犬牙錯綜
2006/01/11公開
まるで時が止まったかのように何も動かず、音もしなかった。
鎌を持ったノルヴェルトが刺すような眼差しで見下ろしているのはエルヴァーンの男。
鎧ではなく布製の防具を身につけ、腰には一振りの剣を下げている。
首に鎌を当てがった瞬間から硬直した男は、指先すら動かすこともできず静止している。
大概身の危険を感じた者は体を震わせ呼吸を乱すものだが、この男はそんなことはなく、ただ完全に固まっていた。
あまりの恐怖に呼吸すら止まってしまったのだろうか、それとも……。
観察すればするほど疑念は強まっていく。
そして、彼の目の前で倒れたままぴくりともしないヒュームの娘が気に掛かって仕方が無かった。
彼女の身に何が起きている?
どうして彼女は気を失っているのだ?
あそこで死んでいる巨人に襲われたのだろうか?
何故この男は無傷なのだ?やはり仲間ではなかったのか。
この男などさっさと斬り捨てて、早く彼女に手を伸ばしたい。
気が狂いそうな程のその衝動を押し留めているのは、十七年という長い時間であった。
どう切り出したら良いのかなど想像もつかない。
ましてや、彼女が本当にあの少女なのかもまだ分からないというのに。
必死の思いで後を追ってきたものの、まだ充分に心の準備ができていないことに今更気がついた。
とにかく今は、目の前に敵がいる。
惑う気持ちを振り払って、ノルヴェルトはじりじりと体を焦がす殺意に集中した。
まずは彼女にとっての災いを拭うのが先だ。
ノルヴェルトは自分の質問に答えるよう促すため、男の首に当てた鎌を無言のままカチ…と持ち直した。
するとその意を読み取ったのか、強張った男の肩がぴくりと反応する。
「………えー………僕ぁ……人畜無害な一般冒険者です…が……?」
声は引きつっているものの、いまいち危機感に欠ける回答が返ってきた。
この男は今までの刺客達とは風貌からして明らかに異なるが、平民を装って命を狙ってきた刺客も過去にいた、油断はできない。
それに、どうにも上手く相手の感情が読み取れなかった。
この男は何を考えている?
あまりの恐怖で錯乱状態に陥りそんなことを言っているのか?
「……お宅様は?」
ノルヴェルトが疑念を強くしている内に、意外にも質問が返ってきた。
色素の薄い金髪、アイボリーカラーの髪の反対側で、この男はどんな顔をしているのだろう。
急く気持ちに苛付きつつ、奥歯を食い縛ったノルヴェルトは『立て』と命令した。
少し首から鎌を離すとそれで精神的ゆとりができたのか、『アララ、無視ですか』と口の中でもごもご言いながら男がゆっくりと立ち上がる。
彼がそぉっと立ち上がり終えた時には、自然と両手が肩まで上げられた降参態勢になっていた。
私や貴様のことなどどうでも良い。
私が知りたいのは………
ノルヴェルトは逸る気持ちを押さえ切れずに、ちらりと一瞬だけ倒れている娘に視線をやってから尋ねた。
「………………彼女の………名は何と言う?」
その問いを口にするのには、予想以上に勇気が要った。
もしかしたら平静を装おうとしているこちらの心情が声ににじみ出ていたかもしれない。
尋ねた瞬間急激に緊張したノルヴェルトだったが、背を向けて立っている男は軽い口調で答えた。
「…そんなぁ……好きな子の名前くらい自分で聞いてくださいよ~」
ノルヴェルトは一瞬、彼が何を言ったのか理解できなかった。
相変わらずの引きつった声ではあるが、何故この状況でそういうことが言える?
不信感を一層強めたノルヴェルトは次の瞬間には男の襟足を掴んで壁に突き飛ばした。
足元に散らばっている瓦礫に足を取られ、男は無様に短い呻き声を漏らして壁にぶつかった。
ヒュームの娘が倒れているすぐ横の壁に張り付いた男の右肩を掴んでこちらを向かせる。
声の通りに引きつった顔をしている男の胸倉を掴んで引き寄せると、ノルヴェルトは再び彼の首元に鎌の刃を押し付けた。
視線は送らずとも意識を一瞬だけ倒れたヒュームの娘に向ける。
もしこの男が本性を現した時に、彼女に危害が及ばないようにしなければ。
強張った顔でこちらを見ている男は、ノルヴェルトが思っていたよりも若かった。
正面から見て気がついたが、男は体の所々に細かく血を浴びた痕跡があり、顔も血を擦ったように汚れていた。
血の色からして巨人のもののようだ、しかし……。
ノルヴェルトは目に付くエルヴァーン族の特徴に嫌悪しながら、噛み殺したような声で言う。
「エルヴァーンは信用できない……」
「おや、僕にはあなたもエルヴァーンに見えますけどねぇ?」
鎌を突きつけられた恐怖に耐えるような表情の中で、男がそう言うと苦笑を浮かべた。
その言葉にピクリと眉を動かすと、ノルヴェルトは睨みつける目の殺気の色に別の色を混ぜて一層険しい表情へと変わった。
「私は………自分がエルヴァーンであることが呪わしい……!」
そう答えながらノルヴェルトは確信していた、この男は何かを知っていると。
何故この男は自分を前にしてこんなにも余裕でいられる?
何も知らない一般人なのであれば、パニックを起こして喚き騒いでもおかしくはない。
寧ろそちらの方が自然である。
鎌を突きつければ何でも答えそうなものだし、呪文のように命乞いの言葉を並べるのが普通だ。
それなのにこの男の態度は―――――
一瞬で、両手の平を見せていた男の手が腰に下げた剣を掴んだ!
そう男が動くと同時に、ノルヴェルトの体も無意識に近い反射で動く!
ばつっという音がして、剣を抜こうとした男の腹を黒い大鎌の刃が大きく裂いた。
その瞬間驚愕したように見開く男の瞳をノルヴェルトはじっと見つめる。
今までに数え切れない程見てきた、人が死ぬ瞬間。
ノルヴェルトはその場に崩れる男の体を冷たく見送っていたが、不意に、生気を失った男の姿がぶれた。
そして倒れ行く体から押し出されるようにしてもう一つの体が姿を現す。
それに目を見張ったノルヴェルトは咄嗟に鎌を握る手に力を込めた。
どうやら今斬ったのは幻影だったようだ――――そういえばそんな魔法が存在した!
しかし、幻影ではない本体の方の男は心底驚いたような顔をしており、そのまま後ろに倒れかかってどんと壁に背中を預ける。
何が起きたのか分からないという愕然とした顔であった。
もしかすると、自分で魔法の効果のことを忘れていたのかもしれない。
本来ならその幻影でのワンクッションを上手く利用して反撃に出るものだ。
酷く驚いた様子の男にノルヴェルトも一瞬たじろいだが、思い出したように再び剣を抜く男の動きには即座に反応した。
男が剣を抜き払うと、その細身の剣はそのままぽーんと宙を飛んで地面に落ちる。
剣を握っていた男の指が辺りに飛び散った。
何故剣が手元を離れていったのかすぐに理解できなかった様子の男は、血をばら撒いている自分の手を不思議そうに見下ろしてから苦笑を浮かべる。
一瞬の一撃に続いてノルヴェルトが空を切り唸りを上げる鎌の柄を横に払うと、男はギリギリのところで屈んでそれを避けると横へと身を投じた。
先程は咄嗟に殺してしまいそうだったが、まだこの男から聞き出すべきことがある。
床を軽やかに一度転がってノルヴェルトの正面から脱し、男は飛んで落ちた自分の剣をまだ無事な左手で掴んだ。
即死しない箇所、足を狙ってノルヴェルトが鎌を振るうと、男の剣が辛うじて鎌の刃を受止めそのまま余所へ受け流した。
しかし、足を持っていかれることを回避できたものの大鎌相手に左手では力が足らず、剣は男の手から弾け飛んで再び弧を描いた。
衝撃に顔をしかめる男の胸に思い切り蹴りを入れ壁に叩き付けると、あまりの威力に反動で壁から突き飛ばされた男の首を掴まえた。
これで男は、利き手に指はない、武器もない、魔法も詠唱できない。
「…ぅく………あっ…」
くぐもった声を漏らす男はさすがに苦しげな表情で身動ぎをした。
まだ無事な手と指の無くなった手の両方でノルヴェルトの手を掴む。
特に締め付けているわけではないが、今の蹴りが呼吸器に影響を及ぼしたらしく男は酷く苦しげだった。
「貴様の狙いは何だ」
冷たい言葉で尋ねて、それからノルヴェルトは首を掴む手を離した。
すると男はその場に脱力してずるずると座り込むと激しく咽る。
もしこの男が本当にテュークロッスの部下なのだとしたら、それは大問題だ。
まだ連中はあの夫妻の死を知らないはずなのだから。
あの夫妻は娘と共に何処かで隠れ生きていると思わせて、今まで、自分だけが追われてきた。
しかし、もし連中が何らかの情報により夫妻の死を知っていたら?
親子は何処かで生きていると思わせておいて、自分が必死に少女を捜し続けていると知っていたら?
そしてもし、連中の方が先にその少女を見つけたのだとしたら?
指の無い手を抱き込むようにしてノルヴェルトを見上げる男は、血を失って見る見る内に生気を無くしていく。
今も苦しげに呼吸している様子からして、先程の蹴りで骨が折れたのかもしれない。
そこまで考えて、ノルヴェルトは咽て血を吐いている男からようやくヒュームの娘へと視線を向けた。
そして一向に目が覚める気配のない彼女を見て一気に血の気が引く。
――――――……もしや…!?
ノルヴェルトは思わず娘の方へと足を向けてしまった。
その咄嗟の軽率な行動に自身驚いて、ノルヴェルトは即座に後ろで座り込んでいる男を振り返る。
男は、壁に背を預けて力なく座り込んだまま、じっと己の足元を見つめていた。
一瞬生き絶えたのかと思ったが、まだか細く息はある、生きている。
そして男はゆっくりとこちらに視線を向けた。
「…………!?」
ノルヴェルトはその男の顔に浮かんだ表情に目を見張り、体がさっと冷えるのを感じた。
――――――――何故だ!?
一気に頭の中が混乱する。
――――――これは、罠?
――――自分は上手く誘い込まれたのか?
――――――――――まさか……彼女…も?
―――――――――罠、狙いは私か!?
恐ろしい推測が浮かび上がり、ノルヴェルトは信じられないという顔で娘を見た。
すぐに男へと視線を戻すが、見ても相変わらず男からは動こうという意思を感じなかった。
分からない、何をどう見て、どれを信じて、どう動けば良いのか。
ノルヴェルトは悲しげに娘を振り返ると、歯噛みして鎌を構えた。
そして座り込んでいる男に視線を戻すと、その大きな刃で彼に止めを刺すべく振りかぶった。
「貴様……っ!」
――――と、その瞬間にノルヴェルトの鎌を振るう腕がびくりと動きを止めた。
呆然とノルヴェルトを眺めていた男が不思議そうな目をする。
ノルヴェルトは驚愕の表情で背後を振り返った。
「ぶっぶー、誰君☆」
振り返った先には、金髪碧眼のヒュームの男が鎌の柄を掴んで立っていた。
「!!!!?」
仰天したノルヴェルトはその掴んだ手を振り払って大きく飛び退く。
魔道士の高等なローブを着たその男は、笑みを浮かべたままあっさりと鎌から手を離した。
いつの間に現れた!?男の仲間か!!
「―――――おい、何処だ!?」
すると遠くから声が響いてきた。
現れた金髪の男を凝視しながらノルヴェルトがびくりとすると、座り込んでいたエルヴァーンの男が声のした方に向かって弱々しい声で言う。
「こっちこっち~………お願いだから早く来てぇ~~…」
「……っ!!」
ノルヴェルトはわけが分からぬまま数歩後退ると、ヒュームの娘に視線を向ける。
やっと……やっと見つけたと……!
彼女をこの場から連れ出そうかと思わず彼女に向かって手を伸ばしかけるが、視界の中で彼女に向けられた自分の手が血で赤く濡れていることに驚愕し、まるでその手を恐れるかのように慌てて引っ込めてしまった。
代わりに彼女を欲する瞳が叫ぶ。
ソレリ。
貴女は、ソレリ?
目を開けて、私を見てほしい。
ノルヴェルトはじっと彼女を見つめてから、黒い外套を翻し彼女や二人の男達に背を向けて走り去った。
エルヴァーンの男は当然だが、金髪のヒュームの男も彼を追おうとはしなかった。
こうしてノルヴェルトは、デルクフの薄暗い通路の先に姿を消した。
「げげっ、何よどーしたのよこれ!?」
ノルヴェルトが姿を消すのとほぼ入れ違いに、遅れて塔に入った三人がやってきた。
ビックリして大声をあげるリオとは違い、ロエは手で口元を押さえて絶句している。
彼女達を追い抜いて進み出たダンも何事かという顔をしていた。
通路の真ん中に立ってノルヴェルトが去っていった方を見つめている金髪碧眼の男、ローディに『何故お前がここにいる』という眼差しを向けた後、酷い有様のエルヴァーンを見下ろして愕然とする。
血まみれで座り込んでいるエルヴァーンのパリスは、視界の霞む中ダンを見上げると、僅かに残った力を振り絞って口の端を吊り上げた。
よく見えないがダンのしかめた顔がじっと見下ろしているのが分かる。
「……あは………じゃ…おやすみぃ………」
掠れた声でそう言ったところで、パリスの意識は途切れる。
遠くの方で『早く!』という友人の緊迫した声が聞こえたような気がした。
あとがき
とりあえず落ち着いておにちゃー!それはただの好い人止まりだヨ!!(大笑)←ぇおにちゃーは暴れるだけ暴れた末勝手にテンパッて逃げていきました。
この上なく大迷惑だよノルヴェルト。(´□`;)
そして、注目のダンテスは見事に再度出遅れましたね。