青と失名氏
2006/03/29公開
二杯目の紅茶が入れ終わってしまった。
トミーは几帳面にティースプーンの向きを整えてから、静かに大きく一度深呼吸をして紅茶を乗せたお盆を持ち上げた。
そして自分が戻ってきたということを一足早く相手に伝えるために『よいしょ』と言ってからキッチンを出る。
部屋に入っても待たせている相手、ロエをすぐに見ることはしない。
涙を隠す時間を与えるため、テーブルに近付くまではお盆に乗せた二つのティーカップをじっと見下ろしたまま歩く。
泣いた後でまだ喉が引きつっているのが耳で分かったが、声を上げて泣いていた先程とは大分マシになっている。
そのことに少しほっとして、トミーはテーブルの脇にお盆を置くとそっとロエに視線を向けた。
…あ~~う~~わ~~~…。
残念なことに、ロエはまだまだ泣き止んではいなかった。
断片的にではあるが、彼女の涙の理由は大まかに聞いた。
何かを言おうとすればするほど泣く勢いが増していくような状況だったので、少し落ち着くための時間を設けようとトミーは二杯目の紅茶を入れにキッチンに下がったのである。
結局、紅茶を入れ直してテーブルへ戻ってみてもロエはまだ泣き止んでいなかったわけだが。
タルタル族の個性的な鼻の頭は赤らんで、瞳は涙でキラキラとしていた。
その姿が可愛らしいとも思ったが、そんなことを呑気に思っていられるような状況でもない。
トミーはティーカップをロエの前にそっと出して、自分は彼女の正面の椅子に腰掛けた。
自分の分の紅茶を下ろすとお盆を脇にどかして一息つく。
そして、とりあえずはロエの方から話を始めるのを待つことにした。
自分の紅茶に視線を落としてロエからの言葉を待つ間、トミーはトミーでこれまでに聞いた彼女からの言葉を自分の中で整理する。
あまりにも話が飛び過ぎていてよくは分からないのであるが、頭の中にある男の姿を思い浮かべると眉根を寄せてぐっと口を引き結んだ。
「…………駄目です……」
予想していたよりも早く、喉を引きつらせながらロエが口を開いた。
待っていたと言わんばかりにトミーはすぐさま顔を上げる。
「駄目なんです私…っ……本当に全然駄目で……」
「むぅ…」
テーブルの下でぎゅっと握っている小さな手を見下ろしたまま唱えるロエを見て、トミーのしかめた顔が一層表情を険しくする。
「ロエさんは駄目なんかじゃないですっ。もぉ………ダンめ……何か酷いこと言ったんだなぁぁ~」
勝手に想像してトミーが唸りつつ歯噛みする。
恐らくこの場に本人がいたら、『は?』ととんでもなく疲れたような顔をするに違いない。
「前…から思ってました……ダンさんからよく思われてないんじゃないかって……。しょうがないですよね、私、取り得はありませんし……会話を盛り上げることもできない……。お話してもすぐに会話は途切れてしまって、ダンさんも疲れてしまいますよね……」
先日のジャグナーの一件では彼を責めるように喚き散らしてしまったし、今日は彼の指示を無視して手を焼かせてしまった。
ダンは内心うんざりしているに違いない。
そう言いながらロエは見る見る内に再び目に涙を溜めていく。
ダンが彼女に対してどのような態度を取ったのかは分からないが、しょっちゅうダンの罵声の対象になっているトミーは、彼がロエを傷付けたのだとすぐに予想がついた。
トミーは胸中ダンに文句を言いつつ、自分は駄目だと捲くし立てているロエをなだめなければと口を開く。
「そんなことな―――」
「羨ましいです、トミーさんが」
「―――ほっ?」
いきなりはっきりと放たれたその一言にトミーは間抜けな声を出して目をしばたかせた。
ロエはより一層深く俯いて続ける。
「トミーさんと一緒にいる時、ダンさんはとても楽しそうです。私にはできません、ダンさんにあんな顔をさせることは……」
「あ、あんな顔?私には怖い顔してばっかりですよぉ」
「違いますっ」
「う……お…怒らせてばかりですし」
「何を言うんですかあんなに仲良しじゃないですか~」
恐る恐るトミーが言葉を返しているとロエがそう言いながら顔を上げた。
その時の彼女の眼差しが真っ直ぐで、何か迫力に似たものを感じてトミーは思わず姿勢を正す。
「お二人とも本当に仲が良くて…私――――」
ロエはそこまで言ったところではたと言葉を止めた。
そして酷く驚いた顔をすると、バッと自分の口を手で押さえる。
―――――あぁ……そっか、ロエさんは……。
途端に顔を真っ赤にして黙り込んでしまったロエを眺めて、トミーはぼんやりと考えた。
目の前で硬直している彼女を見ると、彼女自身も今この瞬間に気がついたというような様子である。
とんでもないことをしてしまったとでも言うような顔をしているロエに、トミーは何だか頭の中が一気に冷えていくような感覚を覚えた。
「……う~ん………確かに仲が悪いわけじゃないかもですけど……。でもダンがロエさんのことを悪く思ってるなんてことはありませんよ~絶対ッ」
何も言えず、寧ろ何を言われてしまうのだろうと少々怯えさえ見て取れるロエに対してこう切り出した。
「逆に私はロエさんみたいにしっかりしてませんから、ダンの力になれません……。ダンがロエさんに頼ってる部分はいくつもあると思いますよ?何かキツイこと言われたんだとしたらあまり気にしないでください。ダンは私にだってパリスさんにだって誰にだって口悪いんですから!」
そう言うトミーの心に、重く苦しい何かがじわりと滲んだ。
何故だか、どんなに頑張っても困ったような笑みしか作れない。
それでも懸命にロエを励まそうと捲くし立てながら、ふとダンの姿が脳裏に浮かぶ。
彼の名を心の声が何度か呼んだが、想像の彼はいつもの気難しそうな顔をしてじっと遠くを見つめているだけだった。
* * *
ジュノの最上層であるル・ルデの庭は、下のジュノ上層や下層とは少々雰囲気が異なる。
地盤自体が全体的に白く、町中の賑わいから遠ざかった厳かな空気の場所で民間人はあまり出入りしない層だ。
ル・ルデの庭にも競売所はあるが、そこを利用するのは主に冒険者達である。
何故他の層と雰囲気が違うかというと、ル・ルデの庭には他層のような民家や店は存在せず、ジュノ公国の大公宮と他三カ国の領事館があるのみだからだ。
その名の通り広く美しい庭のような造りのル・ルデの庭。
一つの層にしては立体的な造りで、中央を囲むようにした通路から階段を下りると大きな噴水がある。
その噴水のある広場を囲むようにしてサンドリア、バストゥーク、ウィンダスの各領事館が置かれていた。
国から依頼されるミッションを数多くこなしたランクの高い冒険者達は、ジュノと自国の掛け橋的な役割として大使館に出入りすることも度々ある。
他でもないダンもそういったランクの冒険者なので、大使館に顔を出すのはこれが初めてのことではなかった。
ダンはル・ルデの庭に設けられているサンドリアの大使館から出ると、そのまま歩きながら大使館の建物を振り返って頭をかいた。
ジュノの建造物の特徴とも言える白色の大使館に厳しい視線を向けるとため息をつく。
…………ありゃぁ駄目だな……。
内心そう零すと、心なしか凝ってしまった肩を擦りながらレンタルハウスへと足を向ける。
サンドリア大使館にデルクフでのことを報告した。
だが、大使館の中はそれどころではないとでも言いたそうな雰囲気に満たされていた。
事情は分からないがとにかく非常に立て込んでいるようだった。
大使館の奥の方が慌しく、受付にいた者もどこか落ち着かない様子でダンの報告を聞いていた。
これから急遽要人が視察にくるとでもいうような混乱だった。
大使館は決して暇ではないことくらいダンも心得ているが、今回のことはさすがにしっかり対応してもらいたい。
こなしたミッションの報告とは違うのだ、犯罪が起きたのだから。
しかしこの件に関する報告書は、重責の者の目に届くまで恐らく時間が掛かるだろう。
あの様子では何処かに紛れ込んで紛失されても不思議ではない。
後日改めてちゃんと報告しに来た方がいい。ダンはそう判断して自分のレンタルハウスまで戻ることにした。
しなければならないこと、考えなければならないことがあり過ぎる。
寄ったきりの眉間のしわを意識して舌打ちをしつつ冒険者の居住区通路を歩く。
ダンはひとまず落ち着いて状況を整理しようと、自分のレンタルハウスのドアを開けた。
溜め息をつきながら足元に落としていた視線を上げると、部屋の中に来客がいた。
「おかえりダ~リン☆」
ベッドの上に寝転がって自分の髪で遊んでいる男がダンを振り返って笑顔になる。
いつもの白魔道士のアーティファクト装備よりも更に上等なローブ姿の男、ロ-ディはそのさらさらの金髪を二つ結いにした頭で首を傾げてみせる。
『ただいまのチューは?』とか何とか言う彼の言葉を背中に聞きながら、ダンは無言のままドアを閉めた。
不法侵入だ何だと言う気すら起こらない、どうやって入ったのかという疑問を抱くのもこの際面倒である。
重い装備品を取り外しながらテーブルに歩み寄りつつ室内を見ると、モーグリはこの変態から逃亡したようだ、姿が見えない。
賢明な行動だとモーグリを評価し、ダンは盾をテーブルの上にごとりと置いた。
ダンの興味を引こうと色々やっている変態をシカトし続けるダンに、変態は逆にご満悦のようである。
嬉しそうに独特の笑い声を発しながらベッドの上に寝転んで頬杖を付いた。
「きひっ、ねぇねぇあの後どぅなった?どぅーなった?」
好奇心一色のその問いに対し、ダンは途端に鋭い視線を横目に送る。
腰からはずした剣をテーブルの上にがんと置くと、変態に向き直った。
「…お前は何を知ってる?」
「な~んにも、知らにゃいにょん♪」
即答した変態を凝視すると、ダンはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
テーブルに肘を着いて険しい視線を足元に落とすダンを見、変態は声のオクターブを上げる。
「きひひひっ、ダン変なの、もっと問い詰めてよ。激しさが足りないぞぇ☆」
「うるせぇ」
「にゃっは~静かにテンパッてるのぅ!ダンてばテンパッてる!?略して『ダンパッてる』!!!」
「黙れ」
大はしゃぎする変態に凄みのある声と共に睨むが、変態の興奮は収まらず。
「最近のダン新鮮だぞ~ぃ萌えぇぇぇぇッッ!」
「どうしてお前があの場にいた?」
「その痛烈な無視加減が更にMOE☆」
結うほどの充分な長さがない二つ結いされた変態の頭は、変態が暴れれば暴れるほどその艶やかさ故にほつれていく。
今の段階ですでにわけの分からない髪形になっている変態は、気色悪い可愛さのある顔をして口を尖らせると言った。
「みゅ~ん違うんだよぉ~ダン聞いてよぉ~。折角俺様がダンとのデート放棄してまで行ってやったのにさぁ~契約相手が遅刻!二流のくせに生意気だからまたすぐに戻ったのらー」
ダン達に同行している間付けていた自分の仲間の尾行者を引き上げさせて仲間を皆現地に集合させたので、自力でダン達を探したのだという。
やはり変態は仲間を連れてきていたようだ。
彼の言う『現地』が何処なのか、又、変態とその仲間達が一体何をしているのか、次から次へとダンの中に疑問が湧き出る。
しかし何よりもダンにとって問題だったのは、変態が自分達と別れると同時に、付けていた仲間を引き上げさせたことであった。
思考を表情に表すダンを尻目に変態はそのまま説明を続ける。
クフィムを探した末、ダンよりも先にトミーとパリスの姿を見つけたらしい。
そしてとりあえず二人を追ってみて………だそうだ。
「きひっ、きっひゃ~しかし面白かったぞぃ!あぁいう予想外の展開大好き!!」
「待て、待てよオイ」
当時のことを思い返してうっとりと言う変態にいい加減黙っていられなくなったダンが口を挟んだ。
「本当に…そうなのか?……………お前」
「ビックリしたなりよ、てっきり俺様きゃつの狙いはダンだと思ってたからにゃ~♪」
「やっぱり気付いてたのかエルヴァーンの男に」
思わず椅子から腰を上げたダンに満面の笑みを向けながら変態は『むん』と深く頷く。
「リンクシェルの方でも『何かいる』ってうるさかったのよ。最初はダンが俺様に何か仕組んでんのかにゃ~と思ってきゅんきゅんしてたんだけどのぅ。でもその内俺様狙いじゃな~いって感じたのだ。んじゃあダンだなぁと思ったなり☆」
ニヤニヤと頬を緩ませて『だから俺様警告したじゃんダンに』と言う。
つまりこの変態は、ダンがどこかで作った敵がお礼をしに来ているのだと思ったのである。
なものだから、変態にとってあの展開は非常に面白いものだったというわけだ。
「あぁ~ん、もしもあれがダン目当てだったら助けて恩着せられたのにの~ぅ」
天井を見上げると惜しそうに右手の人差し指を咥えて気持ちの悪い声を出す。
ダンはとてつもなく不快ですぐにでも部屋から叩き出したい彼を呆然と見つめた。
そしてゆっくりと視線を明後日の方向に流すと、力無く再び椅子に腰を下ろす。
座り込んで額に手を当て必死に考えるそのダンの姿は、やはり変態が言う通り珍しいものであった。
「…………俺もそう思った…」
「俺様に恩着せて欲しかった!!?」
「違う、俺狙いだと思ってた」
「俺様はいつもダンをロックオンだぞぃ☆ダン狙いなのは俺様だけでいいの!」
「てめっ……もとはと言えばお前が紛らわしいこと言うからじゃねぇかクソッ」
「きひっ!」
「いや、『きひ』じゃねぇよ」
ダンは変態のように早い段階からエルヴァーンの男に気がついていたわけではなかった。
ただ、変態が帰る際に放った不可解な発言を聞き、何となく何者かの視線が向けられているように感じていた程度。
変態の捨て台詞が気になって何者かにつけられているのではと感じるようになったが、逆に気にするあまりそんな気がしてしまうだけなのではとも思っていた。
それに万が一何者かがつけていたとしても狙いは自分であると確信していた、今考えれば何の根拠もない。
とにかく、まさかトミー狙いの者がいようとは夢にも思わず。
あの時の無用心な油断が酷く悔やまれ、ダンの自分への苛立ちは相当のものだった。
もしもパリスがいなかったら、どうなっていた?
もしかしたら、正義感に暴走したあの背中が。
最後に自分が見た彼女の姿になるところだったと?
はっきりと言える。
冗 談 じ ゃ な い 。
「ダ~ン~?」
悶々と考えて胸中パリスに心の底から礼を述べていると、ローディが不思議そうに呼ぶ。
眩暈を感じる頭を振り、思考の中に身を投じる前に意識を留めた。
「……………あぁあ~……もう時間切れか」
―――――と、いきなり変態が酷く不機嫌そうな声でそう呟いた。
意味の分からないその言葉に疑問符を浮かべると、不意に部屋のドアがノックされた。
ぴくりと反応するダンをよそに、変態はまるで自分の部屋かのように『入っちょー』とノックに答える。
ドアが開くと、がっちりと武装した髭面のヒュームの男が立っていた。
険しい表情の男が口を開く前に、ローディは不平を言う子どものように口を尖らせて言った。
「奴が動いたんでしょ?このままここで指揮するって言ったがのぅ」
「総帥」
「俺様最近マジカルで本末転倒なんだよな~遊ぶ暇な~いプンプンッ」
「総帥」
「オブザーバーのことなら5から20は飛べって言った。逃げようとしたって無駄だ、俺様かくれんぼ大好きだもん☆ダンも俺様から逃げようとしたって無駄だからにゃー、三日以内に見つけちゃうぞ♪」
勝手にペラペラと内輪ネタを話し出したかと思うと、急にダンへ話を振り、ばちりとウィンクする。
『何言ってんだお前』というような顔を向けると変態は満足そうに笑い、ぴょんと飛び上がってベッドの上に仁王立ちした。
「さっきからずっと5人がキてキてキてキてうるさ~くて俺様メッチャモテモテ!!悪いが俺様イくぞぇ、久々に大きな狩りの仕事があるのじゃーきっひひひひ」
「狩り?」
「だから超忙しいの!にゃ~にゃ~ダンも一緒に遊ばない!?」
「総帥」
「おkおk聞こえたっちゃ、20分後にアタック仕掛けるぞぇ」
ベッドにギシッと座り、やんちゃ坊主が長靴でも履くように足を上げてブーツを履いた。
そしてリスニング不可能な多会話重複の言葉をぶつぶつと零しつつドアへと歩く。
ドアの外でじっと待機している男は半歩下がってローディに道を開けた。
「ダンの方も忙しくなりそうだな、きっひっひ♪俺様の今日のお遊びは神経衰弱なり!レッツどん☆」
最高に上機嫌な声でそう言いながら、『あでゅ!』とローブの裾をなびかせ外へと駆け出て行った。
そしてローディの遠退いていく『キーーーンッ』という声が聞こえ、迎えに参じたヒュームの髭面男はドアを閉めてその後を追って行く。
ドアを閉める前に一瞬、ダンのことをじっと凝視して。
* * *
透き通った、何処までも続いていて終わりの無い。
柔らかい、風の中のような、安心・不安のどちらも感じない。
静かで、胸に迫る美しさ、でも何かが絶対的に足りないような。
何度包まれても、どう表現するのが的確なのか分からないその色。
もうずっと長い間その中に一人で佇んでいるような気がする。
自分が何処を見つめているのか分からない、視界全体が同じ色に包まれているから。
――――――不意に、ハッとすると自分の部屋に立ち尽くしていた。
周りを包んでいた青は消え、いつものレンタルハウスの中央にぽつりと一人。
時計を見て針が示している時間を見るとゆっくりと一つ溜め息をついた。
あ……見送りに行きそびれちゃった………。
ぼーっとしながらそう思った後、今日はあの男の見送りがあったのだと思い出す。
今まで幾度と無く世話になった彼が、遠くへ行くことになった。
だから皆で賑やかに見送ろうと自分が言い出して、そう、彼に感謝と別れを告げる場を。
こんな時間だもの、もうとっくにあの人は行ってしまったよね。
「あぁあ………あぁ~あ~残念っ」
足元に視線を落として子どもじみた強がるような口調で独りごちたら、ぽろりと涙が零れた。
にこと笑っていた口元が歪み、視界が涙でぼやけていく過程。
口から泣き声が漏れ出しそうだと感じた時、ふと耳に誰かの声が届いた。
疑問に思って顔を上げると、部屋の中には誰もいないのに段々と声が聞こえてくる。
何処からともなく、複数の色々な声が微かに響いて耳に届く。
中には親しみを感じる声や懐かしさを覚える声があったが、何を言っているかは分からなかった。
そして、それらの声の中にあるのではと瞬時に期待を膨らませたあの人の声は聞こえない。
装備品がなってないとか、そっちじゃないと嗜めるあの人の不機嫌な声がない。
こんなに幾つも声が聞こえるのに、どうしてあの人の声だけがないのだろう?
じわりじわりと木霊する複数の声の中、必死に探すが見つからない。
変わりに、一つの声が妙に強く自分に響いて届いているのを感じた。
その声はやはり何を言っているのか分からなかったが、誰かを呼んでいる声だった。
呼んでる、何度も何度も叫んでる。
誰を呼んでいるのだろう、どうして呼ばれている人は気付いてあげないの?
可哀想だよ、あんなに一生懸命呼んでるのに。
………そうだ私も、呼んでみようか。
胸に響くその一つの声に習って、自分も呼んでみようと思った。
そう、あの声のように、いつまでも呼び続けたい、声を失ったって何だって。
『もういない』?
『行っちゃ駄目』?
そんなこと言われたって。
頭では理解したつもりだったけど、やっぱりあの人がいないなんて考えられない。
唯一甘えられるあの人の怒った声が、迷子になった時に引っ張り戻してくれるあの人の手が。
なくなってしまったら私はどうすればいいのか………。
ぽろり……ぽろりと涙が零れ落ちる目をこすって、大きく息を吸い込んだ。
そこでふと、呼ぶ名前の選択肢が二つあることに気がついた。
――――もう一人は…………誰?
――さっきから私は誰と話しているの?
気がつくと周りの景色が、徐々にいつもの不思議な青に塗り潰されていく。
……………来る!!!!!!
と思った直後に、薄っすらと塗り潰されていく部屋のドアがびきびきと音を立て始める。
目を見張ると、ドアをこじ開けようとしているのは血にまみれた男の手。
あの不思議な青が見られる夢に必ず現れる男だと分かると、足がすくんで動けなくなってしまった。
周りに木霊するいくつもの声が段々と大きくなっていく。
騒がしくなる中逃げ出すこともできず、助けを求める声すら出せない。
――――――ドアが破られ……
冷たいベッドの布団の中で、トミーは一人泣いていた。
呼びたい名前を口にせぬよう嗚咽の漏れる口を押さえて。
あとがき
第三章はご覧の通り展開がハイパースローペースです。そして今回色々とドロドロしましたが、まだまだコレ前菜です。
次回は某二人の想いが克明に描かれますので超アレですから。(←どんな宣言だ)