沈む炎

第三章 第三十六話
2026/06/12公開



王都に日が沈む。
茜色がじんわりと石畳を染め、通りの影は長く、やわらかく伸びていた。
店主たちが一日の終わりを告げるように、看板を軒へ掛けていく音がほどよく混じる。
金具が触れ合う乾いた音が、夕暮れの静けさをいっそう際立たせていた。

パン屋の戸口が開き、粉の香りをまとったヒュームの娘が顔を出す。
通りの向こうをちらりと見て、隣の工房のエルヴァーンの職人に声を潜めた。

「成人の儀、終わったんだってさ」

職人は工具をまとめる手を止め、肩越しに振り返る。

「へえ、今年も無事にか」

娘は唇を尖らせるようにして、ぽつりと続けた。

「無事、ねえ……。でも、警備が神殿騎士団だったって聞いたよ?」

その言葉に、近くで特産物店を閉めていたエルヴァーンの女主人が耳をそばだてる。
手にした鍵束を鳴らしながら近寄ってきて、ひそひそ声で挟む。

「おや、貴冑騎士団じゃなくて? どうしてあっちが?」

娘は肩をすくめた。

「さあ。昨日の昼間、城の前で何か大きな騒ぎがあったらしいけど……詳しくは知らないよ」

ちょうどその時、王城の方角から鐘が低く、澄んだ音を響かせた。
夕陽の赤が塔の先端に縁取られ、金色にも見える光がゆっくりと揺れている。
昼の熱も喧騒も跡形なく消え、代わりに夜へ沈んでいく前の、淡い緊張のような静けさが街を包んでいた。

職人が眉を寄せて言う。

「城の前? 騒ぎがあったのはジャグナー森林じゃなかったのか?」

女主人が身振りを交えて答える。

「ああ、爆炎の話かい? 銃士隊が大勢駆け付けたって、さっき寄った冒険者が言ってたよ」

「……何が何だか、さっぱりだね」

娘がぽつりと呟いた瞬間、ひゅう、と細く乾いた風が通り抜けた。
ほんの一瞬――街の空気に混じって、焼け焦げた木の匂いがかすかに漂う。
それに気付いた職人の男性が立ち止まり、ゆっくりと空を仰いだ。

暮れゆく空は、美しく、けれど底の見えない不穏さを孕んだ色へと沈み続けていた。



   *   *   *



鐘の音が止んだあとも、王都の空には焦げた煙の匂いがうすく漂い続けていた。
夕闇がじわりと落ち、街灯が一つ、また一つと灯る。
光が増えるほど、通りを行き交う人々は影を引き、まるで何かから逃れるように足早に家路を急ぐ。
昼の喧騒は、もはや幻のように遠い。

そんな静けさを裂くように、一人の騎士が石畳を踏みしめた。
彼の足取りは乱れてはいない。
だが、高貴な装いの装飾が触れ合うわずかな震えが、荒れた呼吸を隠しきれない。

石造りの回廊を抜け、夜気の冷たさが張りつく聖堂裏庭へ。
灯火ひとつ揺れるだけの薄暗い礼拝室は、普段の神聖さよりも、密やかな陰謀の匂いが濃かった。

扉の外を確かめ、静かに閉ざしてから、テュークロッスは片膝をつく。
その視線の先、黒い法衣をまとった教皇が立つ――
昼間の大聖堂では決して見せぬ、凪いだ湖面のような闇を湛えた表情で。


「王国内、冒険者、共和国……。そして我らも、混乱の渦中にある」

蝋燭の炎が小さく揺れ、猊下の横顔に影を落とす。
その瞳には、憐れみに似た色がある。
だが、その奥にあるのは赦しではない。
見透かした上で、なお突き放す者の光だ。

焦げた匂いを纏う赤髪が、わずかに震える。
テュークロッスは言葉を探すが、声にならない。


「……真実がどうであれ、今は黙せ。そして、王国が望むままに」

穏やかな猊下の声が告げる。
優しさではない。決定事項の読み上げに近い。
床を見つめたまま硬直する赤髪の騎士が、声にできぬ問いを喉に押し込んだまま、かすかに首を震わせる。

もちろん、猊下は理解している。
彼が何を恐れ、何を問いたいのか――すべて。


「神は、何者も見捨てない。だが……人は貴殿を問うだろう」

夜が、ひときわ深まる。

「理解せよ。……明朝、王の御前に立て」

一瞬、呼吸が止まる。
それは救いではなく、厳然たる現実の宣告だった。


「この件について、我らは何も知らぬ」

蝋燭の炎が細り、礼拝室の闇が濃くなる。

テュークロッスの手が膝の上で微かに震えた。
怒りでも恐れでもない。
ただ、己の居場所が音を立てて崩れていく感触に、体がついていかない。

反論を形にする前に、猊下は続ける。


「しばらく、教会の門をくぐることは控えよ。速やかに邸に戻り、時を待て」

息を詰めたまま、テュークロッスは深く目を伏せる。
蝋燭の火が一つ、ぱちりと弾けた。
その破片のような音が、沈黙の空気に刺さる。

遠くで、教会の古時計が一度だけ鳴った。
それはまるで――彼の運命が、静かに閉じられる音のように響いた。



   *   *   *



王国の夕暮れが、静かにモグハウスの扉を染めていた。
橙色の光は部屋の奥には届かず、薄闇が空気に重く滞っている。

ダンは毛布に包まれて眠っていた。
傷はふさがったとはいえ、まだ力が戻らない。
浅い呼吸が胸をわずかに上下させ、手のひらにはかすかに汗が滲む。

部屋には、ダン、トミー、ノルヴェルトだけがいる。

静けさが、心の奥のざわめきだけを際立たせる。


扉の横に佇んでいたノルヴェルトが、溢れ出しそうな思いを押しとどめられなくなったように口を開く。

「その……彼らは……」

静かに問い掛ける。
じっと椅子に腰掛けていたトミーは少し間を置き、顔を上げた。

「パリスさん達は……銃士隊とまだ話が続いてるみたいですね」

無理に微笑みを作る。
けれどその頬はこわばっていた。
視線をダンに戻し、息を呑むように言葉を続けた。

「ロエさんも、ゴンベさん達と一緒に行っちゃったままですね。……今は絶対に渡さないって。皆さんが、盾になってくれてるみたいで……」

今、王国が無理にダンへ手を出せば、冒険者たちが黙っていない。
そんな緊張状態が、王国の動きを封じている。

トミーの瞳はまだ怯えを宿していた。
昨日の余韻が、彼女の胸の奥に火傷のように残っている。

嘘も含めて、すべてが騎士を陥れるための計略だったのだと、各地の仲間達から聞かされた。
あのような形で騎士に引導を渡すとまでは、パリスとロエも聞いていなかったようだが。

意識の戻ったダンとも、すでに言葉は交わした。
大した会話はできていないが、トミーとノルヴェルトの姿を確認すると、ダンはくたびれた顔をしてベッドに沈み眠った。


不意に、二人の耳に声が落ちてきた。

“どうにか解放されたよ~!”

パリスの声。
疲れ果てた、でもどこか安堵の混ざった響き。

しかし次の瞬間、息を詰めた気配。
ダンの状況を思い出したと思われる一瞬の沈黙。
今度は、声を潜ませて言った。

“一旦、姉さんのところに行ってくるよ。明日そっちに行くから……トミーちゃん達はそのまま休んでいてね”

その声音は優しかった。
トミーは力が抜けるように目を細める。

“ありがとうございます。パリスさん達も……休んでくださいね……”

再び、部屋は静寂に呑まれる。


ノルヴェルトは胸の奥で、何度も同じ言葉を繰り返していた。


――まだ、終わっていない。


憎しみに囚われた者は、闇深くに封じられようとしている。

だが――これで終わるはずがない。

いつか息を吹き返す。
さらに禍々しい憎悪を孕んで。
そして必ず探すだろう。
消したくて堪らぬ――光を。

静かに、ノルヴェルトの視線がハニーブロンドの髪に落ちる。


……どうしたら終わる?


『私がすべて終わらせる』と、彼女達に言っていたのに。
明確だったはずのその方法が……分からない。

そして罪も――消えはしない。
十七年もの暗闇で背負った、数多くの罪に対し、この身をどう処せばよいのか。

あまりにも重い。
許されるのか――息をすることが。


それにまだ、宙に浮いている“罪”がある。

――今、行かなければ。


トミーは気付いていた。
ノルヴェルトが静かに、何かと闘っていることに。
けれど、それに触れてしまえば、動き出してしまいそうで。
見ないふりをして、ずっと二人の世話だけしていた。


しかし。
とうとう、動き出してしまう。


ノルヴェルトはゆっくりと指を握り締め、目を伏せる。
その気配を、トミーは逃さなかった。

「……どこに行くの? 私、一緒に行きます」

その声はすでに、どうしようもなく震えていた。
はっと顔を上げたノルヴェルトと、彼女の真っ直ぐな眼差しがぶつかる。

太刀傷のある眉が、ほんのわずかに下がった。
それは、彼の弱さが一瞬だけ顔を覗かせたようで――
トミーの胸を強く締め付けた。

ノルヴェルトは痛みを抱えた瞳で首を振る。

「……私一人で、行きます」

「いやです」

「ソレリ…」

「一人になってはダメ……ダメッ!!」

椅子を蹴るように立ち上がるトミー。
ノルヴェルトは必死に首を横に振った。

――終わらせなければ。
憎しみの連鎖を。

もう二度と、尊い光に、憎悪の闇が近付くことのないように。

ただ――どうすればいいのか。
まだ、迷いから抜け出せずにいる。

救いを求めるように、ノルヴェルトは言葉を絞る。

「――誓います。もう……殺しません」

言うくせに、彼女の目を見ることができなかった。
唇が震え、噛む。

もがくように重い足音を踏み、ゆっくりとトミーの前に立つ。

「これを……貴女に預けていきます」

ノルヴェルトは背から大鎌を外す。
重く、美しい漆黒のそれを、トミーにそっと差し出した。

金属の冷たさが、二人の手をひとつに繋ぐ。
けれどその冷たさは、別れの前触れにしか思えなくて。

「いや……です…っ」

掠れた弱い声がトミーの口から零れ落ちる。
しかしもう、銀髪のエルヴァーンは、その言葉を拾い上げてはくれない。
彼は、漆黒の大鎌から、手を放した。

「……どうしても、行くの?」

駄々をこねる子どものように、俯いて呟く。
急に懐かしさを覚え、ノルヴェルトは堪らなくなる。
動きそうになる腕に力を込めて押しとどめ、答える。

「……はい」


トミーは腕で涙を拭い、顔を上げた。
泣くまいと唇を噛み、震える声を押し出す。

「こ、今夜中には、戻って来られますか?」

まるで、食事の準備を気にしているだけのように。
けれどその“ふり”が余計に痛々しくて。
ノルヴェルトは苦しげに目を伏せるだけだった。


するとそこで、傍らから声。


「……辛気臭ぇな」


力無く発せられた声に反応して、二人が顔を向ける。
ダンが天井を睨み付けていた。

「喉が痛ぇ」

独り言のように悪態をつく。

「あ……お、お水持ってくるね。軽く何か食べる? 待ってて」

ぎゅっと大鎌を胸に抱き締めたまま、トミーはキッチンに下がった。
たちまち、大きな鎌を抱いたまま動き回ろうとして、あちこちぶつけているような音が響く。

ノルヴェルトは、ただちに踵を返した。
すべてを振り切るために。

「――あんたも、ふざけんなよ」

ダンの声に、足が止まる。

普段の迫力ある声ではなかったが、彼の怒りは充分伝わってきた。
ノルヴェルトはただ受け止めることしかできない。
言い訳も弁解も、何ひとつ言葉が浮かばない。

恐らく、彼ならば、こんな風に葛藤することもないのだろう。
そんな情けないことを思い、ぐっと口を引き結んだ。

ノルヴェルトは背中を向けたまま声を搾る。

「……まだ……背負えていないものがある」

苦しみ抜いたその声。




ダンは溜め息をついて言う。

「丸腰は駄目だ。……持ってけ」

ノルヴェルトが振り返ると、ダンの視線が自分の両手剣を指していた。

「持ってけ」

畳み掛けるように、ダンが繰り返す。


……彼に、立会人になってもらおう。

そんな気持ちが、ノルヴェルトの手を両手剣に伸ばさせる。

「汚すなよ」

覇気のない脅しが、背を小突いた。

大鎌の代わりに両手剣を背に携え、ノルヴェルトはドアノブを握る。
何も言わず、扉を開けて日の落ちた街へ踏み出した。

すると舌打ちが聞こえ、再度ダンの声が背中を追いかける。

「おい」

叫びではなかったが、突き付けるように声が放たれる。


「ビビるな。生きろ」


思わずノルヴェルトが足を止めた。
しっかりと、その言葉を噛み締めるような間。


ノルヴェルトは振り返らなかった。
群青の光が、彼の背を呑み込んでいった。



   *   *   *



日が沈み、夜が訪れたサンドリア。
王都の外れ――下級貴族たちの屋敷が並ぶ一角に、ひっそりと灯のともる平屋がある。

その室内で、ヴィヤーリットは静かに待っていた。
かつて身に着けていた鎧と剣を前に、長い時間、何かを思うように見つめている。


やがて、玄関の扉が開く音がした。
つかつかと急ぎ足の気配が近づいてくる。

弟の足音だと気付いた姉は、胸の前でぎゅっと手を握り締めた。
部屋の扉が開くと同時に、パリスはヴィヤーリットの姿を見つけ、ためらうことなく踏み込み、両手を広げた。
ヴィヤーリットも、息を止めてその抱擁を受け止める。

「……ただいま、姉さん」

声が震えていた。
ヴィヤーリットは唇を動かし、何かを言いかけたが、声は出ない。
それでも、指先がそっとパリスの背中を撫でる。
二人の間に、言葉よりも深いものが流れた。


「疲れた疲れた疲れた!」

不機嫌な声が響き、リオが遅れて部屋に入ってきた。
ソファーに身を投げるなり、叫ぶ。

「なんか食べるものない!?」

相変わらず、ありのままの振る舞いだ。
姉弟は顔を見合せ、ふっと微笑む。

「銃士隊も、何なの!? 妙に気ぃつかっちゃって。だったら茶菓子くらい出せってのよ!」


燃え盛るジャグナー森林に駆けつけた銃士隊は、真っ先にサンドリア王国権力者の存在に気づいた。
同時に、まるで“魔王”のように魔法をぶっ放していたローディのもとへと急行。
彼とともにパリスとリオも、騎士二人と一気に引き離され、身柄を確保された。

だが、厳しい取り調べがあったわけではない。
銃士隊の口から絞り出されたのは、真意の読めない、濁した言葉ばかり。
まるで何かを懇願するような目だった。
今思えば、彼らは“安心”の確証を求めていたのかもしれない。

よく見ると、ローディはなぜか頭の先からずぶ濡れだった。
事の経緯を問われても、本人は『服を乾かしたかっただけ』としか答えない。
埒の明かない問答が続いた末、業を煮やしたローディは煙たそうな顔で、先にパリスとリオを解放させた。

……一番煙たくて胡散臭いのはあなたでしょう。

パリスはそんなことを思いながら部屋を出たのだった。


「色々と、報告しないとですね」

疲労の色を滲ませつつも、パリスの表情には安堵があった。
ヴィヤーリットは微笑み、弟の肩に引っかかっていた焼け焦げた枝をそっと払う。
パリスもリオも、相当“煙たい”時間を過ごしたのだ。

苦笑しながら、パリスは王国騎士の制式服を脱ぎ始める。

袖から片腕を抜いた、その瞬間――



――ドガシャーン!!


家の奥で、何かが破壊されたような音が響いた。
パリスとリオが凍りつく。
ヴィヤーリットも目を見開き、置かれていた剣を即座に掴むと、パリスの脇を駆け抜けた。

「――駄目だ! 姉さんっ!!!」

パリスの叫びを背に、ヴィヤーリットは部屋を飛び出す。

音のした方向――家の裏手に併設されたチョコボ厩舎。
勢いよく扉をはねると、剣を片手に、暗がりへ目を凝らした。

老いたチョコボは越えられぬ高さの囲いの中、干し草の上に蹲る一羽の鳥。
外へ続く開き戸は何者かに無理やりこじ開けられたように板が割れ、外れていた。
外れた板が倒れる際に巻き込まれた熊手と干し草の束が下に散乱している。
点々と落ちた、くすんだ黄色い羽根。

駆けつけたパリスとリオも、その光景に息を呑む。


一羽のチョコボが、夜の闇へと消えていた。



   *   *   *



夜更け。
テュークロッスの屋敷には、もう蝋燭の灯りがいくつも消えていた。
廊下は煤けたように薄暗く、空気が重い。

妻子は昼のうちに出立させ、使用人のほとんどは暇を出された。
残るのは、長年務めた老執事と数人だけ。
誰も、あの部屋に近づこうとはしない。

テュークロッスは、自室の椅子に深く腰を沈めていた。
書斎の机の上には、かつて国王から賜った剣の鞘だけが残っている。
剣そのものは、もはや彼の手にはない。

名誉も、忠誠も、誇りも、どこかに落としてきた。

蝋燭の炎が小さく揺れるたびに、壁にかかった武器の影が伸びる。
その影を見て、テュークロッスは静かに息を吐いた。
そして、かすれた声で呟く。


「……赦されると思うか」


誰に問うでもない。
だがその瞬間。

外の様子が分かるよう、少しだけ開けられていたバルコニーの扉。
音もなく開いた。


風が入り込み、蝋燭の炎を静かに揺らす。


テュークロッスはゆっくりと顔を上げる。
扉の前に立っていたのは、黒の外套に身を包んだ男。
月の光を背負い、影を床に伸ばしている。

微動だにせず、テュークロッスは言った。

「……そうだ、まだ終わっていない」


ノルヴェルトは無言だった。
ただ一歩、また一歩と歩み寄る。

それを見つめるテュークロッスの瞳には歓喜の光。
そして狂気の波紋が広がる。

ゆっくりと椅子から腰を上げた。

沈黙。
夜のひんやりとした空気が部屋の中を横切っていく。

テュークロッスの手が、壁に飾られた剣の柄に伸びた。
鋼の音が、蝋燭の音よりも小さく響く。

静かに支度をするテュークロッスに対し、ノルヴェルトは構えもせずに立っていた。
そんな彼に、赤髪のエルヴァーンは目を細める。


ノルヴェルトは、この瞬間もなお、葛藤していた。

全身が拒絶している。

魂が拒み、呼吸が詰まる。

それでも――。

越えたいと、胸の奥で微かな光が願う。


震えを抑え込み、乾いた声が言葉を紡いだ。


「……私達の……」

その先が、続かない。
喉が閉じる。


誰よりも尊敬し、誇りに思ってきた人。

その名を。


胸の奥が引き裂かれる感触と共にーー差し出す。


「リーダーである……マキューシオが……」


ここで、赤髪のエルヴァーンの顔が凍り付く。


――言うな。


それがテュークロッスの願いなのか、自分自身の叫びなのか、もう分からなかった。

ノルヴェルトはぎこちなく、言葉を絞り出す。

「……お前の……父を……」

次の瞬間、テュークロッスの顔が歪んだ。
怒りと絶望が混ざったような表情。
そして叫ぶ。

「黙れぇぇぇ!!!」

獣の咆哮のような叫びが、部屋に響き渡った。

テュークロッスは袖机を蹴り倒し、書類の束を掴んで宙に投げる。
紙片が炎の前を舞い、ひらひらと散っていく。

時が止まる。


沈黙を押し退けるように、テュークロッスが低く問う。

「貴様……何をしようとした?」

怒りが憎悪に変わり、憎悪が悲鳴に変わる。

「貴様が選ぶな! ふざけるなぁ!!」

腕を払い、乱暴に台の上の物をなぎ倒した。
ペン立ても燭台も、床に投げ出される。
テュークロッスの瞳は感情に揺れながら、それでも燃えるように光っていた。

ノルヴェルトは動けない。
ただ、ひとりの男の、崩壊を見ていた。

「赦されると思うな野良犬がぁぁ!!」

怒号とともに、テュークロッスが飛び出した。
一瞬で間合いを詰めると鋭く剣が閃く。
ノルヴェルトは目を見張り咄嗟に肩を引く。
夜の空気を断ち切る一閃が掠め、銀髪を散らす。

――早い。

直ちに翻る二撃目を紙一重でかわし、後ずさる。
だが、テュークロッスの鋭い斬撃はノルヴェルトを逃がさず尚も追う。
ノルヴェルトは苦しくも斬撃をかわすが、壁に追い込まれる。
あらゆるものを背負ってきたテュークロッスの剣が、恐ろしい早さで打ち下ろされる。
――避け切れない。

斬るなら間に合う。――違う。

剣で受けるなら――“生”を掴む。

恐れが噴き出す。


次の瞬間、刃が肩口を裂いた。
熱が走る。

叫びと共に赤髪がさらに踏み込む。

――戦士の声が耳をかすめる。

奥歯を噛み――
ノルヴェルトは背の両手剣を掴みそれを受け止めた。
火花が散り、当たった小さな机が傍らで弾けて倒れる。

両手で握った剣が重い。

「終わりにしたいとでも言いたいのか!? ――何たる侮辱だ!!」

テュークロッスは目の奥を真紅に染め、喉の奥で、壊れたような笑いが漏れる。
ノルヴェルトは剣を受け流し、身を転じてその場を脱する。
見ると、赤髪の騎士は感情に震え、気品すら手放して唸った。

「貴様が死ねば済むことだろうがぁぁ!!」

叫びながら、彼は壁際の油灯用の瓶を掴み、床に叩きつけた。
ぱしゃり、と濁った音。
油が絨毯を伝って流れ、机の脚を濡らしていく。

次の瞬間、伸びた油が倒れた蝋燭まで到達した。
炎が舌のように這い、床を走る。

「――やめろっ!!」

ノルヴェルトが叫ぶ。

「黙れぇ!!」

テュークロッスは壁の盾を剥がし取り、投げつける。
ノルヴェルトが避けると、飾られた水晶の置物が煌めく音を放ち、粉々に砕け散る。

「貴様らが奪った! 俺の父を、誇りを、すべてを!!」

剣を構えたテュークロッスが、燃える部屋の中を踏み込む。
その影はまるで炎そのもの――狂気と絶望の塊だった。

「貴様はどこまでも逃げ続けろよぉ!!」

炎が壁を伝い、カーテンに燃え移る。
外の風が吹き込み、火は踊るように広がっていった。

赤い光が揺れた一瞬、テュークロッスの姿が炎の陰で弾けた。

「――っ!」

ノルヴェルトは反射的に身を引く。
直後、鋭い斬撃が横から疾走し、空気を割った。
受け止めた両手剣に衝撃が走り、火花が散る。

連撃が畳みかけてくる。
怒りで軌道は荒いのに、速さと重さだけは鋭く研ぎ澄まされていた。
ノルヴェルトは後退しながら受け、避け、肩先をかすめる刃に思わず息を呑む。

テュークロッスの息は荒く、瞳は揺れながらも、狂気の光を宿していた。
しかしその足さばきは完全無欠の騎士団長のそれであり、剣筋には背負ってきた時間の重圧。
ノルヴェルトは押し切られそうになりながらも、身体をひねって斬撃を逸らす。
刃が柱を削り、木片が散った。

「俺の絶望を味わえぇ!!」

次の斬撃がくる。

――相手の腕を刎ねる軌道が浮かぶ。

違う。

両手持ちの剣が火花を散らし受け止める。
ノルヴェルトは辛うじて刃を払うが、焦げた熱気が顔を刺し、呼吸が苦しくなる。

テュークロッスの影が炎とともに揺れた、その時――

「――旦那様!」

部屋の扉の影から悲鳴が聞こえた。
騒ぎを聞きつけた老執事が引きつった悲鳴を漏らし、『火事だ』と叫ぶ。

立て続けに絶叫したテュークロッスの足元がふらついた。
剣を振るうこともできず、咳き込みながら後退する。
油煙が立ち込め、空気が黒く濁っていく。
ノルヴェルトも苦しさを覚え、奥歯を噛むと構えを低くした。

燃えて梁の軋む音がした。
赤い光が揺れ、互いの影が壁に伸びる。
テュークロッスは苦しそうに胸を鷲掴みにして片膝を着いた。

ノルヴェルトの瞳は炎を映し、その中に痛みと哀れみが滲んでいた。

テュークロッスは虚ろな目でノルヴェルトを見上げる。
その瞳に映るのは、同じ喪失の深淵を覗いた人間。


同じだ。

この男も……また。


ノルヴェルトは一歩踏み出し、息を詰まらせながら言おうとする。
だが、言葉が出ない。


私達は、生きてはいけないのか?


声にならぬ問いが、胸の奥で燃え上がる。
――その時。


『さて、ノルヴェルト。……君はどうする?』


マキューシオの声が、炎の轟音の中で確かに聞こえた。
ノルヴェルトの脳裏に、あの日の風、向けられた眼差し、まだ幼かった自分。
すべてが一瞬で蘇る。


ーーマキューシオ……


師の問いに対し、少年の答えはーー



ノルヴェルトの手が、テュークロッスの腕を掴んだ。



その瞬間。

部屋の扉が弾け飛び、飛び込んできた。

疾風のごとく銀の鋼が炎を断つ。
凶暴な金属音が響く。

ノルヴェルトの外套が裂け、鎧がひしゃげ、刃が深くえぐる。
大きな獣の爪に背中を削がれたような衝撃を受け、ノルヴェルトが振り返る。
盾を構えて気を練り上げた忠臣が光を放とうとしていた。
次の瞬間、反射的に前に構えた両手剣を渾身の衝撃波が襲う。

炎の轟音も掻き消す炸裂音が爆ぜる。

ノルヴェルトは思い切り弾き飛ばされ、バルコニーの窓を割った。
灼熱の世界から夜の闇へ呑まれて消える。


「――テュークロッス様ッ!」


宿敵を打ち破り、ジェラルディンは叫んで主の前にかしずいた。

赤髪を乱したテュークロッスは、ノルヴェルトの血が付いた腕を見下ろし固まっていた。
胸を膨らませ息をつき、見開かれた目に汗が流れ込む。
ふと、ジェラルディンを見上げる。

轟音の中、問うた。

「……ウォーカーは?」

テュークロッスの身体を支えながら忠臣は即答する。

「消しました」

血濡れた剣を腰に収め、熱に焦らされた険しい表情で続ける。

「野良犬も殺しました。もうご安心ください」

ノルヴェルトが弾き出された窓から風が吹き込み、炎が一層暴れる。
熱に顔をしかめてジェラルディンが見ると、そこには疑問を映した主の顔。

……安心?
誰が?

そんな顔だった。

燃え盛る炎があちこちで弾ける中、忠臣は眉をしかめる。

――まだなのか?

ジェラルディンが主の肩を担ごうと身を寄せた。
その時、煙を吸って痙攣している主の手が、剣を握ろうとして取り落とすことを繰り返していた。

主の顔を見る。
忠臣を見つめ、唇を噛み、唸り声を漏らしている。
その手はなお、剣を探っていた。

間近にあるものを、斬ろうとするように。


ジェラルディンは一瞬、動きを止める。

――理解した。

ゆっくりと主から身を離し、静かに跪く。
忠臣は、静かに目を伏せた。


――これ以上、主を戦わせてはならない。


腰に下げた剣を引き抜く。
両手で柄を握り、躊躇なく腹を貫いた。

眉間に深くしわを刻み、歯を食いしばる。
炎に瞳を揺らした主を見つめ返し、魔法の真珠に馳せる。

“……これで、あの記憶を持つ者は……もうおりません”

込み上げて咽び、食いしばる口から血が湧き出た。
構わず続ける。

“どうか貴方様も、少しお休みください”



炎の音だけになった。

誰も動かない。
唸りを上げる炎だけが、机も床も飲み込んでいく。



しかし、ほんの一瞬の狭間で。

「……父上……」

親の姿を探す迷い子のような、心細い声。



やがて、屋敷は沈黙した。

燃え尽きた梁の軋みも、炎の唸りも、すべてが夜に呑まれていく。
灰は雪のように舞い、静かに消えていった。



屋敷の周囲では、いつしか人の影が増えていた。

「水だ!水を!」

「こっちにも魔道士を呼べ!」

怒号と呪文の詠唱が入り混じり、やがて、数十の水の弧が夜空を切り裂いた。

轟音とともに、屋敷を包む炎に一斉に水の奔流が叩きつけられる。
火の粉が飛び、蒸気が立ちこめ、視界が白く霞んだ。

その混乱の中、少し離れた木立の陰で、一人の男が立ち尽くしていた。

ずぶ濡れになりながら、ダンは無言で屋敷を見上げていた。
濡れた前髪が額に張り付き、息は荒い。

「――どいつもこいつも……っ」

彼の声は、水煙と雨音の中にかき消された。


魔道士たちは、誰に命じられたわけでもなく集まっていた。
ただ、酒場の外で“誰か”が叫んだ。

『火事だ! 北の邸だ! 魔道士は行け!』

その声に押され、駆けつけたのだと、後になって語る者がいた。
だがその夜、誰もその“誰か”の姿を見ていない。



「――賊か!?」

「お前達は裏手に回れ!」

鎧を打ち鳴らして騎士たちも集まり始めていた。

「おい――今、何か通らなかったか!?」

炎の轟音と降り注ぐ水の音が入り乱れる中、跳ねる鎧の音が散らばる。

ダンは舌打ちして燃え盛る屋敷を睨んだ。
懸命に探しながら歯噛みする。

炎に飛び込むことも。
鉢合わせた敵の剣を受け止めることも。
素早く逃げることも。

今の身体では、できない。


「――くそっ!」

煙と水飛沫の中で、木の幹に拳を打ち付けた。

「なんでだ……くそっ!!」

毒づいて咳込む。
彼はもう立っていられなかった。
全身ずぶ濡れのまま、敷地裏の斜面を滑り落ちるように闇の中へ身を賭した。



   *   *   *



王都の空は白み始めていた。
霧のような光が路地の石畳を淡く照らす。

モグハウスの扉が、勢いよく開いた。

トミーが飛び出す。
足元の石畳を踏む音が、夜明け前の静けさに響いた。


ふと目が覚めて顔を上げると、ダンまでもがいなくなっていた。
いつの間にか眠ってしまった間に。
気づいた時にはもう、怖くて声も出なかった。

脇目も振らず部屋を飛び出した。


すると、目の前の階段をダンがちょうど登ってくる。


朝の光に背を向けたまま、トミーに気付いた彼が立ち止まる。
雨も降っていないのに、ずぶ濡れで、泥にまみれて。
焦げた匂いが風に混じって流れた。

トミーは息を呑んだ。
何があったのか、瞳は問うが、言葉は出ない。
でも、何となく……
聞かずとも分かってしまった。

それがどうしようもなく、悲しかった。

「……ノルヴェルトさん……」

声が震えた。

「帰り、遅くなりそう……なんだね?」

掠れた声で、無理矢理、平静を装って呟く。

ダンは、何も言わなかった。
その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。


トミーは、そっと歩み寄る。
まだ安静が必要な彼に、与えるべきものを考えながら見上げる。
そして何かに気づいたように目を見張ると、途端に涙がこみ上げた。

「……ダン……」

瞬きと同時に、涙が一粒、頬を伝う。

「……ありがとう。帰ってきてくれて……」

痛々しく、泣き顔の中で微笑む。
頬を濡らす涙が止まらない。

「……大丈夫だよ。ダンが帰ってきてくれて、私、嬉しい……」

震える声でそう言って、トミーは手を伸ばす。
冷たい水に濡れたダンの頬に、そっと指先が触れた。


「ね、だから…………泣かないで、ダン…」


朝の光が、ふたりを包み込む。
まだ冷たい風の中、トミーの小さな声だけが響いた。



<To be continued>

あとがき

第三十六話『沈む炎』でした。

今回は、怒りも悲しみも、迷いも光も。
すべてが入り混じった夜が描かれました。

答えなんて誰にも分からない。

誰もが己の最善を尽くしただけなのかもしれません。

どうか、祈りを胸に、次の回をお待ちください。