様!古奈戸て!(笑)