決意
2008/09/27公開
石造りの家屋が並ぶ狭い通りには、昼の日差しが真っ直ぐ落ちていた。日陰はほとんどない。
人通りの少ない裏通り。
昼時だからか、通行人の姿は一人もない。
「あの、『すみません』っていうのは、別に謝ってるんじゃなくて」
人の気配を感じない通りに、おどけているのか真剣なのか曖昧な青年の声が響く。
「呼び止めようとしてるんですけど!」
ウォーカーは振り返らない。
背を向けたまま、一定の歩調で歩き続ける。
あの直後、誰かが口を開くよりも先に、パリスは駆け出した。
会釈だけを残して立ち去ろうとする使者を追う。
ダンの『待て』という声も、リオの『逃がすな』という声も、恐らく彼の耳には届いていなかっただろう。
発見した時にはかなり距離が開いていた。
何度か見失い、それでもようやく追い付いた。
だが、何処まで踏み込んでいいのか分からない。
追い越すことも、腕を掴むこともできず、パリスはただ足を止めてくれと呼び掛け続けるしかなかった。
「己の行動が無用心だとは、思わないのか」
ようやく言葉を発し、ウォーカーが足を止めた。
追う事のリスクなんて充分承知している。
だから間合いを取って身構えもするわけだ。
パリスの広い歩幅で考えて八歩。
それがウォーカーとパリスの間の距離。
こういう場面で珍しく先頭に立ったパリスの後ろで、他の仲間達も身構える。
振り返った黒髪のエルヴァーンは涼しい顔をしていた。
眼鏡越しの瞳は、とりわけ冷たい。
懸命に呼び止めようとしていた割には、パリスは言葉が出ずに苦しんだ。
ただ指輪とウォーカーの黒い瞳を交互に見比べている。
「あんたも何だか深刻そうだな。冒険者に転職か?」
言葉を選び兼ねているパリスの肩が、後ろから押し退けられる。
ダンが横に並んだ。
厳しい表情の彼の横顔を見て、パリスはまるで、はっと意識を戻した顔をする。
エルヴァーンの騎士はダンの言葉に若干表情を歪めていた。
「あぁ……え~と、そうそう、お礼を言わなきゃと思いまして」
相変わらずの皮肉たっぷりなダンの発言を聞き、パリスの口からいつもの調子の言葉が出た。
切り口を与えてくれたダンに心の中で感謝する。
「友人の落し物を届けてくれて、ありがとうございます」
一度笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「んで、知ってたら教えてほしいんですけど……。この人、何したんでしょう? 慣れないお料理して指でも切ったんですかね?」
『この人』と言いながら、右手に摘んだ血痕付きの指輪を見せる。
つまりリェンのことを尋ねている。
軽い言葉を述べるパリスの声は硬く、指輪を摘んだ指は小さく震えていた。
そのことに唯一気が付いているダンは、一層表情を険しくする。
ノルヴェルトは鎌の柄を静かに握り締め、路地の影や家屋の屋根、遠くの窓へと鋭い眼差しを巡らせていた。
その張り詰めた空気とは対照的に、トミー達は返ってくる答えを恐れるようにウォーカーを見つめている。
「私も教えてほしいくらいだ」
一つ溜め息をついて、嘆きのような声でウォーカーが零したのはこんな言葉だった。
意味の解せない冒険者一行は眉根を寄せる。
すると、ウォーカーは眼鏡の位置を正しながら続ける。
「一体、何人の命を犠牲にするつもりなのだろうな……野良犬は」
彼が真っ直ぐに眼差しを突き付けたのは、ノルヴェルトだった。
「仲間の一人をその大鎌で斬り殺し、若い二人の騎士を騙して利用した挙句、その者の命をも奪って逃亡するとは……」
ウォーカーは事務的な声で言葉を並べる。
「常人には、なかなか真似できないことだ」
すらすらと語る彼を前に、冒険者たちは完全に立ち尽くした。
「あんた…………何を言ってる?」
噛み殺した声を、ダンが絞り出す。
が、ウォーカーは構いもせずに尚も続ける。
「次は、誰を足場にして逃げるつもりだ?」
淡々とノルヴェルトに言葉を投げ続けるウォーカー。
彼の言葉を振り切るように、パリスが首を横に振る。
「待って。あなたが言ってることの意味が僕ぁ分かりません」
「そのままの意味だ」
「分かんないわよ! だって、あの頭おかしい男を仕向けたのは……!」
「あれはお前達の連れだろう?」
「ふ…二人の騎士って誰のこと」
「そこの野良犬に聞くといい」
皆が口々に疑問をぶつけるが、黒髪の騎士はさらりさらりと言葉を返す。
「お前達がどんな同盟を組んだのかは知らないが、身のためではないぞ」
眼鏡の奥で冷え切った目が、パリスのことを見据える。
「……一族に日の目を見せてやりたいのなら、愚かな行いは控えた方が良い」
愕然と立ち尽くしているパリスに向けて、意味深な言葉を投げかける。
「恩を掛けたところで、必ずや仇となって返ってくるのだから」
見開かれたパリスの瞳も、唇も、震えが止まらなかった。
掠れた声が零れ落ちる。
「何を言って……?」
パリスに続き、次はトミーに視線を向けるウォーカー。
「そうだな……。次はお嬢さんが足場にされる番かもしれない」
呆然としているトミーの前で、リオとロエが緊張した表情で身構える。
しかし、やはりウォーカーは気に留める様子はない。
「失礼だが、名前は?」
静かに問う。
ダンの表情があからさまに厳しさを増す。
そこでーー堪らずパリスが一歩踏み出した。
「はぐらかさないで答えてください! あなた達は、リェンに何をしたんです!?」
くだけた調子も捨てて、パリスが真剣な声で問い詰める。
ウォーカーは、何度も同じ事を言わせないでくれとでも言いたげな顔をして、溜め息をつく。
少しの沈黙を置いた。
そして、独り言のように呟く。
「彼は本当に不運だったと、私は思う」
少し暗い、どこか空虚な表情になって彼は言葉を紡いだ。
そしてゆっくりと、足が踏み出された。
ぴくりと反応する面々に構わず歩み寄ってくる。
距離は四歩に縮まった。
「彼があと一日でも早く、我が主に謁見できていればな」
抑え気味の低い声で呟いているのは嘆きのようだ。
しかし、悔やんでいるようには見えなかった。
「そうすれば、罪人に加担するような過ちを犯すことはなかったはず」
距離が縮まったにも関わらず、聞き取り辛くなった声。
それに対する当て付けであるかのように、『妙だな』という、きっぱりとしたダンの声。
「その言い方だと、まるでお約束があったみたいに聞こえるぜ?」
目を細め、鋭い視線でウォーカーに切り込むダン。
ウォーカーは……静かに頷いた。
「彼は我々の主に選ばれた者の一人だった。つまり、いずれはそこの野良犬とは相見えるはずだった」
眼鏡の位置を、整える。
「違う形でな」
そう、最後に一言付け加えた。
その言葉に皆は眉をしかめる。
しかし、ノルヴェルトだけは、導き出された真実に目を見張っていた。
脳裏を過ぎるのは、今日まで幾度となく闇夜で相対した襲撃者達。
真っ直ぐにこちらを射抜く若い眼差し。
テュークロッス配下の騎士とはどこか異なる、使命だけを胸に宿したような殺気。
ウォーカーは『何か思い当たったか』とでも言いたげに、白々しく眉を開く。
そのまま、淡々と告げる。
「リェーエンルー殿は誠実な青年だったようであるし、国の治安のために騎士として剣を取り、命を落とした方が……さぞ本望だっただろう」
「……それはナニか。あんたらの立派なお勤めの手伝い候補だったって言いてぇのか」
ノルヴェルトは思わずダンを見た。
ダンはウォーカーから目を逸らさない。
口を閉じることで肯定の意を示すウォーカー。
舌打ちし、ダンは足の幅をじゃりっと広げ構えを強める。
その隣で、パリスは蘇った記憶に頭を殴られたような衝撃を受けた。
過ぎた日の夜、酒場で過ごしたひとときの光景が、脳裏をよぎる。
『実は、他にもひとつ……チャンスが転がり込んできそうなんだ』
『……「きそう」ってことは、また噂が情報源?』
『噂とは少し違うんだが……。それについては詳しく話せない。しかしこの国のために剣を捧げるのは確かだ』
「……まさか、嘘嘘」
思わず笑みが滲み出る。
頭の中が音を立てて崩れていく。
とんでもないことを平然と語る目の前の男が、この世のものとは思えなかった。
ウォーカーは言葉を続ける。
「結局、彼の中で自分は反逆者となってしまったことだろう。まぁ、行く末は変わらなかったかもしれないが……。そうだろう?」
ノルヴェルトを横目に見る。
「どうして?」
彼の視線を遮るように問いが飛ぶ。
「どうしてそんな酷いことが?!」
思わず声を上げて足を踏み出したのはトミーだった。
離れそうになるトミーを驚いた顔でリオが力任せに引き戻す。
エルヴァーンの騎士は疲れたように息をついた。
「勘違いしてもらっては困る。死者を生み出しているのは他でもない、その男だ。野良犬には関わらない方が賢明だと、物言わぬ者達もあの世で囁いていることだろう。お前達も考え直すなら急いだ方がいい」
そこまで言って、ゆっくりとウォーカーの足が後退し始める。
「かのマキューシオ殿とその妻子にもお伝え願いたい。まだ人を殺め足りないのかと」
大鎌の柄を握るノルヴェルトの手から、すっと血の気が引いていく。
白くなった指先が、震えた。
「これ以上追ってくることは開戦を意味する。お前達に選択肢は用意されていない。それなりの覚悟を持っていないのなら、控えた方が良いぞ」
ウォーカーは皆のことを眺めたまま数歩後退し、くるりと背を向けて歩き出した。
普段彼が身に着けている外套があったなら、ばさりと音を立てていただろう。
その背を見送る一行の空気が、張り詰める。
誰かが踏み出していても、おかしくはなかった。
――ダンのこの声がなかったら。
「ウォーカーさん」
一音一音はっきりと強調するように、ダンがその名を呼んだ。
はたと黒髪の騎士が足を止め、ゆっくりと、肩越しにこちらを振り返る。
皆が息を呑んで身を固くしている中、ダンは脅すような声で続けた。
「あんたは、やり過ぎだとは思わないのか?」
顔も名前も、覚えている。
あんたも同罪と見なし、絶対に許しはしない。
ダンの青い瞳が、使者を真っ直ぐに射抜いていた。
ウォーカーはほんの少しだけ、目元に苦いものを滲ませて完全に振り返った。
「お前も、ナイトの資格を持っているのなら、剣を捧げるべきものの判断は付くのでは?」
この言葉が持つ意味に、パリスは目を見開いた。
目を細めたダンのことを見、そしてウォーカーを見つめて顔をしかめる。
あちらも、ダンのことを把握している――。
睨みを利かせるダンに対して相応の挨拶を返した後、ウォーカーは再び踵を返し歩き去った。
事態のすべてを飲み込めていないリオはぽかんと口を開け、ただ呆然と立ち尽くしている。
ノルヴェルトがぎりりと歯を食い縛る。
不意に、外套がくいと引かれた。
鋭い視線を下ろした先には――細い手。
唇を噛み締めたトミーが、俯いたままノルヴェルトの外套をしっかりと握り締めていた。
* * *
パリスは家に戻ってくるまでの間、何も言わなかった。
動揺したトミーやリオが疑問を口にしても、普段なら応じるはずのパリスもダンも、ただ前だけを見て歩き続けた。
パリスの家に戻り、皆は広い部屋に集まっていた。
ソファーの上でふんぞり返っているローディを除けば、皆はどこか塞ぎ込んだ様子で、思い思いの場所にじっと座っている。
幸い、ヴィヤーリットはチョコボの世話に出ようとしていたところだった。
無事に戻ったことだけを伝え、起きた出来事は伏せたまま見送る。
厩舎へ向かう姉に手を振って見せたパリスは、気の毒なくらい普通であった。
今はソファーに腰を下ろし、血痕の付いた指輪を指先で回している。
くるくると向きを変えながら指輪を見つめ続ける彼の横顔は、不思議なほど穏やかだった。
――だからこそ、誰も声を掛けられない。
「……うーん、やっぱり…」
締め付けられる思いで皆がパリスを見守っていると、パリスは指輪を見下ろしたまま、普段の声色で言った。
「これって多分、アレだよねぇ。エンゲージリングってやつ」
指先で、乾いた血をそっと削り落とす。
短い一文が読み取れるようになる。
『リェンはメイを望む』と彫られてあるようだった。
ロエとリオは何か言いたげに顔を見合わせる。
しかし、誰一人として口を開けない。
トミーは思わずダンへ視線を向けそうになり、途中で止めた。
「……やり過ぎだな」
低く、ダンが言う。
「きひっ、そして誰もいなくなっちった☆になったらどうしゅる~?」
ローディが洒落にならないこと言う。
耐え兼ねてといった風にロエが『でも』と顔を上げた。
「動揺を招くための作為ということは? そんな……命を奪うような…」
縋るような声を、ダンが静かに遮った。
「連中は俺達を連行して、何をしようとしました?」
リオとトミーが恨めしげにダンのことをじっと見つめる。
「気休めは言わない」
ダンはあえて言い切った。
彼は装備している篭手を少々乱暴に外し、片手に握り締める。
リオは行き場のない感情を持て余すように歯噛みすると、はっと思い付いたように立ち上がった。
「それ持って城に怒鳴り込んじゃえば!?」
「のんのん♪ んなことしても、自首してきたっちゅーことで片付けられるんじゃにゃ~い?」
リオがローディの言葉に素っ頓狂な声で聴き返す。
「奴らがやった証拠にはならない」
ダンは腕を組み、厳しい表情で続けた。
「奴ら、完全に煽ってやがるな。自分達の顔と名前が割れてても顔色一つ変えねぇ。それどころか、あんな挨拶まで返してきやがった」
ウォーカーが返した言葉によって、相手の情報を握っているのはこちらだけではないと示された。
少なくとも、パリスとダンの身元は割れているだろう。
ロエもトミーも、はっと息を呑む。
リオもようやく意味を理解したのか、言葉を失った。
「おおかた、誘い出すつもりでいるのかもな。多分、証拠なら連中はいくらでも作れる。公に出たところで、奴らの思う壺だと思ってた方がいいだろう」
そこまで言って、ダンは静かに、ノルヴェルトへ視線を向ける。
「……あの口振りだと、自分達が消した人間もあんたの仕業にできるようだしな」
ノルヴェルトは立ったまま、ソファーの上で身を縮めるトミーをじっと見つめていた。
その眼差しは痛々しいほど苦く、唇は固く結ばれている。
ダンと目が合うと、彼は何も言わず視線を落とした。
「ひどいよ……」
トミーが、嘆きを搾り出して蹲った。
ふと、パリスが静かな動作で立ち上がった。
皆の視線を一身に浴びた彼は、指輪を片手に摘んだまま歩き出す。
「ちょっと、姉さんのところに行ってきますね」
行き先をダンに告げて、長身の青年はゆっくりと部屋を出て行く。
誰も、何も言えないまま見送る。
「ローディ」
自分の名を呼ぶ珍しい声に、のん気な顔で天井を眺めていたローディが凍りついた。
ゆっくりと、声の主であるダンに視線を下ろす。
「…………ビッ…クリした、腰砕けるかと」
「今後の話をしたい。場所を移すぞ」
ローディの言葉を最後まで聞かずに、ダンはソファーから腰を上げた。
そして退室の際、一度だけトミーへ目を向ける。
しかし、トミーは俯いたまま固く握り締めた両手だけを見つめ、顔を上げようとはしなかった。
まるで――わざとすれ違うように。
* * *
ヴィヤーリットは厩舎から戻ると、部屋で椅子に腰掛け、刺繍をしていた。
膝に乗せているのは、自分の体に合わせて生地から作った黒いワンピースだ。
以前一度完成させたものだったが、どうも寂しく感じ、群青色の糸で草花の刺繍を施し始めていた。
その時、部屋に入ってきた長身の弟に気付き、針を運ぶ手を止める。
視線を上げると、肩へ流れた三つ編みの黒髪を揺らし、穏やかに微笑みを浮かべた。
どうかしたのかと問う、傾げた首。
パリスはしばし、じっと自分の足元に視線を落としていた。
やがて、その表情にゆっくりと懐かしむような笑みが浮かぶ。
手に握っていたものをそっと懐へしまい、顔を上げた。
「ねぇ、姉さん。 姉さんはリェンのことを覚えていますか?」
突然の問いに、ヴィヤーリットは瞬きを繰り返す。
「昔よく、兄さん目当てで僕に会いに来てた、赤髪の彼ですよ」
補足されると、もちろん覚えているというように静かに頷く。
ヴィヤーリットは針を針差しへ戻し、膝のワンピースを脇の机へ置いた。
弟の話を聞こうと、ゆっくり向き直る。
だが、パリスは姉の前には来なかった。
そのまま部屋を横切り、窓際の椅子へ腰を下ろす。
真昼の光を背負った弟は逆光に沈み、表情までは読み取れない。
ヴィヤーリットは思わず目を細めた。
しばらくの沈黙のあと、パリスがぽつりと口を開く。
「本当のこと言っちゃうと、僕は彼が苦手でした」
本心を白状する苦笑いの声。
「どうも反りが合わないし……それに、リェンの目的は兄さんだって知っていたから」
膝に肘を着いて両手を組みながら語るパリス。
彼の姿は、実際の背丈よりもずっと小さく見えた。
ふとヴィヤーリットは眉根をひそめ、椅子から腰を上げる。
パリスが『でも』と言葉を続ける。
「あの、……は…でも…」
小さく笑いながら言いよどむ弟の前に、姉は立つ。
「…………彼は、本当に僕の、友達でいてくれたみたいなんです」
ぽたり、と。
膝の上へ涙が落ちた。
パリスは咄嗟に口元を押さえた。
さらに身を縮め、肩が震える。
「――今更っ……気が付…!!」
押し殺した嗚咽の中に憤りが混じった。
その声に、ヴィヤーリットは弟が何かによって傷付けられたのだと悟る。
途端に、彼女の瞳には弟に対する慈愛と、無力な自分への嘆きが映し出される。
ヴィヤーリットは身を屈め、弟のアイボリーの髪をそっと撫でた。
さらりと掬うように。
それから、ゆっくりと弟の首の後ろに腕を回し、何も言わずに抱き締める。
まるで、今となっては自分よりも背丈のある弟を、守るかのように。
* * *
エルヴァーンの姉弟の邪魔をするわけにもいかず、ダンとローディはひとまず近くの空き部屋へ入った。
許可は取っていないが、今はそんなことを気にしている余裕もない。
そこは日頃あまり使われていない部屋のようだ。
椅子とテーブルのセットはなく、長居をするような場所ではなさそうだった。
何処からか運んできたものをそのまま置きっぱなしにしてあるかのように、いくつもの箱や包みが並べられている。
部屋の中央には、片付け忘れたような足の長い小さな机が一つ。
「……おセンチだにぇ」
ローディはその机の上で犬座りをしながら、ぽつりと呟く。
木箱に腰掛けて考え込むダンを、しょっぱい顔で見下ろした。
ダンは静かに拳を握り締める。
あの青年騎士を信用し切れなかったのは、仕方が無いことだった。
もしも、この家に到着してから口にした今回の件の真相を、彼の前で話していたら――。
そんなことは今になったから思えることであり、どうしようもない。
それは分かっている。頭では。
「…………これがノルヴェルトの世界か……」
確実に身を護るために『信用できない』という、過酷な孤立について思う。
穏やかではない事態だということは、ずいぶん前から感じていた。
実際に見知った人間が敵の手に落ちたとなると、危機感の増大は尋常ではない。
そして意図的に恐怖を生み出そうとするかのような、繰り返される自問。
――護れるのか?
――本当に、何があっても護り通すことが?
「……絶対に安全な場所ってのは、何処だ」
何の前置きもなくぼそりと呟く。
『絶対にだ』と念を押すダンは、自分でもおかしなことを言っているという自覚がある様子だ。
ローディは最高に気分が悪そうな顔をして、干乾びた声で『重症だにゃー』と言った。
「あいつら放り込んでおきてぇ……」
「えぇ~~女達ぃ? んまぁ、あると言えばあるけどぅ~」
そっぽを向いて口を尖らせるローディにダンの驚きの表情が向く。
「内緒にしておきたかったけど……俺様のモグハ?」
金髪の魔道士は耳に指を突っ込みながら言う。
「偽名で各国にいくつも持ってるから、超・雲隠れだぞぃ。っちゅかあの騎士ボン、俺様のことは調べられてないんじゃに~の~? プンプンッ」
「おい、それは……」
「マジの話だお。絶対的安全は保障できるぞぃ。でもまぁ何、妊娠しちゃったらごみぇん☆」
「こちとら情緒不安定なんだ。うっかりマジで殺りかねねぇからそういうこと言うんじゃねぇ」
ぺろりと舌を出して頭をコツンと叩くローディに、ダンが低い声を突き刺す。
しんとした室内にローディの独特な笑い声が響く。
そして、金髪碧眼の青年は犬座りをやめて立ち上がる。
たんっと軽く床に飛び降りた。
ふわりと広がった金髪を後ろに跳ね除けて、にこりと笑う。
「にゃ~にゃ~、早く聞きたいんだけど~? 今後のは・な・し♪ 俺様、子どもはいらないからペット飼いたい!!」
「散々挑発してきたが、連中はやっぱりどこかで公に出ることを嫌ってるな」
お望み通り、ダンは話の本題に入り淡々と言った。
「適当な理由を付けて捕らえることなんて、やろうと思えばだいぶ前からできたはずだ。そうしないのは、公権力として動けねぇ理由があるからだ」
ローディも頷く。
窮屈な世界をあざ笑うように肩をすくめる。
「政治ってのはデリケートなものなり。過程で塵一つ舞うことも嫌うのら」
「だから、ノルヴェルトのことは自分達の手だけで始末するつもりなんだろう」
「きひっ、今回で結構手荒な真似したからのぅ。並みの賢さがあれば…」
「ここで一旦、手を引っ込めるだろうな」
「だねだね」
「だが、奴らは俺達を認識した。悠長には構えないはずだ」
「早く消したいよにゃー」
「人数使ってくる可能性は低いとして、動くとしたらあの側近あたりか……」
「ってか、ダンとの作戦会議シチュとかマジ萌え死にそう! 密室に二人きりキターーー!!」
「何にせよ、行動するなら今しかねぇ。いつまでもここに居候するわけにもいかないからな」
もう、犠牲者を出すわけにいかない。
やや深刻な声になって呟くダンを尻目に、ローディは思うことがあるように口をひん曲げた。
人のことなんてどうでもいいっていう奴だったのにのぅ…。
面白くないやら寂しいやら。
ローディの耳元で、不意にリンクシェルが鳴った。
するとローディは大袈裟な溜め息をつく。
ダンに背を向けると部屋の中をうろ付き始める。
「こっちのビッグイベントも、大体片が付いたみたいだのぅ」
周りに積んであるものをガサガサと勝手にあさりながら言う。
「これでもう呼び戻されることもないし、俺様フリーーーーーダムッ!!」
手近な箱を開け、王国制式礼服を掴み上げるローディ。
ダンが眉をしかめた。
「終わったのか?」
「きひっ! やっと開放されたぞぃ☆」
「そもそも、一体何やってたんだお前ら」
「リージョン操作」
王国制式礼服をぽいと箱の中に戻しながら、ローディが答える。
一瞬時が止まる。
「あ?」
「希望が一致してるユーザーがある程度集まるとね、たまにやったりするにょ? ちょっとぶっちゃけると、今回のメインユーザーが銃士隊でのぅ。若干特別だったなりよ」
退屈そうに箱をあさりながら。
「ま、何をするためなのかなんて野暮なこっちゃ聞かないから、知らないけどにゃー」
箱の奥に立て掛けてある包みに手を伸ばし『めんどかったクポ~』と続ける。
つまり、ローディを総帥とした正体不明の巨大組織は。
その規模とスキルに物を言わせ、世界の支配分布をいじっていたと。
「正気か?」
ダンはまじまじとローディを見つめてしまう。
布に包まれていた剣をしげしげと眺めていたローディは顔を上げる。
ダンと視線を合わせると、ニッと笑った。
「きひっ、世界で一番力を持ってるのは誰だ? 権力者か? 実力ある冒険者か?」
『答えはどちらも否』と言って、ぴしりと剣を掲げた。
そして誇ったように言う。
それは『暇人』であるーーと。
「分かるかね? どんなに能力が高くても、時間がなけりゃ何もできんからのぅ。逆に、暇人はヒマ故に何かに秀でていることが多い。そして何より『飢え』ている!」
「おい」
「そんな奴らを束ねるには、面白ければ良いのだよ。きひひ、みんな死に物狂いで遊ぶお?」
「おい」
変態魔道士は過去の偉業でも思い返しているのか、満足そうに頷いている。
ダンは半眼になる。
ローディは剣をくるりと回して持ち替え、乱雑に布を巻き、最初の状態に戻す。
「そう言う俺様も生粋の暇なスペシャリスト、略して『ヒマリスト』だからのぅ! きひっ! 面白ければいくらでも協力してやるぞぃ。前にも言ったけど~、今回の操作も何か役に立つんじゃな~~い? きっひっひ☆」
――コンコン。
「ロエたんに一票!!!」
部屋の扉がノックされたのを聴き付けてすぐにシャウトしたローディは、手にしていた剣をその場に置き捨てて扉に飛び付いた。
扉を開くと、茶器を乗せたトレーを抱えたロエが驚きの顔を上げていた。
「お、お話の邪魔をしてしまって、すみません」
「ロエたんたん♪ ナニナニどぅ~したのコレ」
機嫌よく言いながら、彼女の手からひょいとトレーを取り上げる。
「あの、たくさん話をするなら喉が渇くだろうということで……」
「さっすがじゃのーぅ☆」
嬉々として声を上げるローディに、ロエは慌てて言葉を続けた。
「お茶を淹れたのはトミーさんなんです。でも、ご本人は片付けをすると言って……届ける役は私が」
ダンは小さく眉をひそめた。
ローディはにま~と笑いながら机に茶器を置く。
「丁度良い。ロエさんも参加してもらえますか」
ローディの笑みが、さらにいやらしく深まる。
一方ロエは、目を瞬いた。
「意見を聞きたいので」
そう言うダンに、ロエは戸惑いながらも返事をして扉を閉める。
小さなタルタル魔道士は彼らの傍にある小箱に腰を下ろす。
まず口を開いたのはローディだった。
高揚を映した目を細め、優雅に腕を組むと美しい声で言う。
「ふむ……イベントは終わったが、こっちも奴らと同じくフェードアウト中だ。だから俺が提供するのは俺の体一つだぞ」
突然の変わりようにロエが目を丸くする。
ローディは小声で『きひっ、惚れちゃうのぅ☆』と言ってウィンクした。
そして涼しげな表情に戻り、静かにダンのことを見据えて続ける。
「俺のことはダンの好きに扱うと良い。ブレーンも良いが、久々に駒を楽しませてもらおうか」
「は、ずいぶんとあっさりしてるな」
意外そうな声で言うダンに対し、ローディは肩をすくめて『司令塔は一つがセオリー』と答える。
「それに、メンバーの個性と能力をよく理解してるダンがチームリーダーに適任なのは明らか」
『だろう?』と言って、ローディはティーカップを手に取った。
妙なスムーズさに、ダンは素直に喜べないやり易さを感じて苦笑した。
正直、少しは駄々を捏ねるものと思っていた。
だが、根っこはやはり"プロ"なのだろう。
「上出来だ」
ダンが苦笑したままと言う。
ローディはがらりと普段通りの表情に変わり、奇声と共に両手を挙げた。
ティーカップを片手に持ったままズバッと万歳をしたが、お茶が一滴も零れない不思議。
次にダンは、奇怪にはしゃいでいるローディをぽかんと見上げているロエのことを呼んだ。
「パリスの分も頼ってしまうことになると思いますが……協力してもらえますか」
エルヴァーンの青年が今後どうするかは分からない。
だが少なくとも、ダンは彼を戦わせるつもりはない。
ダンの意思を聞き、ロエは膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めて頷く。
「もちろんです」
「っま、ダンと俺様が組めば最強だからのぅ☆」
どういう狩りになるか楽しみだと、ローディはぺろりと唇を舐めた。
横目に見たダンは、組んだ両手を見つめたまま微動だにしない。
その目はもう、次の一手だけを追っていた。
* * *
まずはお茶でも飲んで、気を落ち着けましょう。
肩を撫でて、姉は部屋を静かに出て行った。
先程は久々に感情が爆発してしまった。
そんな自分を宥めることには、姉は慣れている。
きっとお茶と一緒に、赤く腫れた目元を冷やす濡れタオルも持ってくる。
扉は開けたままだ。
両手が塞がることを見越しているのだろう。
パリスはそれを横目で見ながら、小さく息をついた。
戻ってきたら、すべてを姉に話そう。
心に決め、手の中の指輪をじっと見つめる。
「……こんなの持って…」
ぽつりと呟く。
「大事な日だったんじゃないの?……あの日は」
やっぱり、結婚を考えてたんじゃないか。
道理で張り切ってるように見えたわけだよね。
でも、あんなに鎌掛けても何も話さなかった。
君のそういうところで僕は……。
ぎゅっと指輪を握り、その手をもう一方の手で握り締めて、まるで祈るような姿勢になる。
再び、絶望的な後悔が体の奥底から沸き上がってくる――歯を食い縛った。
姉が戻ってきた時に、また泣き崩れているわけにはいかない。
目を堅く閉じる。
指輪を握る手に、さらに力がこもる。
「すまなかった」
一瞬、空耳かと思った。
しんとした部屋に、ぼそりと低く呟かれた男の声。
驚いて顔を上げ部屋の扉を見る――だが、誰の姿もない。
痕が残るほど強く握り締めていた手を解き、立ち上がって部屋の外を見に行く。
右手の廊下にも、左手の廊下にも、人影は見当たらなかった。
「……今の声は……」
* * *
三人での話し合いを終えて元の部屋に戻ると、ヴィヤーリットが焼き菓子と新しいお茶をテーブルに並べていた。
その隣では、並べる端からリオが遠慮なく焼き菓子を摘まんでいる。
茶器を借りたことをロエが詫びるが、ヴィヤーリットは首を横に振り、穏やかに微笑んだ。
姉は手拭と茶器、それに焼き菓子を乗せた小さなトレーを手に部屋を出て行く。
パリスのところへ向かうのだろう。
その後ろ姿を、ダンは重い面持ちで見送った。
「あいつらはどうした」
ダンが尋ねると、焼き菓子を頬張っていたリオが顔を上げた。
頬をふくらませたまま答える。
「あの子は片付けをするってキッチンに行ったわよ。あの男は知らないけど……どうせあの子の近くに張り付いてるんでしょ」
ダンの視線が下がる。
トミーは、人の喜びを自分のものとできるように、人の悲しみも背負ってしまう。
だから今は、きっと誰よりも深く傷付いている。
仲間へ気を配る余裕など、本当はないはずだった。
強がりや誤魔化しでない、トミーの“ありのまま”を見たいと思った。
もし彼女が自分にその正直な心を見せたなら、自分もまた、不安から解放される気がした。
この、胸に重く圧し掛かる、何とも言いようの無い不安から。
そして今、ダンはキッチンの扉の前に立っていた。
扉付近に立っていることを想定していたノルヴェルトの姿は無い。
中にはいてくれるな――そんなことを思いつつ、完全に閉まっていないドアのノブを掴む。
きぃと音を立てて扉を開き、部屋の中を見ると、流し台の前にトミーが一人佇んでいた。
彼女が一人だったことに、思わず安堵した。
扉が開いた音を聞きつけたトミーがこちらを振り返る。
その顔は、最初に見えた横顔以上に、蒼白で追い詰められたものだった。
「……あ…」
乾いた唇から声を漏らし、すぐさま顔を背ける彼女。
「話し合い、終わったんだね。あれ? ロエさんは?」
必死さが存分に表れている声でそう問いながら、トミーは完全に向こうを向いてしまう。
咄嗟に口にした意味の無い問いだとダンには分かる。
「ネコ達と一緒にいる」
投げやりな声で答えた。
又、質問の内容も少なからずダンを苛付かせた。
やはり何か思うことがあって、先程のような役割分担にしたのだなと、思い当たる。
ダンは重い足を踏んでゆっくりと歩み寄り、尋ねる。
「こっちも終わったんだろ?」
「うん……あと少し」
見たところ流し台に食器はなく、水滴が散らばっていることもない。
それでもトミーは『あれ?』などととぼけた声を出して、キョロキョロと何かを捜し始める。
目は合わない。
声もこちらを向かない。
必死に何かを探すふりだけが続く。
ダンは何も言わない。
あえて、黙ったままじっとトミーを見つめていた。
「……あ…あっ、そうだ。ロエさんにこれ、渡してあげてくれないかな? さっき探してたから」
トミーはそう言うと、ぱっと流し台から――もといダンの前から離れ、傍の戸棚に手を伸ばした。
何かを取り出そうと戸棚の扉を開く。
だが、ダンの手がその戸を押し戻し、ばんと閉じた。
驚いたように振り返るトミー。
険しい顔をしたダンが噛み殺した声で言う。
「そんなことはどうでもいい」
――何をやってるんだお前は、そんなの嘘なくせに。
ダンは厳しい目付きをして見下ろす。
圧を感じ、トミーは肩を窄めて一歩下がった。
「お……怒ってる、の?」
「そう見えるか?」
「だ、だって……」
『怖い』と言いたげな顔が、深く俯く。
じりじりと少しずつ後退って距離を取ろうとするトミー。
ダンはしばしの間凝視して、それ以上追うことはしなかった。
ただ、ダンは押し殺した声で言った。
「本気で眼中に無しか」
その言葉に、ビクリと肩を震わせてトミーが視線を上げる。
ダンは戸棚に付いたままの自分の手を睨みつけていた。
「お前は……いつも遠慮がちで、お人好しで、人に対して余計な気を遣う。そんなお前の姿に俺は、これまで何度も苛付いた」
感情を押し殺す彼の腕は微かに震えていた。
苦しげに言葉を絞り出す。
「でも、しょうがないとも思ってた。 お前はそういう奴だから」
手元を見つめるダンの瞳は、とても切なかった。
怖々と彼のことを見上げていたトミーは無意識に唇を噛む。
戸棚に付いた手を握り拳に変え、ダンは眼差しを鋭いものにして彼女に向ける。
「けど……どうしても納得できないことがある」
青い瞳が真っ直ぐにトミーを見据える。
「パリスだロエさんだって、お前は色々と気を遣うが……。 俺のことはまるで考えてない」
言葉の出ない唇が震えてしまい、トミーはぎゅっと自分の手を握っていた。
「俺の気持ちとか、考えたことあんのか?」
叫ぶ青い瞳。
「俺がどんな思いをしてるかお前に分かるか?」
訴えを重ねるダンの苦しげな声。
気まぐれで、護れるから護っているのではない。
護りたいから護っている。
最初から護り通せる絶対的保証なんて何処にもない。
自分は全知全能の神ではないのだから。
ただ、限りなく安全に近付けるために、持ち得る知恵と技を駆使しているに過ぎない。
お前が護ろうとしてる仲間も、お前自身も。
全部俺が護ってやる。
だからお前は傷付くな。
この気持ちは変わっていない、あの頃からずっと。
だから俺はここにいる。
なのに。
お前がいなくなったら、この思いは何になる。
「都合良く俺のことを過大評価するのはやめろ。俺にだって必要なものはある」
頭の中がゴチャゴチャして、語気が強まった。
「どうしていつも……何でなんだ? 俺の望みは叶えてくれないのか?」
握り締めていた手が戸棚から離れ、トミーに触れたそうに伸ばされる。
だがそれは一瞬で、彼女の頬に伸ばされたその手はすぐに引き戻された。
自分の栗色の髪を握り締める。
何かを懸命に抑え込むかのような、しばしの沈黙。
「…………見っとも無ぇな」
自制心のぐらついた頭を片手で支えて俯くと、溜め息混じりにそんな嘆きを吐く。
「……ダン……」
とてもか細い声が零れ落ちる。
だが、ダンは顔を上げずにトミーに背を向けた。
「今のは、忘れろ」
舌打ちして、苦笑いした声で言いながら流し台まで戻る。
少しくらくらと眩暈を感じた。
目頭を押さえてぐっと気を入れ直す。
こんな時に、一体何をごねているのか。
とにかく今は事を収めるために頭を使うべきだろうが。
時間を要して呼吸を整えると、ダンはゆっくりと口を開いた。
「……結局、実家に……戻って、どうだったんだよ?」
外に出る危険を冒してまで実行したのだ。
ちゃんと報告を受ける権利がある。
そんな理屈めいたことを引っ張り出さないことには居た堪れなかった。
ダンは、ノルヴェルトがトミーだけに伝えたかったことは何だったのかを、同席したロエから大まかに報告を受けていた。
ノルヴェルトがなぜ、ソレリという少女と生き別れてしまったのか。
そして、その少女の両親がどのような最期を遂げたのか。
傷だらけのエルヴァーンが『事実』として語ったその話を聞いて、どう思うかは別として。
指揮を執るダンにとって、その情報はあらゆる可能性に備えるのにとても重要だった。
今日もノルヴェルトが新たな情報を口にしなかったかは把握しておくべきところだ。
振り返ると、トミーが先程の位置に立ち尽くしたままこちらを見つめていた。
なぜだか知らないが、今にも泣き出しそうな顔をして硬直している。
――たちまち、二人きりの間に何かあったのではないかという不安に駆られた。
「さっきはただ昔の話をしてただけだと言ってたが、本当にそうか? 俺達のところに戻ってきたお前達の印象は、だいぶ変わっていたが……」
どうやらトミーは、何かを胸の内に秘めているようだ。
それは分かった。
それから――それを口にすることを、とても拒んでいるということも。
再び歩み寄ると、トミーは俯いてしまう。
下がった前髪の下で何かを言ったような気がした。
少し迷ったが、顔を隠しているトミーの髪を片手で退けてみる。
トミーは足元にじっと視線を突き刺し、悔しそうな顔をして唇を噛んでいた。
「……んな顔するんだったら言えよ、メンドくせーな」
まるで意固地になった子どものような彼女の姿に力が抜け、普段の余裕を持った飽きれ声が出た。
心底ほっとする。
どんな理由で距離を置こうとしているのか、理由はあとでもいい。
こうして必死に抗っても、最後には本心を見せてくれる。
今は、その顔が見られれば、それでよかった。
そのことを噛み締めていると、ようやくトミーの唇が薄っすらと開かれる。
「……色々と……思い出したんだ。昔のこと」
今度は、ダンが硬直する番だった。
トミーはゆっくりと、語り始める……。
「私……私、ね? ちっちゃい頃、何かの事故に巻き込まれたことがあって。その事故で私を庇ったお母さんが、ひどい怪我をしちゃった記憶があるんだけど……」
両手の指を絡めながら、若干震えている声が言う。
「お母さん達に話しても、『そんなことはなかった』って……私が事故に遭ったことなんてないって言うんだ。それは……そうだと思うよ。だって私、ずっと家に閉じ篭ってたんだもん」
事故の記憶は家の中ではないから、多分、昔見た夢か何かかと思って自分の中では片付けたと言う。
ダンが何も言えずにいると、トミーは俯いたまま、さらに言葉を続けた。
「お姉ちゃんと冒険者ごっこして遊ぶ時も……お姉ちゃんはお母さん達が持ってる本物の剣を触りたがってた」
冒険者の両親は極めて解放的な教育方針を持っており、実物を子どもに触らせることに抵抗はなかった。
でも自分は、好奇心で本物の剣に手を伸ばすことは絶対にしなかった。
それは、『誰か』に教えられたからだ。
遊び心で触れて良いものではないのだと。
「時々見てたあの青い夢もね、なんか……分かってきちゃった」
「……何が」
ダンが大変な思いをしてやっと搾り出した言葉は、非常に短いものだった。
トミーはぼんやりと手元を見つめて、言葉を紡ぐ。
「あの青……夢で見るあの青は……」
クリスタルの青だと、トミーは言った。
そしてあの夢に必ず出てきたエルヴァーンも、自分を害そうと手を伸ばしてくるのではない、とも。
「最近見たあの夢で、ノルヴェルトさんだったんだ。いつものエルヴァーンが。必死に誰かを呼んでて、最後の最後に別の名を叫ぶの」
最近色々な話を聞いた混乱のせいでそんな夢を見ただけだ。
ダンは言葉にできなかった。
ただただ愕然とトミーのことを見つめてしまう。
頭の中には『行くな』という言葉しか浮かばない。
いつの間にか涙声になっているトミーは、小さく喉を引きつらせて頭を抱えた。
「事故の記憶の怪我人は、セトさんかもしれない……ね。青い夢は、本当のお父さんとお母さんの、最期の記憶なのかもしれ…いね……?」
ぽたりと、彼女の襟元に涙の雫が落ちた。
髪がほつれたまま、トミーは小さく震え始めた自分の体を抱き締める。
「私……ソレリさん…」
「待て」
「エルヴァーンが怖かったのも、きっと、ひどい出来事を見ちゃったからなんだ。お母さんと出会った時に本当の名前を言わなかったのも、怖い記憶から逃げたかったからなんだ」
次々と言葉がトミーの口を突いて出る。
「両親はもういないって、分かってたんだ…っ、私。だから会いたいとか、そういうこと考えたことなかったんだよ……!」
女神の加護で蘇ることができると知っていても、冒険者が命を落とすのが怖くて堪らなかった。
それはきっと、すでに自分が死を経験していたからだ。
命を失ってクリスタルの光に飲まれていく《死》の感覚を、実は――自分は知っていたのだ。
「そうとしか……思えなくなってきちゃった……。ノルヴェルトさんとも、きっと初対面じゃない。だからあんなひどい事も言えちゃったし……ケンカもできちゃったの。ダンも疑問に思わなかった? 私、ノルヴェルトさんには……過敏に…なる…」
「待て」
「きっと…そうだよ……私、自分で忘れたんだ…っ! ちっちゃい頃の自分を自分で、捨てたんだよぉっ!!」
涙ながらに叫ぶトミーの肩をダンが引っ掴む。
悲惨な声が口から飛び出しそうになる。
『そのことを絶対にノルヴェルトに言うな』
だが口を噤み、ダンは必死の思いでその言葉を喉に留めた。
代わりに胸の内で己に対する罵りを叫ぶ。
――卑怯者!
「…………言えないよ……」
ダンはぎょっとしてトミーのことを見てしまった。
無意識の内に声になってしまっていたかと肝を冷やすが、そうではない。
脱力して、倒れてしまいそうなくらい危なげに立っているトミーは、下を向いたまま。
「……ノルヴェルトさんには……こんなこと、言えないよ」
頬に涙を伝わせて言う。
「言っちゃダメなんだ。言ったらきっと……ノルヴェルトさん……行っちゃう……」
――だからそ知らぬ顔をして、ノルヴェルトに対して白々しい会話を続けようと?
――そんな思いを一身に抱え、多少傷付けることになっても、あの男を繋ぎ止めようと?
ダンは頭に血が上るどころか、さぁっと血の気が引いていったのを感じた。
絶句していると、不意に何かに気付いたようにトミーが瞬きを繰り返す。
そして血相を変える。
涙もそのままに、ばっとダンの顔を見上げた。
「……ノルヴェルトさんは?」
そういえば、部屋の前にも姿はなかった。
まともに思考が回らなくなった頭で思い返し、ダンは辛うじて目線でそれをトミーに伝える。
すると、弾かれたようにダンから身を離したトミーは部屋を飛び出した。
「ノルヴェルトさん!?」
叫んで廊下を見回す。
「ノルヴェルトさんっ!!!」
一体何が起きたのかと目を見張ってしまうほどの、悲痛な声だった。
――すると、廊下の先から飛び出す人影がある。
背に携えた鎌の柄を握った銀髪のエルヴァーンだった。
なぜそんな離れた方向から姿を現したのかは、その直後の彼の表情で推測できた。
トミーに危害が及んでいるわけではないことを見て取ったノルヴェルト。
まるで『しまった』と言うような、不覚の表情を浮かべる。
すぐさまトミーは必死に駆け寄った。
戸惑いの表情でぎくしゃくした後、ノルヴェルトは視線を落として踵を返す。
彼が踏み出したところでトミーが追い付き、今にも転びそうな勢いで彼の外套を引っ掴んだ。
懸命にしがみ付いてノルヴェルトをそれ以上歩かせまいとしたトミーは、弾んだ息を付きながらこの男が向かおうとした先を見やる。
――玄関があった。
「私も……! ソレリさんを捜すの手伝いますから!!」
外套を握り締め、ノルヴェルトの背中に抱き付いた体勢のまま叫んだ。
「一緒に考えるし! 色んなところにも一緒に捜しに行く!」
足元に視線を落とし、ノルヴェルトはじっと固まっていた。
背中でのその叫びを聞き、おずおずとトミーのことを肩越しに振り返る。
視線の先の娘がすでに涙でいっぱいになっているのを見て酷く驚いていた。
「ノルヴェルトさんが上手に言えなくても、私も頑張って説明します!」
体の向きを変えて完全に振り返っても、トミーは掴んだ外套を放さなかった。
いきなり泣きじゃくっている彼女に戸惑ってしまい、呆然と見下ろす。
そしてノルヴェルトは、じわじわと表情を苦いものにして視線を反らした。
「……貴女にも……本当にすまないことをしたと……思っています」
一瞬でも『生きたい』なんて思った自分が、愚かに思えて仕方が無い。
そんな苦悶の表情を浮かべ、ノルヴェルトは目を伏せる。
「私は……私の役目を果たします」
「ノルヴェルトさんの役目は、ソレリさんに伝えることでしょう?」
そう言ったじゃないかと訴えながら、トミーは彼に一層強くしがみ付く。
「お願いです、約束してっ。もう人を斬っちゃダメ! お願い……」
揺れる瞳で必死に懇願する。
彼女を見つめるノルヴェルトは朧気で、ひどく脆かった。
「……あの騎士が言っていたことも、すべてが間違っているわけでは……ありません」
自分自身さえも、信じられずにいる瞳。
「私は殺します。向かってくる者は……なんて、区別しているつもりでも、実際に区別できているか分からない」
自分や、あの騎士が生きている限り、死者を絶やすことはできない。
そう言葉にする虚ろな表情から、言っているノルヴェルト本人が、どうしようもなく絶望しているのが分かる。
トミーは細い肩を震わせた。
「ノルヴェルトさんが生きてるから人が死んでしまうなんて違う! それは違います!」
力いっぱい外套を握り締めてぶんぶんと首を振るトミー。
「そ、それに、いなくなっちゃダメじゃないですかっ」
涙を流す辛い表情の中に、無理矢理、笑みを浮かべる。
「会わなくちゃ。ノルヴェルトさんは……ソレリさんにちゃんと伝えなきゃ」
そんなことを言うヒュームの娘を見下ろし、ノルヴェルトは痛々しげに目を細めた。
何かをしようとして、ふと自分の外套を握り締めている彼女の手に視線を下ろす。
その目線に気付いたトミーは放さないぞと言わんばかりに手に力を込める。
ノルヴェルトが歯噛みして顔を背けると、長い銀髪が外套の上を滑り、肩の前に流れ落ちた。
「なぜ……突き放さないんですか!」
もがくように、悲痛な声が溢れ出す。
「どうして引き止めたりなど……! 貴女はソレリではないのでしょう!? 関係ない、来るなと、拒絶したらいい……」
私は、貴女から奪うことしかできない。
銀髪で表情を隠し、酷く苦しげな声で呻く。
トミーは彼の言葉に対して何も返さず、掴んでいる外套に身を寄せた。
まるで聞き分けの無い幼子のように、口を引き結んだまま、ぎゅっと。
――なんて残酷なのだろう。
自分がこの男に要求していることの過酷さを思い、トミーは涙が溢れる目を伏せた。
「ノルヴェルトさんは、私と一緒にいるの」
言い聞かせるような声で呟く。
棒立ちになっている冷たい鎧の体を、抱き締めた。
ダンは部屋の前からその光景を眺めていた。
別の部屋にいた仲間たちが何事だとダンの傍に集まってきて、彼が見つめている先を見て言葉を失う。
エルヴァーンの姉弟も遅れてやってきた。
状況を見たパリスがダンに視線を向ける。ダンもパリスのことを見る。
その時ヒュームの戦士が浮かべた表情に、パリスは思わず眉をしかめてしまう。
ダンは、『自分の言った通りだろ』という目をして嘲笑を浮かべていた。
ーーそう。
彼が恐れていたのは、彼女の底知れぬ優しさなのだ。
「おい変態」
「きゃああああ『変態』呼びに戻った!!!!」
ダンの呼び掛けに発狂した黄色い声で反応するローディ。
周りの仲間達がびくりと身を引くが、ダンは淡々と告げた。
「敵さんに挨拶しに行くぞ、同行しろ」
あとがき
第二十六話『決意』でした。どうしてこんなことになってしまったのか。
それぞれが揺らいだ回でした。
密度が異常で読むのも大変でしたよね。
すみません……。
胸に誓っていた決意。
すれ違う、示された別の決意。
あまりにも苦しい。すべてが。
……頑張れ、ダンテス・マウザー。