犬牙錯綜

第三章 第六話
2006/01/11公開



まるで時が止まったかのように、空気が沈んでいた。
鎌を握るノルヴェルトが刺すような眼差しで見下ろしているのは、一人のエルヴァーンの男。

首筋に刃を当てられたまま、男は一切動かない。
呼吸すら乱れない。
恐怖で固まっているのか、それとも別の理由か――読めない。

観察するほどに、疑念は強まっていく。

ノルヴェルトの意識が、男の横へ滑る。
そこには倒れたヒュームの娘が、ぴくりとも動かず横たわっていた。

どう話を切り出せばいいのか分からないまま、必死で後を追ってきた。

彼女の身に何が起きている?

考えかけて、すぐに切る。

今は、目の前に敵がいる。


返答を促すため、首元に当てた鎌をカチ…と持ち直した。
その意図を読み取ったのか、男の肩が反応する。


「……えー……僕ぁ……人畜無害な一般冒険者です…が……?」

声は引きつっているものの、危機感に欠ける返答。

状況と噛み合わない。

「……お宅様は?」

ノルヴェルトの疑念が膨らむ中、質問が返ってきた。
アイボリーの髪の奥で、一体どんな顔をしているのか。

「立て」

短く命じる。鎌を離す。

「アララ、無視ですか」

呟きながら男はゆっくり立ち上がった。
両手を上げ、降参の姿勢になっていた。

――私や貴様のことなど、どうでもいい。

私が知りたいのは……

一瞬だけ、ノルヴェルトは倒れている娘へ視線を走らせてから尋ねた。

「…………彼女の……名は何と言う?」

その問いは、予想以上に勇気が要った。

だが、男の答えは軽かった。

「……そんなぁ……好きな子の名前くらい自分で聞いてくださいよ~」

ノルヴェルトは一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

不信感が一気に膨れ上がり、次の瞬間には男の襟足を掴んで壁に叩きつけていた。
瓦礫に足を取られた男が短く呻き、ヒュームの娘が倒れるすぐ横の壁に無様に貼り付く。

ノルヴェルトは男の肩を掴んでこちらを向かせる。
胸倉を引き寄せながら鎌の刃を再び首元へ押しつけた。

視線を送らずとも、意識の端に倒れた娘の存在を置く。
この男が本性を現しても、彼女に危害を及ばせてはならない。


強張った表情で見返してくる男は、思ったより若かった。

エルヴァーン族の特徴が目につき、ノルヴェルトは嫌悪と共に言った。

「エルヴァーンは信用できない……」

「おや、僕にはあなたもエルヴァーンに見えますけどねぇ?」

鎌の恐怖に耐えるような表情をしながらも、男は苦笑を浮かべる。

その言葉に、眉が動く。

睨みつける目に殺気とは別の色が混ざり、表情が険しくなる。

「私は……自分がエルヴァーンであることが呪わしい……!」

吐き捨てた直後、確信が生まれる。

――この男は、何かを知っている。

なぜ、この男は自分を前にしてこれほど余裕でいられる?
何も知らない者なら、パニックを起こして喚き散らすはずだ。

それなのに、この男の態度は――


一瞬で、両手を挙げていた男の手が、腰に下げた剣を掴んだ!


男の手が剣に触れた瞬間、ノルヴェルトの鎌が走る。

ばつっ、と音がして、剣を抜こうとした男の腹を黒い大鎌の刃が裂いた。
驚愕に見開かれた男の瞳を、ノルヴェルトはじっと見つめる。

――今までに、数え切れないほど見てきた、人が死ぬ瞬間。


倒れゆく男の体を冷たく見送っていたノルヴェルトだが、不意に、生気を失った姿がブレた。
そして、その体から押し出されるようにして、もう一つの影――別の男の体が姿を現す。

ノルヴェルトは目を見張り、咄嗟に鎌を握る手に力を込めた。

今斬ったのは幻影だった――。
そういえば、そんな魔法が存在した!

だが、本体の男は心底驚いた顔。
愕然と壁に背中を預けた。

――魔法の効果を忘れていたのか。

男の驚きように、ノルヴェルトも一瞬たじろいだ。
だが、思い出したように剣を抜こうとする男の動きには、即座に反応した。

男が剣を抜き払うと、細身の剣はそのままぽーんと宙を飛んで地面に落ちた。
握っていた男の指が辺りに飛び散った。

男は血を撒き散らす自分の手を見下ろし、苦笑を浮かべた。

続く一撃――横薙ぎに振るわれた鎌の柄を、男はギリギリで屈んで避け、横へ転がって距離を取った。

この男からはまだ聞き出したいことがある。

床を転じた男は飛んだ剣を左手で掴む。
かろうじて翻る大鎌を受け流す。
しかし左手では圧が足りず、剣は再び弾け飛んで弧を描く。

衝撃で顔を歪める男の胸へ、ノルヴェルトは思い切り蹴りを叩き込んだ。
壁に叩きつけられ、反動で前へ倒れかけた男の首を掴む。

これで――
利き手の指はない。
武器もない。
魔法の詠唱もできない。

「…ぅく……あっ…」

くぐもった声を漏らした男が、苦しげに身をよじる。
まだ無事な手と、指の失われた手――両方でノルヴェルトの腕を掴んだ。

「貴様の狙いは何だ」

冷えた声で問い、ノルヴェルトは首を掴んでいた手を放す。
男はずるずると座り込み、激しく咳き込んだ。

もしこの男が本当にテュークロッスの部下なら――それは大問題だ。
夫妻は娘と共にどこかで隠れて生きていると思わせ、これまで自分だけが追われてきた。


では、もし連中が夫妻の死を知り、自分が必死に少女を探していると気づいていたら?


指のない手を抱えるようにしながら男がノルヴェルトを見上げる。
血の気が見る間に引いていき、生気が急速に失われていく。
呼吸も荒い。

ノルヴェルトの視線が、再び娘へ向く。
そして、いっこうに目を覚ます気配のない彼女を見た瞬間――背筋が冷える。

――無事なのか?

思わず、娘の方へ足が動いていた。

隙を自覚し、ノルヴェルトは即座に男を振り返る。


男は壁にもたれ、力なく座り込んだまま、自分の足元をじっと見つめていた。
一瞬、生き絶えたのかと思ったが、まだ息はある。生きている。

ゆっくりと、男がこちらを見た。

「……!?」

ノルヴェルトは、その顔に浮かんだ表情を見て目を見開く。
一瞬で凍り付く。

――なぜだ!?

頭が一気に混乱で満たされる。

――これは、罠?

――自分は誘い込まれたのか?

次々と飛び交う推測。
ノルヴェルトは信じられないという顔で娘を見る。
すぐに男へ視線を戻すが、男の様子は先ほどと変わらない。動く気配もない。

分からない。 何をどう見て、どれを信じ、どう動けばいいのか。

ノルヴェルトは悲しげに娘を振り返り、歯噛みして鎌を構えた。
そして男へ刃を向け振りかぶる。

「貴様……っ!」

――その瞬間、ノルヴェルトの腕がびくりと止まった。
茫然とノルヴェルトを見ていた男が、不思議そうな目を向ける。

ノルヴェルトは驚愕に目を見開き、背後を振り返った。






「ぶっぶー、誰君


振り返った先には、金髪碧眼のヒュームの男が鎌の柄をしっかり掴んで立っていた。

「!!!?」

仰天したノルヴェルトはその手を振り払い、大きく飛び退く。
魔道士の高等なローブを着たその男は、笑みを浮かべたまま鎌を離した。

いつの間に現れた!?
このエルヴァーンの仲間か!!

「――おい、何処だ!?」

遠くから声が響く。

座り込んだエルヴァーンの男が弱々しく呼ぶ。

「こっちこっち~……お願いだから早く来てぇ~~…」

「……っ!!」

ノルヴェルトはわけもわからぬまま後退し、ヒュームの娘へ視線を戻す。

――やっと……やっと見つけたと!

手を伸ばしかける。
だが――手には血。
恐れるように引っ込めた。

彼女を求める瞳だけが叫ぶ。

ソレリ。
貴女は、ソレリ?
――目を開けて、私を見てほしい。


ノルヴェルトは瞳で訴え、黒い外套を翻す。
その場を離れた。

エルヴァーンの男はもちろん、金髪のヒュームの男も追わない。


こうしてノルヴェルトは、デルクフの薄暗い通路へと姿を消した。



「――げげっ! 何よ、どーしたのよこれ!?」

ノルヴェルトが姿を消すのと入れ違いに、遅れて塔に入った三人がやってきた。
驚いて声を上げるリオ。
ロエは口元を押さえ、絶句している。

彼女たちを追い越してきたダンは、通路の中央で立ち尽くす金髪碧眼の男――ローディを睨み、『なぜお前がここにいる』という目をした後、血まみれのエルヴァーンを見て愕然とした。

パリスは霞む視界の中、ダンを見上げ、わずかに口角を上げる。
よくは見えない。
だが、しかめた顔で自分を見下ろしているのが分かった。


「……あは……じゃ…おやすみぃ……」


掠れた声でそう言い、パリスの意識は途切れた。
遠くで『早く!』という友人の緊迫した声が聞こえた気がした。



<To be continued>

あとがき

第六話『犬牙錯綜』でした。
この出来事は、彼にとっても、そして一軍にとっても、長く尾を引く“始まり”になりました。

決して油断は許されず、何も信じてはならず、迷いなく殺し、生き延びる。
そんな長い時間が、邪魔をしましたね。