決意
2008/09/27公開
いつの間にか日が真上に昇っている。
そのことに気が付いたのは、石造りの家屋が並ぶ狭いマイナー通りに入った瞬間、日陰が全く見当たらなかったからだ。
店がない質素な通りは物静かで、通行人の姿は一人も見掛けない。
おそらく、この通りの主な通行人である民間の人々は、この時間を昼食に費やすからだろう。
「あの、『すみません』っていうのは別に謝ってるんじゃなくて」
人の気配を感じない通りに、おどけているのか真剣なのか曖昧な青年の声が響く。
声の主はパリス。彼が声をかけている相手は、背を向けて歩き続けるエルヴァーンの騎士、ウォーカーだ。
リオのお手柄により断定された血痕付き指輪の贈り主が、彼だ。
「呼び止めようとしてるんですけど!」
パリスが言っているのは、追いながら何度も自分が叫んだ言葉について。
全く反応を返さないウォーカーに対する訴えだ。
あの直後、誰かが何かを口に出すよりも先に、パリスは駆け出した。
会釈してそのまま立ち去ろうとする使者を追い、他の仲間達もその後を追う形となった。
ダンの『待て』という声も、リオの『逃がすな』という声も、恐らくパリスの耳には届いていなかっただろう。
発見時は距離がかなり開いていたので何度か見失ったが、ようやく追い付いた。
何処まで近付いていいのか分からず、パリスは相手に足を止めるように訴えかけるしかなかった。
「己の行動が無用心だとは、思わないのか」
言葉を発すると、ウォーカーはようやく足を止めた。
追う事のリスクなんて十分承知している。
だから間合いを取って身構えもするわけだ。
パリスの広い歩幅で考えて八歩。それがウォーカーとパリスの間の距離。
こういう場面で珍しく先頭に立ったパリスの後ろで、他の仲間達も体勢を整える。
もしウォーカーが追われることを予想していなかったのなら緊張が見えそうなものだが、振り返った黒髪のエルヴァーンは、涼しい顔をしていた。
眼鏡越しの瞳は、とりわけ冷たい。
懸命に呼び止めようとしていた割には、パリスは言葉が出ずに苦しんだ。
ただ指輪とウォーカーの黒い瞳を交互に見比べている。
「あんたも何だか深刻そうだな。冒険者に転職か?」
言葉を選び兼ねているパリスの肩が、後ろから押し退けられる。
ダンが横に並んだ。
厳しい表情の彼の横顔を見て、パリスはまるで、はっと意識を戻した顔をする。
エルヴァーンの騎士はダンの言葉に若干表情を歪めていた。
「あぁ……え~とそうそう、届け物のお礼を言わなきゃと思いまして」
相変わらずの皮肉たっぷりなダンの発言を聞き、パリスの口からいつもの調子の言葉が出た。
切り口を与えてくれたダンに心の中で感謝する。
「友人の落し物を届けてくれてありがとうございます。んで、知ってたら教えてほしいんですけど……。この人、何したんでしょう?慣れないお料理して指でも切ったんですかね?」
『この人』と言いながら、右手に摘んだ血痕付きの指輪を見せる。
つまりリェンのことを尋ねているのだ。
軽い言葉を述べるパリスの声は硬く、指輪を摘んだ指は小さく震えていた。
そのことに唯一気が付いているダンは、一層表情を険しくする。
ノルヴェルトはびたりと鎌の柄を握り、路地の影、家屋の屋根、遠くの窓、あらゆる方向に警戒の殺気を漲らせている。
女性陣は、質問に対する騎士からの回答を聞きたいような聞きたくないような複雑で、緊張した目をして無意識に寄り添っていた。
「私も教えてほしいくらいだ」
一つ溜め息をついて、嘆きのような声でウォーカーが零したのはこんな言葉だった。
意味の解せない一行が眉根を寄せると、彼は眼鏡の位置を正しながら続ける。
「一体、何人の命を犠牲にするつもりなのだろうな………野良犬は」
彼が真っ直ぐに眼差しを突き付けたのは、ノルヴェルトだった。
「仲間の一人を、その大鎌で斬り殺し、若い二人の騎士を騙して利用した挙句、その者の命をも奪って逃亡するとは……」
ウォーカーは、いつの間にか事務的な声になっていた。
「常人にはなかなか真似できないことだ」
「あんた……何を言ってる?」
噛み殺した声をダンが絞り出すが、ウォーカーは構いもせずに尚も続ける。
「次は、誰を足場にして逃げるつもりだ?」
「待って。あなたが言ってることの意味が僕ぁ分かりません」
「そのままの意味だ」
「分かんないわよ!だって、あの頭おかしい男を仕向けたのは…!」
「あれはお前達の連れだろう?」
「二人の騎士って誰のこと」
「そこの野良犬に聞くといい」
皆が口々に疑問をぶつけるが、黒髪の騎士はさらりさらりと言葉を返す。
「お前達がどんな連盟を組んだのかは知らないが、身の為ではないぞ。……一族に日の目を見せてやりたいのなら、愚かな行いは控えた方が良い」
愕然と立ち尽くしているパリスに向けて、ウォーカーが意味深な言葉を投げかける。
「恩を掛けたところで、必ずや仇となって返ってくるのだから」
「何を言って……?」
「そうだな、次はお嬢さんが足場にされる番かもしれない」
ウォーカーは、今度はトミーに視線を向ける。
呆然としているトミーの前で、リオとロエが緊張した表情で身構えるが、やはり気にも留めないウォーカーは『失礼だが、名前は?』と問う。
ダンの表情があからさまに厳しさを増した。
「はぐらかさないで答えてください。あなた達は、リェンに何をしたんです!?」
くだけた調子も捨てて、パリスが真剣な声で再度問い掛ける。
ウォーカーは、何度も同じ事を言わせないでくれとでも言いたげな顔をして、溜め息をつく。
「彼は本当に不運だったと、私は思う」
少し暗い、何処か空虚な表情になって彼は言葉を紡いだ。
そしてゆっくりと、足が踏み出された。
ぴくりと反応する面々に構わず歩み寄ってくる。
距離は四歩に縮まった。
「彼があと一日でも早く、我らが主に謁見できていればな」
抑え気味の低い声で呟いているのは嘆きのようだった。しかし、悔やんでいるようには見えなかった。
「そうすれば、罪人に加担するような過ちを犯すことはなかったはず」
距離が縮まったにも関わらず聞き取り辛くなった声。
それに対する当て付けであるかのように、『妙だな』という、きっぱりとしたダンの声。
「その言い方だと、まるでお約束があったみたいに聞こえるぜ?」
目を細め、鋭い視線でウォーカーに切り込むダン。
ウォーカーは静かに頷く。
「彼は我々の主に選ばれた者の一人だったのだ。つまり、いずれはそこの野良犬とは相見えるはずだった」
『違う形でな』と、最後に一言付け加える。
その言葉に皆は眉をしかめる。
しかし、ノルヴェルトだけが、導き出された真実と直面して目を見張っていた。
脳裏に過ぎったのは、今日までに越えてきた幾つもの闇夜で感じた、真っ直ぐな殺気達。
テュークロッスの部下とは雰囲気の異なる、使命を帯びた瞳の若者達で編成された襲撃班の姿だ。
思い当たることがあるのかという白々しい顔で眉を開き、ウォーカーはノルヴェルトをじっと見つめた。
「リェーエンルー殿は誠実な青年だったようであるし、国の治安の為に騎士として剣を取り、命を落とした方が……さぞ本望だっただろう」
「それはナニか。あんたらの立派なお勤めの手伝い候補だったって言いてぇのか」
どうやらダンも、ノルヴェルトと同じ結論に到達したようだ。
口を閉じることで肯定の意を示すウォーカー。
舌打ちし、ダンは足の幅をじゃりっと広げ構えを強める。
その隣で、パリスは蘇った記憶に頭を殴られたような衝撃を受けた。
『実は、他にもチャンスが転がり込んできそうなんだ』
『………「きそう」ってことは、また噂が情報源?』
『噂とは少し違うんだが……。それについては詳しく話せない。しかしこの国の為に剣を捧げるのは確かだ』
「……まさか、嘘嘘」
導き出されたものがあまりにもとんでもない事柄だったので、思わず笑みが滲み出る。
静かに、且つ急激にパニックに陥っていくパリスの目には、とんでもないことを平然と語るウォーカーがこの世のものには見えなかった。
ウォーカーは言葉を続ける。
「結局、彼の中で自分は反逆者となってしまったことだろう。まぁ、行く末は変わらなかったかもしれないが……。そうだろう?」
ノルヴェルトを横目に見る。彼の視線を遮るように『どうして?』と問いが飛ぶ。
「どうしてそんな酷いことが?!」
思わず声を上げて足を踏み出したのはトミーだった。
離れそうになるトミーを驚いた顔でリオが力任せに引き戻す。
「勘違いしてもらっては困る。死者を生み出しているのは他でもない、その男だ。野良犬には関わらない方が賢明だと、物言わぬ者達もあの世で囁いていることだろう。お前達も考え直すなら急いだ方がいい」
そこまで言って、ゆっくりとウォーカーの足が後退し始める。
「かのマキューシオ殿とその妻子にもお伝え願いたい。まだ人を殺め足りないのかと」
大鎌の柄を握っているノルヴェルトの手は真っ白に血の気が失せ、あまりの握力でカタカタと僅かに震えている。
「これ以上追ってくることは開戦を意味する。お前達に選択肢は用意されていない。それなりの覚悟を持っていないのなら、控えた方が良いぞ」
ウォーカーは皆のことを眺めたまま数歩後退し、くるりと背を向けて歩き出した。
普段彼が身に着けている外套があったなら、ばさりと音を立てていただろう。
そして次の瞬間、誰かが足を踏み出していたかもしれない。
―――ダンのこの声がなかったら。
「ウォーカーさん」
一音一音はっきりと強調するように、ダンがその名を呼んだ。
はたと黒髪の騎士が足を止め、ゆっくりと、肩越しにこちらを振り返る。
皆が息を呑んで身を固くしている中、敢えて彼の名前を呼んだダンは、脅すような声で続けた。
「あんたは、やり過ぎだとは思わないのか?」
顔も名前も、覚えている。
あんたも同罪と見なし、絶対に逃がしはしない。
そう物語るダンの深いブルーの瞳が、使者を真っ直ぐに捉えている。
ウォーカーはほんの少しだけ、目元に苦いものを滲ませて完全に振り返った。
「お前も、ナイトの資格を持っているのなら、剣を捧げるべきものの判断は付くのでは?」
この言葉が持つ意味に、パリスは目を見開いた。
目を細めたダンのことを見、そしてウォーカーを見つめて顔をしかめる。
あちらもダンの情報を―――。
睨みを利かせるダンに対して相応の挨拶を返した後、ウォーカーは再びくるりと踵を返し歩き去った。
事態のすべてを飲み込めていないリオはぽかんと口を開け、ただ呆然と立ち尽くしている。
ノルヴェルトがぎりりと音を立てて歯を食い縛ると、不意に、自分の外套が突っ張るのを感じた。
キッと視線を下ろした先には―――細い手。
唇を噛んでじっと俯いているトミーが、ノルヴェルトの外套をしっかりと握り締めていた。
* * *
パリスは家に戻ってくるまでの間、何も言わなかった。
徐々に口が動くようになったトミーやリオが動揺や疑問を何度か口にしたが、普段それに対して答えるはずのダンとパリスの二人は、口を結んだままだった。
パリスの家に戻り、皆は広い部屋に集まっていた。
ソファーの上でふんぞり返っているローディを除けば、皆は何処か塞ぎ込んだ様子で、思い思いの場所にじっと座っていた。
この場にヴィヤーリットの姿はない。
皆が戻った時、彼女は丁度チョコボ達の世話をしに向かおうとしていた。
ひとまず無事に戻ったことだけを伝え、起きた出来事については何も言わずにおいた。
そもそもヴィヤーリットは、今パリス達がどんな状況に置かれているのか詳しくは知らないのだ。
厩舎へ向かう姉に手を振って見せたパリスは、気の毒なくらい普通であった。
今は部屋にあるソファーに腰を下ろし、手にしている指輪のじっと見下ろしている。
くるくると向きを変えながら指輪に視線を注ぐことを止めない彼の横顔は、不思議と穏やかさを感じさせた。
しかし、それがまた、周囲の者達には言いようのない不安を募らせる。
「………うーんやっぱり…」
締め付けられる思いで皆がパリスを見守っていると、長身のエルヴァーンは指輪を見下ろしたまま、普段の声色で言った。
「これって多分アレだよねぇ、エンゲージリングってやつ」
乾いた血の汚れを引っ掻いて落とすと、短い一文が読み取れるようになる。
『リェンはメイを望む』と彫られてあるようだった。
非常に何かを言いたそうではあるのだが、何も言うことができない女性達。
トミーが思わずダンのことを見そうになってやめたところで、ダンが静かに口を開いた。
「……やり過ぎだな」
「きひっ、そして誰もいなくなっちった☆になったらどうしゅる~?」
言葉を噛み締めるダンに対し、ローディが洒落にならないこと言う。
耐え兼ねてといった風にロエが『でも』と顔を上げた。
「動揺を招くための作為ということは?そんな……命を奪うような…」
「連中は俺達を連行して、何をしようとしました?」
すがるように言うが、ダンの静かな声にぴしゃりと打ち消された。
リオとトミーが恨めしげにダンのことをじっと見つめる。
「気休めは言わない」
ダンはあえて言い切った。
彼は装備している篭手を少々乱暴に外し、片手に握り締める。
リオはやり場の無い感情を持て余して歯噛みし、ふと思い付いたように立ち上がってパリスの手元を指差す。
「それ持って城に怒鳴り込んじゃえば!?」
「のんのん♪んなことしても、自首してきたっちゅーことで片付けられるんじゃにゃ~い?」
リオがローディの言葉に素っ頓狂な声で聴き返す。
「奴らがやった証拠にはならない」
ダンが冷静に裏付ける。
「奴ら、完全に煽ってやがるな。自分達の顔と名前が割れてても顔色一つ変えねぇ。それどころか、あんな挨拶まで返してきやがった」
ウォーカーが返した言葉によって、相手の情報を握っているのはこちらだけではないと示された。
少なくとも、パリスとダンの身元は割れているだろう。
ここでようやくそのことを理解した女性陣は言葉を失う。
「大方、誘い出すつもりでいるのかもな。多分、証拠なら連中はいくらでも作れる。公に出たところで、連中の思う壺だと思ってた方がいいだろう。……あの口振りだと、自分達が消した人間もあんたの仕業にできるようだしな」
ダンはノルヴェルトに視線を向け、そう言った。
銀髪のエルヴァーンは部屋の片隅に佇み、ソファーの上で身を縮めているトミーのことを見つめていた。
見るからに傷付いた表情をしていた彼。
ダンの視線に気がつくと、ぐっと口を引き結んで足元に視線を落としてしまう。
「ひどいよ……」
トミーが、嘆きを搾り出して蹲った。
ふと、パリスが静かな動作で立ち上がった。
皆の視線を一身に浴びている彼は、指輪を片手に摘んだまま歩き出す。
「ちょっと、姉さんのところに行ってきますね」
行き先をダンに告げて、長身の青年はゆっくりと部屋を出て行った。
「ローディ」
自分の名を呼ぶ珍しい声に、のん気な顔で天井を眺めていたローディが凍りついた。
ゆっくりと、声の主であるダンに視線を下ろす。
「…………ビッ…クリした、腰砕けるかと」
「今後の話をしたい。場所を移すぞ」
ローディの言葉を最後まで聞かずに、ダンはソファーから腰を上げた。
そして退室際、僅かにトミーへ視線を掠める。
トミーは意図してダンのことを見ないようにしているかのように、ぎゅっと握り締めた両手を見下ろして唇を引き結んでいた。
* * *
ヴィヤーリットは厩舎から戻ると、部屋で椅子に腰掛け、刺繍をしていた。
膝に乗せているのは、自分の体に合わせて生地から作った黒いワンピースだ。
以前一度完成させたものだったが、どうも寂しく感じ、群青色の糸で草花の刺繍を施し始めていた。
その時、長身の弟が部屋に入ってきたことに気が付き、ヴィヤーリットは針を通していた手を止め、ワンピースから視線を上げる。
三つ網の黒髪が肩にかかり、顔に微笑みを浮かべた。
どうかしたのかと問う、傾げた首。
パリスはしばらくじっと自分の足元に視線を落としていたが、その空虚な表情に少しずつ懐かしむような笑みを浮かべていく。
そして、手に握り締めていたものを懐にしまってから、顔を上げて言った。
「ねぇ、姉さん。姉さんはリェンのことを覚えていますか?」
突然の問いに、ヴィヤーリットは瞬きを繰り返す。
「昔よく兄さん目当てで僕に会いに来てた、赤髪の彼ですよ」
補足するパリスに、勿論覚えていると言いたげにヴィヤーリットは頷いた。
そこで姉は、弟の話に集中するため針を針差しに戻し、ワンピースを脇のテーブルの上に置いた。
しかし、パリスは姉と向き合って話をするつもりはないのか、すたすたと姉の前を横切り、部屋の端にある椅子に腰を下ろす。
眩しく光る窓のせいで逆光になった弟の姿に、ヴィヤーリットは目を細めた。
「本当のこと言っちゃうと、僕は彼が苦手でした」
パリスは淡々と言う。
「どうも反りが合わないし……それに、リェンの目的は兄さんだって知っていたから」
膝に肘を着いて両手を組みながら語るパリスの姿は、実際の背丈よりもずっと小さく見えた。
ヴィヤーリットが眉根をひそめ、椅子から腰を上げる。
パリスが『でも』と言葉を続ける。
「あの、……は…でも…」
小さく笑いながら言いよどむ弟の前に姉は立つ。
「…………彼は、本当に僕の、友達でいてくれたみたいなんです」
手元を見つめているパリスが瞬きをした。
ぽたりと涙が膝の上に落ちる。
嗚咽が溢れそうになる口をすぐに片手で押さえ、更に身を縮めるように小さくなる。
「……今更っ………気が付…!!」
押し殺した嗚咽の中に憤りの声が混じった。
その声に、ヴィヤーリットは弟が何かによって傷付けられたのだと悟った。
彼女の瞳には弟に対する慈愛と、無力な自分への嘆きが映し出される。
ヴィヤーリットは身を屈め、弟のアイボリーの髪をそっと撫でた。さらりと掬うように。
それから、ゆっくりと弟の首の後ろに腕を回し、何も言わずに抱き締める。
まるで、今となっては自分よりも背丈のある弟を、守るかのように。
* * *
エルヴァーンの姉弟のところには顔を出せない状況だったので、ちゃんと許可を取ってはいないが、ダンとローディの二人はすぐ近くの比較的小さな部屋に入った。
そこは日頃あまり使われていない部屋のようだ。
椅子とテーブルのセットはなく、長居をするような場所ではなさそうだった。
部屋の中には、何処からか運んできたものをそのまま置きっぱなしにしてあるかのように、幾つもの箱や包みが並べられている。
部屋の中央には、片付け忘れたような足の長い小さな机が一つ。
「………おセンチだにぇ」
ローディはその机の上で犬座りをしながら、ダンを見下ろしてぽつりと呟いた。
木箱の上に腰を下ろして思案に暮れているヒュームの戦士をしょっぱい顔で見つめる。
あの青年騎士を信用し切れなかったのは、仕方が無いことだった。
もしも、この家に到着してから口にした今回の件の真相を、彼の前で話していたら。
そんなことは今になったから思えることであり、どうしようもないことなのだ。
それは分かっている。頭では。
「…………これがノルヴェルトの世界か……」
確実に身を護るために『信用できない』という、過酷な孤立について思う。
穏やかではない事態だということは、ずいぶん前から感じていた。
実際に見知った人間が敵の手に落ちたとなると、危機感の増大は尋常ではない。
そして意図的に恐怖を生み出そうとするかのような、繰り返される自問。
―――護れるのか?
―――本当に、何があっても護り通すことが?
「………絶対に安全な場所ってのは、何処だ」
何の前置きもなくぼそりと呟く。
『絶対にだ』と念を押すダンは、自分でもおかしなことを言っているという自覚がある様子だ。
ローディは最高に気分が悪そうな顔をして、干乾びた声で『重症だにゃー』と言った。
「あいつら放り込んでおきてぇ……」
「えぇ~~女達ぃ?んまぁ、あると言えばあるけどぅ~」
そっぽを向いて口を尖らせるローディにダンの驚きの表情が向く。
「内緒にしておきたかったけど……俺様のモグハ?偽名で各国に幾つも持ってるから超雲隠れだぞぃ。っちゅかあの騎士ボン、俺様のことは調べられてないんじゃに~の~?プンプンッ」
「おい、それは…」
「マジの話だお。絶対的安全は保障できるぞぃ。でもまぁ何、妊娠しちゃったらごみぇん☆」
「こちとら情緒不安定なんだ。うっかりマジで殺りかねねぇからそういうこと言うんじゃねぇ」
ぺろりと舌を出してお茶目に頭をコツンと叩くローディに、ダンの低い声が威嚇した。
しんとした室内にローディの独特な笑い声が響く。
そして、金髪碧眼の青年は犬座りをやめて立ち上がる。たんっと軽く床に飛び降りた。
ふわりと広がった金髪を後ろに跳ね除けて、にこりと笑う。
「にゃ~にゃ~、早く聞きたいんだけど~?今後のは・な・し♪俺様、子どもはいらないからペット飼いたい!!」
「散々挑発してきたが、連中はやっぱり何処かで公に出ることを嫌ってるな」
お望み通り、ダンは話の本題に入り淡々と言った。
そう、適当な理由を付けて捕らえることなど、やろうと思えば大分前からできたはず。
それでも踏み込んでこない彼らの真意を洞察するダンにローディも頷く。
「政治ってのはデリケートなものなり。過程で塵一つ舞うことも嫌うのら。きひっ、今回で結構手荒な真似したからのぅ。並みの賢さがあれば…」
「ここで一旦手を引っ込めるだろうな」
「だねだね」
今までは放浪するノルヴェルトを陰ながら襲撃していたようだが、今回の舞台はサンドリアの城内だったのだ。
どんなに上手く丸め込んだとしても、やはり多少は周囲の目に付いている。
ここで更に行動を仕掛けてくるとは考えにくい。リスクが多過ぎる。
行動に伴う犠牲者を連中がどう処理しているのかは不明だが、短期間に何人も出すのはさすがにまずいだろう。
元より、こちらとしては何者の命も脅かすつもりはないのだが。
「ガタブルして巣穴深くに姿消されるよりは、刺激して向かってくるように仕向けた方が楽だからな。俺様があっちの立場だったらそうするし~」
「人数使ってくる可能性は低いとして、動くとしたらあの側近あたりか……」
「ってかダンとの作戦会議シチュとかマジ萌え死にそう!密室に二人きりキターーー!!」
「何にせよ、行動するなら今しかねぇ。いつまでもここに居候するわけにもいかないからな」
もう、犠牲者を出すわけにいかない。
やや深刻な声になって呟くダンを尻目に、ローディは思うことがあるように口をひん曲げた。
人のことなんてどうでもいいっていう奴だったのにのぅ…。
面白くないやら寂しいやら。
ふと、ローディの頭の中に報告の声が流れ込んできた。
大所帯の大混雑リンクシェルは相変わらずの騒がしさだが、その声は静かなリンクシェルからのものである。
ローディは大袈裟な溜め息をつき、ダンに背を向けると部屋の中をうろ付き始めた。
「こっちのビッグイベントも、大体片が付いたみたいだのぅ」
周りに積んであるものをガサガサと勝手にあさりながら言う。
「これでもう呼び戻されることもないし、俺様フリーーーーーダムッ!!」
手短にあった箱を開けて中身を持ち上げてみると、王国制式礼服だった。
また勝手に引っ掻き回し始めたローディに眉をしかめつつ、ダンは問いかける。
「終わったのか?」
「きひっ!やっと開放されたぞぃ☆」
「そもそも、一体何やってたんだお前ら」
「リージョン操作」
王国制式礼服をぽいと箱の中に戻しながら、あっけらかんとして答える。
一瞬時が止まってから、ダンは『あ?』と聞き返した。
「希望が一致してるユーザーがある程度集まるとね、たまにやったりするにょ?ちょっとぶっちゃけると、今回のメインユーザーが銃士隊でのぅ。若干特別だったなりよ。何をするためなのかなんて野暮なこっちゃ聞かないから知らないけどにゃー」
しかし本当に退屈で、全体の士気を保つのが一苦労だったと。
箱の奥に立て掛けてある包みに手を伸ばし『めんどかったクポ~』と続ける。
つまり、ローディを総帥とした正体不明の巨大組織は、その規模とスキルに物を言わせ、世界の支配分布を複数の依頼人の望みに合わせて実現させる行為を行っていたということだ。
各地の管轄権を定める要素はいくつかあるが、その中の一つである『冒険者の功績』をもって操作したということだろう。
ダンは、世界の冒険者人口がどれほどか分かっているのかと、問い詰めるような眼差しでローディを見つめてしまう。
布に包まれていた剣をしげしげと眺めていたローディは、ダンの眼差しに気が付くとニッと笑った。
「きひっ、世界で一番力を持ってるのは誰だ?権力者か?実力ある冒険者か?」
『答えはどちらも否』と言って、ぴしりと剣を掲げた。
そして誇ったように言う。
それは『暇人』であるーーーと。
「あらゆることを可能にできるのは暇人だ。分かるかね?どんなに能力が高くても、時間がなけりゃ何もできんからのぅ。逆に、暇人はヒマ故に何かに秀でていることが多い。そして何より『飢え』ている!そういった暇なオタク共に面白いことを提供すれば、各々見事な力を発揮するなり」
暇なスペシャリスト達を束ねるには、カリスマ的に面白ければ良いのだ。
言いながらダンを振り返った金髪の青年は、過去に成し遂げた幾つもの偉業を思い返しているかのよう。
達観した顔の彼にダンは言葉も無い。
ローディは掲げた剣をくるりと回して持ち替え、乱雑に布を巻き、最初の状態に戻す。
「そう言う俺様も生粋の暇なスペシャリスト、略して『ヒマリスト』だからのぅ!きひっ!面白ければいくらでも協力してやるぞぃ。前にも言ったけど~、今回の操作も何か役に立つんじゃな~~い?きっひっひ☆」
―――コンコン。
「ロエたんに一票!!!」
部屋の扉がノックされたのを聴き付けてすぐにシャウトしたローディは、手にしていた剣をその場に置き捨てて扉に飛び付いた。
扉を開くと、彼の予想通り、茶器を乗せたトレーを抱えたロエが驚きの顔を上げていた。
「お、お話の邪魔をしてしまってすみません」
「ロエたんたん♪ナニナニどぅ~したのコレ」
機嫌よく言いながら、彼女の手からひょいとトレーを取り上げる。
「あの、たくさん話をするなら喉が渇くだろうということで……」
「さっすがじゃのーぅ☆」
嬉々として声を上げるローディに対し、ロエは慌てて説明を付け加えた。
どうやら、それを言い出したのはトミーらしい。
そしてお茶を淹れたのもトミーだが、届ける役目はロエが任されたという。
トミーは、自分は片付けをやるからと言っていたらしいが、わざわざ体の小さいロエにお茶出しを任せるのは少々不自然な気がする。
何かを察したように眉をしかめるダンを横目に、ローディはにま~と笑った。
例の小さい机の上に茶器を置く。
「丁度良い、ロエさんも参加してもらえますか」
このダンの言葉に、ローディの顔は更に不純な笑みとなり、ロエは目を瞬いた。
『意見を聞きたいので』と言うダンに、ロエは戸惑いながらも返事をして扉を閉める。
小さなタルタル魔道士は彼らの傍にある小箱に腰を下ろす。
まず口を開いたのはローディだった。
高揚を映した目を細め、優雅に腕を組むと美しい声で言う。
「ふむ……イベントは終わったが、こっちも奴らと同じく手を引っ込めてフェードアウト中だ。だから俺が提供するのは俺の体一つだぞ」
突然の変わりようにロエが目を丸くする。ローディは小声で『きひっ、惚れちゃうのぅ☆』と言ってウィンクした。
「俺のことはダンの好きに扱うと良い。ブレーンも良いが、久々に駒を楽しませてもらおうか」
「は、随分とあっさりしてるな」
意外そうな声で言うダンに対し、ローディは肩をすくめて『司令塔は一つがセオリー』と答える。
「それに、メンバーの個性と能力をよく理解してるダンがチームリーダーに適任なのは明らか」
『だろう?』と言って、ローディはティーカップを手に取った。
こちらがいちいち言うまでも無い彼のスムーズさに、ダンは素直に喜べないやり易さを感じて苦笑した。
正直な話、普段の調子で駄々を捏ねたりすることを想定していたのだが、やはり根っこは“プロ”らしい。
苦笑したまま『上出来だ』と言うと、ローディはがらりと普段通りの表情に変わり、奇声と共に両手を挙げた。
ティーカップを片手に持ったままズバッと万歳をしたが、お茶が一滴も零れない不思議。
次にダンは、奇怪にはしゃいでいるローディをぽかんと見上げているロエを呼んだ。
「パリスの分も頼ってしまうことになると思いますが……協力してもらえますか」
エルヴァーンの青年が今後どうするかは分からない。
しかし、ダンは元より、彼を戦線離脱させるつもりのようだ。
ダンの意思を聞き、ロエは膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めて頷く。
「勿論です」
「っま、ダンと俺様が組めば最強だからのぅ」
どういう狩りになるか楽しみだと、ローディはぺろりと唇を舐めてにやりとした。
彼が横目に見た先のダンは、組んだ手元にじっと視線を注いで、すでに思考を廻らせている顔になっていた。
* * *
まずはお茶でも飲んで、気を落ち着けましょう。
肩を撫でて、姉は部屋を静かに出て行った。
先程は久々に感情が爆発してしまったが、自分を宥めることに関して姉は手馴れたものだ。
きっとお茶と一緒に、赤く腫れた目元に当てるための冷たい濡れタオルも用意してくることだろう。
両手が塞がった状態で戻ってくることを見越して、姉が開けたままにして行った部屋の扉。
横目でそれを見ながら溜め息をつく。
戻ってきたら、全てを姉に話そう。
心に決め、手の中の指輪をじっと見つめる。
「………こんなの持って…」
赤髪の友人の姿を思い浮かべながら呟く。
「大事な日だったんじゃないの?……あの日は」
やっぱり、結婚を考えてたんじゃないか。
道理で張り切ってるように見えたわけだよね。
でも、あんなに鎌掛けても何も話さなかった。
君のそういうところで僕は……。
ぎゅっと指輪を握り、その手をもう一方の手で握り締めて、まるで祈るような姿勢になる。
再び、絶望的な後悔が体の奥底から沸き上がってくる―――歯を食い縛った。
姉が戻ってきた時に、また泣き崩れているわけにはいかない。
目を堅く閉じ、手を握る力をさらに強めるとパリスは俯いた。
「すまなかった」
一瞬、空耳かと思った。
しんとした部屋に、ぼそりと低く呟かれた男の声。
驚いて顔を上げ部屋の扉を見る――――――だが、誰の姿もない。
痕が残る程強く握り締めていた手を解き、立ち上がって部屋の外を見に行く。
右手の廊下にも、左手の廊下にも、人影は見当たらなかった。
「………今の声は……」
* * *
三人での話し合いを終えて元の部屋に戻ると、手製と思われる焼き菓子と追加のお茶をテーブルに並べるヴィヤーリットの姿があった。
そして、並べている最中の彼女の手元から無遠慮に焼き菓子を掴み取っているリオ。
ロエが茶器を借りたことのお詫びるが、ヴィヤーリットは首を横に振る。
そのままお茶をどうぞ、と仕草で伝え、ヴィヤーリットは小さめのトレーを手にテーブルを離れる。
そのトレーの上には、手拭と一緒に茶器と焼き菓子が乗っており、あれは姉弟の分だろうと察する。
ダンは複雑な眼差しで彼女を見送った。
そして、部屋の中に姿の見えない二人の所在について、ダンはリオに尋ねる。
たくさん頬張った愛らしい顔のミスラによると、トミーは片付けをすると言ってキッチンに行ったままだそうだ。
銀髪のエルヴァーンもしばらく姿を見ていないが、どうせトミーの近くに張り付いているのだろうとのことだった。
あの娘は、人の喜びを自分のものとできるように、人の悲しみも背負ってしまう。
だから今は、きっと心底悲しみに暮れ、怯え切っているはずだ。
茶の手配を含め、仲間にいらぬ気を配っている余地すらない程に。
強がりや誤魔化しでない、あの娘の“ありのまま”を見たいと思った。
おかしな話かもしれないが、もしあの娘が自分にその正直な心を見せたなら、自分もまた、不安から解放されるのではないかという期待があった。
この、胸に重く圧し掛かる、何とも言いようの無い不安から。
そして今、ダンはキッチンの扉の前に立っていた。
扉付近に立っていることを想定していたノルヴェルトの姿は無い。
中にはいてくれるな―――そんなことを思いつつ、完全に閉まっていないドアのノブを掴む。
きぃと音を立てて扉を開き、部屋の中を見ると、流し台の前にトミーが一人佇んでいた。
彼女が一人だったことに大層ほっとしたところで、扉が開いた音を聞きつけたヒュームの娘がこちらを振り返る。
その顔は、最初に見えた横顔以上に、蒼白で追い詰められたものだった。
「……っあ…」
乾いた唇から声を漏らし、すぐさま顔を背ける彼女。
「話し合い、終わったんだね。あれ?ロエさんは?」
必死さが存分に表れている声でそう問いながら、トミーは完全に向こうを向いてしまう。
咄嗟に口にした意味の無い問いだとダンには分かる。
『ネコ達と一緒にいる』と投げやりな声で答えた。
又、質問の内容も少なからずダンを苛付かせた。
やはり何か思うことがあって、先程のような役割分担にしたのだなと、思い当たる。
ダンは重い足を踏んでゆっくりと歩み寄り、尋ねる。
「こっちも終わったんだろ?」
「うん………あと少し」
見たところ流し台に食器はなく、水滴が散らばっていることもない。片付けはもう済んでいるのだろう。
それでもトミーは『あれ?』などととぼけた声を出して、キョロキョロと何かを捜し始める。
この短時間で、彼女がどれほど自分と顔を合わせることを避けたがっているのかが充分感じられた。
それを責める意味で、ダンは黙ったままじっとトミーのことを見つめる。
「………あ…あっ、そうだ。ロエさんにこれ、渡してあげてくれないかな?さっき捜してたから」
トミーはそう言うと、ぱっと流し台から―――もといダンの前から離れ、傍の戸棚に手を伸ばした。
何かを取り出そうと戸棚の扉を開くが、ダンの手がその戸を押し戻し、ばんと閉じた。
驚いたように振り返るトミー。
険しい顔をしたダンが噛み殺した声で言う。
「そんなことはどうでもいい」
何をやってるんだお前は、そんなの嘘なくせに。
ダンはそう物語る厳しい目付きをして見下ろす。
圧力を感じ、トミーは肩を窄めて一歩下がった。
「お……怒ってる、の?」
「そう見えるか?」
「だ、だって……」
『怖い』と言いたげな顔が、深く俯く。
じりじりと少しずつ後退って距離を取ろうとするトミー。
ダンはしばしの間凝視して、それ以上追うことはしなかった。
ただ、ダンは押し殺した声で言った。
「本気で眼中に無しか」
その言葉に、ビクリとしてトミーが視線を上げる。
ダンは戸棚に付いたままの自分の手を睨みつけていた。
「お前は……いつも遠慮がちで、お人好しで、人に対して余計な気を使う。そんなお前の姿に俺は、これまで何度も苛付いた。でも、しょうがないとも思ってた」
『お前はそういう奴だから』と言うダンの目は、とても切なかった。
そう感じて、怖々と彼のことを見上げていたトミーは無意識に唇を噛む。
戸棚に付いた手を握り拳に変え、ダンは眼差しを鋭いものにして彼女に向けた。
「けど……どうしても納得できないことがある」
青い瞳が真っ直ぐにトミーを見据える。
「パリスだロエさんだって、お前は色々と気を使うが……。俺のことはまるで考えてない」
言葉の出ない唇が震えてしまい、トミーはぎゅっと自分の手を握っていた。
「俺の気持ちとか、考えたことあんのか?」
『俺がどんな思いをしてるかお前に分かるか?』と、訴えを重ねるダンの苦しげな表情。
気まぐれで、護れるから護っているのではない。
護りたいから、心から護りたいと思えるから護っている。
最初から護り通せる絶対的保証なんて何処にもない。
自分は全知全能の神ではないのだから。
ただ、限りなく安全に近付ける為に、持ち得る知恵と技を駆使しているに過ぎないのだ。
お前が護ろうとしてる仲間も、お前自身も、全部俺が護ってやる。
だからお前は傷付くな。
この気持ちは変わっていない、あの頃からずっと。
でも、そう在り続けるためには、どうしても必要になるものがあるだろう。
お前自身がいなくなったら、こんな思いに何の意味がある?
「都合良く俺のことを過大評価するのはやめろ。俺にだって必要なものはある。どうしていつも……何でなんだ?俺の望みは叶えてくれないのか?」
頭の中がゴチャゴチャして、無意識の内に語気が強まった。
握り締めていた手が戸棚から離れ、トミーに触れたそうに伸ばされる。
だがそれは一瞬で、彼女の頬に伸ばされたその手はすぐに引き戻され、己の栗色の髪を握り締めた。
何かを懸命に抑え込むかのような、しばしの沈黙。
「………見っとも無ぇな」
自制心のぐらついた頭を片手で支えて俯くと、溜め息混じりにそんな嘆きを吐く。
自分の名前を呼ぶとてもか細い声が聞こえたが、ダンは顔を上げずにトミーに背を向けた。
「今のは、忘れろ」
舌打ちして、苦笑いした声で言いながら流し台まで戻る。
少しくらくらと眩暈を感じた。目頭を押さえてぐっと気を入れ直す。
こんな時に、一体何をごねているのか。
とにかく今は事を収めるために頭を使うべきだろうが。
「……結局、実家に…戻って、どうだったんだよ?」
外に出る危険を冒してまで実行したのだ。ちゃんと報告を受ける権利がある。
そんな理屈めいたことを引っ張り出さないことには居た堪れなかった。
ダンは、同席しなかったノルヴェルトとの話し合い内容について、先に戻ってきたロエから大まかに報告を受けていた。
ノルヴェルトが何故、ソレリという少女と生き別れてしまったのか。
そして、その少女の両親がどのような最期を遂げたのか。
傷だらけのエルヴァーンが『事実』として語ったその話を聞いてどう思うかは別として、指揮を執るダンにとって、その情報はあらゆる可能性に備えるのにとても重要だった。
深く関わっている人物が人物だけに、どうしても把握しておくべきところだ。
個人的なものはさておき、ノルヴェルトが新たな情報を口にしなかったかは重要だ。
振り返ると、トミーが先程の位置に立ち尽くしたままこちらを見つめていた。
何故だか知らないが、今にも泣き出しそうな顔をして硬直している。
―――たちまち、二人きりの間に何かあったのではないかという不安に駆られた。
「さっきはただ昔の話をしてただけだと言ってたが、本当にそうか?俺達のところに戻ってきたお前達の印象は、大分変わっていたが……」
どうやらトミーは、何かを胸の内に秘めているようだ。それは分かった。
それから、それを口にすることをとても拒んでいるということも。
再び歩み寄ると、トミーは俯いてしまう。
下がった前髪の下で何かを言ったような気がした。
少し迷ったが、顔を隠しているトミーの髪を片手で退けてみる。
トミーは足元にじっと視線を突き刺し、大層悔しそうな顔をして唇を噛んでいた。
「………んな顔するんだったら言えよ、メンドくせーな」
まるで意固地になった子どものような彼女の姿に力が抜け、普段の余裕を持った飽きれ声が出た。
どんな理由で距離を置こうとしているのかは、この際どうでもいい。
こうして必死に抗いつつも、結局は自分に降参せざるを得なくなるこの顔が見られれば。
そのことに少し安堵していると、ようやくトミーの唇が薄っすらと開かれる。
「…色々と……思い出したんだ。昔のこと」
今度は、ダンが硬直する番だった。
「私……私、ね?ちっちゃい頃、何かの事故に巻き込まれたことがあって。その事故で私を護ったお母さんが、ひどい怪我をしちゃった記憶があるんだけど……」
両手の指を絡めながら、若干震えているくぐもった声が言う。
「お母さん達に話しても、『そんなことはなかった』って……私が事故に遭ったことなんてないって言うんだ。それは……そうだと思うよ。だって私、ずっと家に閉じ篭ってたんだもん」
事故の記憶は家の中ではないから、多分、昔見た夢か何かかと思って自分の中では片付けたと言う。
ダンが何も言えずにいると、トミーは俯いたまま、更に言葉を続けた。
「お姉ちゃんと冒険者ごっこして遊ぶ時も……お姉ちゃんはお母さん達が持ってる本物の剣を触りたがってた」
冒険者の両親は極めて解放的な教育方針を持っており、実物を子どもに触らせることに抵抗はなかった。
でも自分は、好奇心で本物の剣に手を伸ばすことは絶対にしなかった。
それは、『誰か』に教えられたからだ。
遊び心で触れて良いものではないのだと。
「時々見てたあの青い夢もね、なんか……分かってきちゃった」
「……何が」
ダンが大変な思いをしてやっと搾り出した言葉は、非常に短いものだった。
「あの青……夢で見るあの青は……」
クリスタルの青だと、トミーは言った。
そしてあの夢に必ず出てきたエルヴァーンも、自分を害そうと手を伸ばしてくるのではない、とも。
「最近見たあの夢で、ノルヴェルトさんだったんだ。いつものエルヴァーンが。必死に誰かを呼んでて、最後の最後に別の名を叫ぶの」
最近色々な話を聞いた混乱のせいでそんな夢を見ただけだと、ダンは言葉にできなかった。
ただただ愕然とトミーのことを見つめてしまう。
頭の中には『行くな』という言葉しか浮かばない。
いつの間にか涙声になっているトミーは、小さく喉を引きつらせて頭を抱えた。
「事故の記憶の怪我人は、セトさんかもしれない…ね。青い夢は、本当のお父さんとお母さんの、最期の記憶なのかもしれ…いね?」
ぽたりと、彼女の襟元に涙の雫が落ちた。
結わいた髪を少々ほつれさせたまま、小さく震え始めた自分の体を抱き締めるトミー。
「私………ソレリさん…」
「待て」
「エルヴァーンが怖かったのも、きっと、ひどい出来事を見ちゃったからなんだ。お母さんと出会った時に本当の名前を言わなかったのも、怖い記憶から逃げたかったからなんだ。両親はもういないって、分かってたんだっ、私。だから会いたいとか、そういうこと考えたことなかったんだよ…!」
女神の加護で蘇ることができると知っていても、冒険者が命を落とすのが怖くて堪らなかった。
それはきっと、すでに自分が死を経験していたからだ。
命を失ってクリスタルの光に飲まれていく『死』の感覚を、実は自分は知っていたのだ。
「そうとしか……思えなくなってきちゃった…。ノルヴェルトさんとも、きっと初対面じゃない。だからあんなひどい事も言えちゃったし……ケンカもできちゃったの。ダンも疑問に思わなかった?私、ノルヴェルトさんには……過敏に…なる…」
「待て」
「きっと…そうだよ……っうぅ…。私、自分で忘れたんだ…!ちっちゃい頃の自分を自分で、捨てたんだよぉっ」
涙ながらに叫ぶトミーの肩を引っ掴んだダンの口から悲惨な声が飛び出しそうになる。
『そのことを絶対にノルヴェルトに言うな』
思わず叫びそうになった口を噤み、ダンは必死の思いでその言葉を喉に留めた。
代わりに胸の内で己に対する罵りを叫ぶ。
―――――――――卑怯者!
「……………言えないよ……」
ダンはぎょっとしてトミーのことを見てしまった。
無意識の内に声になってしまっていたかと肝を冷やすが、そうではない。
脱力して、ダンが手を放したらそのまま倒れてしまいそうなくらい危なげに立っているトミーは、下を向いたまま、頬に涙を伝わせて言う。
「………ノルヴェルトさんには……こんなこと、言えないよ。言っちゃダメなんだ。言ったらきっと……ノルヴェルトさん……行っちゃう……」
だからそ知らぬ顔をして、ノルヴェルトに対して白々しい会話を続けようと?
そんな思いを一身に抱え、多少傷付けることになっても、あの男を繋ぎ止めようと?
ダンは頭に血が上るどころか、さぁっと血の気が引いていったのを感じた。
絶句していると、不意に何かに気付いたようにトミーが瞬きを繰り返す。
そして血相を変える。涙もそのままに、ばっとダンの顔を見上げた。
「………ノルヴェルトさんは?」
そういえば、部屋の前にも姿はなかった。
まともに思考が回らなくなった頭で思い返し、ダンは辛うじて目線でそれをトミーに伝える。
すると、弾かれたようにダンから身を離したトミーは部屋を飛び出した。
「ノルヴェルトさん!?」
叫んで廊下を見回す。
「ノルヴェルトさん!!!」
一体何が起きたのかと目を見張ってしまう程の、悲痛な声だった。
――――すると、廊下の先から飛び出す人影がある。
背に携えた鎌の柄を握った銀髪のエルヴァーンだった。
何故そんな離れた方向から姿を現したのかは、その直後の彼の表情で推測できた。
トミーに危害が及んでいるわけではないことを見て取ったノルヴェルトは、まるで『しまった』と言うような、不覚の表情を浮かべる。
すぐさまトミーは必死に駆け寄った。
戸惑いの表情でぎくしゃくした後、ノルヴェルトは視線を落として踵を返す。
そして彼が歩みを始めたところでトミーが追い付き、今にも転びそうな勢いで彼の外套を引っ掴んだ。
懸命にしがみ付いてノルヴェルトをそれ以上歩かせまいとしたトミーは、弾んだ息を付きながらこの男が向かおうとした先を見やる。――――玄関があった。
「私も!ソレリさんを捜すの手伝いますから!!」
外套を握り締め、ノルヴェルトの背中に抱き付いた体勢のまま叫んだ。
「一緒に考えるし!色んなところにも一緒に捜しに行く!」
足元に視線を落としてノルヴェルトはじっと固まっていた。背中でのその叫びを聞き、おずおずとトミーのことを肩越しに振り返る。
視線の先の娘がすでに涙でいっぱいになっているのを見て酷く驚いていた。
「ノルヴェルトさんが上手に言えなくても、私も頑張って説明します!」
体の向きを変えて完全に振り返っても、トミーは掴んだ外套を放さなかった。
いきなり泣きじゃくっている彼女に戸惑ってしまい、呆然と見下ろす。ノルヴェルトはじわじわと表情を苦いものにして視線を反らした。
「……貴女にも…本当にすまないことをしたと……思っています」
一瞬でも生きたいなんて思った自分が、愚かに思えて仕方が無い。
そう言いたげな苦悶の表情を浮かべ、ノルヴェルトは目を伏せる。
「私は……私の役目を果たします」
「ノルヴェルトさんの役目は、ソレリさんに伝えることでしょう?」
そう言ったじゃないかと訴えながら、トミーは彼に一層強くしがみ付く。
「お願いです、約束してっ。もう人を斬っちゃダメ!お願い…」
「……あの騎士が言っていたことも、全てが間違っているわけでは……ありません。私は殺します。向かってくる者は……なんて、区別しているつもりでも、実際に区別できているか分からない」
自分や、あの騎士が生きている限り、死者を絶やすことはできない。
そう言葉にする虚ろな表情から、言っているノルヴェルト本人が、どうしようもなく絶望しているのが分かる。
「ノルヴェルトさんが生きてるから人が死んでしまうなんて違う!それは違います!」
力いっぱい外套を握り締めてぶんぶんと首を振るトミー。
「そ、それに、いなくなっちゃダメじゃないですかっ」
涙を流す辛い表情の中に無理矢理笑みを浮かべる。
「会わなくちゃ。ノルヴェルトさんは……ソレリさんにちゃんと伝えなきゃ」
そんなことを言うヒュームの娘を見下ろし、ノルヴェルトは痛々しげに目を細めた。
何かをしようとして、ふと自分の外套を握り締めている彼女の手に視線を下ろす。
その目線に気付いたトミーは放さないぞと言わんばかりに手に力を込める。
ノルヴェルトが歯噛みして顔を背けると、長い銀髪が外套の上を滑り、肩の前に流れ落ちた。
「……何故っ…嫌悪して突き放さないんですか!どうして引き止めたりなど…。貴女はソレリではないのでしょう!?関係ない、来るなと、拒絶したらいい…」
私は、貴女から奪うことしかできない。
銀髪で表情を隠し、酷く苦しげな声で呻く。
トミーは彼の言葉に対して何も返さず、掴んでいる外套に身を寄せた。
まるで聞き分けの無い幼子のように、口を引き結んだまま、ぎゅっと。
―――なんて残酷なのだろう。
自分がこの男に要求していることの過酷さを思い、トミーは涙が溢れている目を伏せた。
「ノルヴェルトさんは、私と一緒にいるの」
言い聞かせるようにくぐもった声で呟き、棒立ちになっている冷たい鎧の体を抱き締めた。
ダンは部屋から出てすぐの場所から、その光景を眺めていた。
別の部屋にいた仲間達が何事だとダンの傍に集まってきて、彼が見つめている先を見て言葉を失う。
エルヴァーンの姉弟も遅れてやってきた。
状況を見たパリスがダンに視線を向ける。ダンもパリスのことを見る。
その時ヒュームの戦士が浮かべた表情に、パリスは思わず痛々しげに眉をしかめてしまう。
ダンは、『自分の言った通りだろ』という目をして嘲笑を浮かべていた。
ーーーそう。
彼が恐れていたのは、彼女の底知れぬ優しさなのだ。
「おい変態」
「きゃああああ『変態』呼びに戻った!!!!」
ダンの呼び掛けに発狂した黄色い声で反応するローディ。
周りの仲間達がびくりと身を引くが、ダンは淡々と告げた。
「敵さんに挨拶しに行くぞ、同行しろ」
あとがき
もう何だか色々と哀れでならない第二十五話『決意』でしたとさ。各々の決意が必ずしも相対するものではないという話。(´Д`;)
でもまぁ、前話でノルヴェルトに対するトミーの言動に心を痛めた方々は、 これで納得いただけるかなぁと……。
実はある意味『最強』だったトミー。全力でノルヴェルトの枷になります。
ダンに成す術なく、ノルヴェルトも到底太刀打ちできません。
で、思いの他反響が大きいリェーエンルーの悲劇について。
彼に起こったことについては、数話前からさり気なく臭わせてありました。
非常に興味の薄いボン'sのシーンにて、執行者はジェラであるとも。
なのでいつ読者様からクレームが来るかと、もう怖くて怖くて、あとがきでもあんなにビビりまくっていたわけです。(汗)
リェンを愛してくださった皆様、本当にありがとうございました。
ど、どうか………あ……諦めてください。ごめんなさいぃぃぃ!!!(切腹)
次回はいよいよ開戦です。もうマジ頑張れダンテス・マウザー。(ぇ)