失くした時間
2008/06/29公開
『あぁ?家に帰りたいぃ?』
仲間達にトミーが願いを打ち明け、ダンがそんな怪訝な声を上げたのは昨夜のこと。
ローディが戻ってきたのは、月が高く登り、雲間から月光が差し込む頃だった。
真っ赤なドリームローブ姿になって帰ってきた美青年は、ダンが苛立つのを楽しみつつ、勿体つけて外の様子を報告した。
やはり、表からは騎士団が騒いでいる様子は見られず、王都は限りなく日常。
城の者達も、まるで今回の騒動など知らぬ顔でおくびにも出さない。
あれだけのことが起こったというのに、ああも見事に隠蔽するところを見ると、さすが頑強な騎士王国と言うべきだろうか。
そのような城の様子から、考えられる現状は大きく分けて三つあった。
一つは、まさに“王国ぐるみ"で隠蔽していること。
これが一番タチが悪い。
ローディの話によれば、一般的に言う『裏』で手配がなされているかどうかも、軽く探ってみたらしい。
だが、今回の件に関連しそうな情報は存在しなかったそうだ。
『裏』に一般的なものと、そうでないものという区別があるあたり、彼に対して色々と思うことはあったが敢えてそこは流す。
そして二つ目は、状況が急変し、すでに事態が終息しているということ。
青年騎士リェンが抱いていた“心当たり”が功を奏し、こちらが知らぬ内に状況が好転し、城が平常に戻っているという可能性もある。
しかし、残念ながらこの可能性には希望を持てないと皆は感じていた。
そして、皆が暗黙の内に最も可能性が高いと感じているのが三つ目だ。
―――それは、城の者達が、本当に今回の件を関知していないということ。
ローディの言うところの、『一般的ではない裏』の存在である。
つまり、王国とはまた別の、独自のネットワークを持つ連中が動いているということだ。
互いに持ち得る情報を交換し合うが、肝心なところはどれも推測でしかない。
そんな中で、全員が共通して強く理解できたことが一つだけあった。
それは、『危険だ』ということだった。
その流れで当然のように、パリスは行動の願いを申し出た。
リェンは恐らく、この件の詳細を知らない。
知らずに行動するのはあまりにも危険過ぎる。
さらに彼はこの場所のことを知らないため、連絡の取り様がなく困っているかもしれない。
とはいえ、今の状況で城に赴くのはあまりにも危険だ。
しかし貴族が住まう区域は、パリスにとって気軽に立ち入れる場所でもない。
そこで彼は、とりあえず先日リェンと立ち寄った酒場へ向かってみることにした。
リェンにとっても、思い当たる場所と言ったらそこしか浮かばないはずだ。
ただし、このセルズニック兄弟の家から酒場までは、すぐに駆け付けられる距離ではない。
もし何かが起こった場合に備えて、行動班は慎重に決めなければならなかった。
その頃になって、タイミングを計りかねていたトミーが、ついに意を決して自身の希望を皆に告げたのだ。
ダンの怪訝な声の原因、自分の育った家に行きたいという願いを。
この状況下で、ばらばらと行動をするのは好ましくないことだ。
だが、トミーの話によれば、旧ドーデル家は丁度セルズニック兄弟の家と、酒場との中間地点に位置しているらしい。
それならばということで、パリスがリェンを捜しに行く間、皆は旧ドーデル家で待機することにした。
パリスの同行者については非常に迷い所ではあったが、リオを付けることになった。
パリスは、今回の襲撃に関わった騎士の内、最後に出くわした二人のことしか知らない。
その点、リオは襲撃犯のエキストラまで顔を覚えているらしいので、もし街中で彼らを見掛けたとしても、すぐに気が付いて回避することができるだろう。
隠密行動には絶望的に不向きと思われる彼女だが、今回ばかりは重宝される存在だ。
そして万が一、この家に来訪者があった時に備えて、ローディを留守番に置いていくことにする。
ヴィヤーリットを巻き込んでしまう形となるが、今はこの家を拠点とさせてもらうしかない。
留守番の役目を言い渡された金髪碧眼の魔道士は、意外にも文句を言わなかった。
最近眠った記憶がないと言う彼。
『おk』と返事を返した次の瞬間には、すでにブルーの瞳は何も見ておらず、表情の消えた美しい顔で、まるで人形のように眠りへと落ちていた。
留守番にはヴィヤーリットの護衛という役目も含まれているわけだが、ローディに対する妙な信頼がダン以外の仲間達にも広まったのか、彼を叩き起こそうとする者は誰一人いなかった。
* * *
トミーの育った家は、大きな通りから一つ入った通り添いにあった。
サンドリアの住居は、ウィンダスやバストゥークなど他国とは異なり、東方の長屋のような形態が多い。
横長の建物に幾つもの部屋が並ぶスタイルだ。
旧ドーデル家も例外ではなく、道に面した横長の二階建ての建物の一角を占めていた。
立地や家賃の面でも、冒険者の家族が間借りするのに都合が良いので、トミー達ドーデル家が出た後も、この家には子ども連れの冒険者一家が住んでいたという。
しかし、最近その家族も引っ越したらしく、今は空き家になっているようだった。
今はあまり人と関わりを持たない方が良いと思われたので、家の所有者に話を付ける段取りは省略した。
遠くの空が日の出で白み始める中、申し訳ないが、ドアの鍵を壊して中に入ることにした。
内側のドアノブに、修理代金としてギルを入れた小さな袋を引っ掛けておいた。
「このくらいの距離だったら、一度は道ですれ違ってたかもね」
閉じたドアを振り返りながらパリスは言う。
その横顔に昨日までの重苦しさはなく、どうやらトミーに対する後ろめたさを克服できたようだ。
その手助けをしたと言えるダンに、『勿体無いことしちゃったなぁ』としっかり軽口まで叩いている。
ダンはまず、家の中の様子をざっと見て回り、戻ってきたところだ。
今は誰も住んでいない為、家具が一切なく、家の中は外観で受ける印象よりも広く感じられる。
奥にはキッチンらしきスペースがあり、その脇には二階に上がる階段が見えた。
二階の踊り場の天井には天窓があり、そこだけは戸が締まっていなかったが、他の窓はすべて戸が閉まっていて、一階には明かりが差し込んでいなかった。
光を入れるために、玄関近くの窓の戸を少しだけ開けておく。
「それじゃあ、僕らはこの先にある酒場をちょっと覗いてきますね」
まるで小用を済ませに行くかのように、パリスはあっけらかんと言った。
「あぁ。とりあえずそこだけにしておけよ。ただでさえ同行者に問題があるからな」
「まったく!なんであたしがこのデカブツを護衛しなきゃなんないのよっ」
「あっはっはっはっは、頼りにしてますよ~ん♪」
護衛というか単なる五月蝿い警報機だ―――内心思いつつ、ダンは溜め息をつく。
『気をつけてくださいね』と不安げに見送るトミーとロエ。
ノルヴェルトは先日のような敵対一辺倒の眼差しではなくなっていたが、静かに閉められる扉を神妙な表情で見つめていた。
「そんなにのんびりはできないが、好きに見てこい」
ダンはそう言って、背に携えた両手剣の位置を整えながら、自身は警戒に専念する意を示す。
トミーは胸の前で手を握り締めると、こくりと頷いた。
ダンが付き添わないなら、自分は付いて歩いた方が良いかもしれない。
そんな思案顔になったロエに気付き、トミーはにこやかに言った。
「ちょっと行ってきます」
遠回しに『ダンと一緒にここにいてくれ』と言われたロエは、微かに動揺を見せた。
ちらりと見上げると、視線に気付いているであろうダンは何も言わない。
「ノルヴェルトさん、一緒に来てもらえませんか?」
振り返って立ち止まったトミーに呼ばれ、ノルヴェルトは何となくダンへ視線を馳せる。
ダンは肩をすくめてみせた。
別に許可を請うたつもりはなかったが、行き易くなったのは事実だった。
奥へと歩いていくトミーの後ろ姿を眺めて、再び家の中を見回した。
開けた戸の隙間から薄っすらと光が差し込み、侵入者によってどよめいている微かな塵を照らす。
重々しい足音を踏み、途中の部屋を眺めつつ、トミーが先に入っていったキッチンへ向かう。
キッチンの入り口に立つと、流し台を撫でながら懐かしむように歩く娘の姿が目に入る。
食器類は勿論、食器棚もない。
ただ水の出ない流し台があるだけの、寂しい部屋だった。
ふと、トミーが壁の一点を見上げる。
何も言わなかったが、彼女の視線の先には、以前は時計が掛かっていたのかもしれない。
過去にはあったものが今はなく、少し寂しそうな笑みを浮かべている。
そんな彼女の横顔を見て想起するものがあり、どきりとした。
昔、あの人達のそんな笑みから、寂しさを、悲しみを、拭い去りたいとどれほど願っただろうか。
懐かしさを感じさせる生活感のないキッチンを眺めていると、徐々に胸が早鐘を打ち始めた。
――――報いる時が来たのではないか?
―――こんなところで悠長にしていないで、もう……
「スティユさんは」
トミーがそう言いながらこちらを向いたその顔を見て、はっと思考が途切れる。
「どんな料理を?」
一通り事実は伝え終えたはずなのに、何故、長年待ち望んだ終焉に向かわないのか。
それは―――伝えた相手が、ちゃんと『ソレリ』ではないからだ。
今の一言で気付く。
「………何でも……作ってしまう人でした。創意工夫が得意で…」
「へぇ~スゴイッ」
伝え終えれば、ようやく開放されると思っていたのに。
何も思い残すことなく、全てを終わらせることができると。
恩師夫妻の話をした時もそうだったが、所々で彼女が口にする『ソレリではない』ことが、逸る私をいちいち引き止めているような気がする。
「ノルヴェルトさんは、中でも何が好きだったんですか?」
余所余所しい、まるで初対面の人間と会話を交わすような問い掛けに自然と視線が下がる。
「……………魚料理…」
「魚??」
「私が釣って帰った魚を、色々な料理にしてくれました。……セトは…魚が好きだったので、いつも私の分を掠め取って」
「あはっ」
「マキューシオやスティユに注意されていました……」
「あははっ、そうだったんですね~!」
戸惑ってしまった―――彼女の明るい笑顔に。
自分の中では悲しみの記憶となっていたのだが、確かに、この話自体に悲惨さは無い。
先日彼女から投げつけられた言葉を、ふと思い出す。
『ノルヴェルトさんが私に伝えたかったのは、憎しみなんですか?』
奪われたと、信じるなと、憎いとばかり叫んでいた己の姿に、あの一言で気付かされた。
奴らに一矢報いるだけの力を持つと、それしか考えられなくなっていた。
遠い昔に自分が恐れたはずの、“憎悪に体が支配された”状態に陥っていたのだ。
「それじゃ今度、私も魚料理作ります!食べてみてくれますかっ?」
手を後ろに回して笑顔で問いかけてくるヒュームの娘。
突然提示された『未来』の話に言葉が出ず、呆然と見つめてしまった。
さっと焦燥の念が滲む―――しかし、彼女はこちらの返事を待つことはしなかった。
「料理は結構得意なんですよ~」
明るい声で言いながら、流し台を撫でつつゆっくりと次の部屋へ歩いていく。
『相手をどうするかじゃない、君がこれからどうするかだ』
優しい師の言い含めるような声が脳裏に蘇る。
――――『これから』?
* * *
二人だけにして大丈夫なのだろうか。
沈黙が続くこの場を繋ぐため、そんな心配を口にしてみようかとも考えた。
しかし同時に、今の自分達も二人きりの状況にあることを改めて意識し、ロエは怖くなる。
この沈黙は辛いが、思い切って始めた会話がすぐに途切れ、再び沈黙に戻るというのは尚辛い。
視線を落として思い悩みつつ、隣に立っている人の足を横目に見る。
すると―――その気配を察したかのように、上からロエを呼ぶ声がした。
驚いて顔を上げると、ダンが家の中を眺めたまま口を開く。
「話したいことがいくつかあるんですが」
「は、はい」
緊張した返事を返すロエをダンは見下ろした。
彼の視線と行き違うようにして、ロエは自分の足元に視線を落とす。
ダンはその様子を見て苦笑の声で話を始めた。
「いや、あの、わだかまりを…解消したいんですよ。俺は」
このような状況になった今、仲間内での結束をより一層高めなければならない。
互いに何となく気まずさを感じてぎくしゃくしている場合ではない。
「順番に解消します。まずは、トミーがジュノに来ようとした時の話です」
「えっ」
ロエの驚きに対し、ダンは苦々しく言葉を続ける。
「あの件では色々と、世話をかけました」
単なるすれ違いに過ぎなかった。
それなのに意固地になった挙句、自分の態度のせいでロエを泣かせてしまったことをダンは言っている。
「謝っておくべきだとは思っていたんですが、遅くなってしまいました」
ダンは謝罪の言葉を述べて小さく頭を垂れるが、ロエは顔を上気させて慌てて首を振る。
「いいえ、そんなこと!気になさらないでください!」
「それだけじゃありませんよ。……言い訳がましくなるようですが、ここのところ色々とあり過ぎて」
溜め息混じりに言いつつ疲れた様子で頭を掻く。
「ロエさんには節々で大変な役回りを頼んでしまって、申し訳なく思ってます」
「そんなっ、私は大丈夫です!わ、私の方こそ、すみませんでした。色々と……手を煩わせてしまって」
最近、泣き喚いてダンに突っかかることが何度かあった。
それを思い起こしたロエはカーッと赤面して、深く俯いてしまう。
恥ずかしくて穴があったら入りたい心境ではあったが、実際は嬉しくて堪らなかった。
これで気まずい雰囲気を解消することができた。
そんな安堵と、解決の切欠を作ってくれた彼に対する想いがたちまち胸に溢れてくる。
「そう、そのことですが」
火照る両の頬に手を当てていたロエは、『え?』と顔を上げる。
真面目な顔をしたダンが、じっとロエのことを見下ろしていた。
「そのことで、聞きたいことがあります」
どきりとした。
ロエが身を硬くすると、ダンは視線を上げて再び周囲を見渡した。
警戒の任を忘れることなく、そのままヒュームの戦士は続ける。
「トミーが……ノルヴェルトにさらわれる直前のことです」
ロエもはっきりと覚えている。
『傍にいたい』と泣いて懇願した時のことだ。
「あの時確か、ロエさんは何か言い掛けていたように思うんですが…」
見上げる先の彼は、真っ直ぐな眼差しで何処か一点を見つめている。
「続きがあるなら、聞きます」
少しも言い難そうな様子を見せずに、そこまでをダンははっきりと言ってのけた。
急速に緊張が高まったロエは、前で絡めた両手が小刻みに震え始める。
突然のことなので激しく動揺してしまうが、そんな動揺の中でも理解することができた。
―――きっと、彼は…。
「…あの……予想…は……」
「えぇ、やっと」
己に対する呆れのようなものが滲んだダンの横顔。
どうやらダンは、最近の出来事でロエの抱く想いに勘付いたようだ。
彼が言うように―――やっと。
と言っても、ロエ自身、自分の気持ちに気が付いたのはつい最近のことなのである。
「まぁでも、今はまだ単なる憶測でしかありません」
憶測はあくまでも憶測であって、事実ではないから。
言いよどむ気配のない彼の口調が、すでにその憶測に対する返事を伝えているとロエは感じた。
否―――彼が返すであろう答えなんて、随分前から分かり切っていたこと。
口をつぐんで視線を落とすと、諦めた声色で呟く。
「………言わなければ、駄目でしょうか?」
まるでぐずっている子どものようだと思いつつも、言葉を渋った。
しかし、その言葉に対しダンは『いえ』と即答する。
「無理強いするつもりはありません。ロエさんが言いたくなければ、言わなくても」
上から聞こえるその声に、一つの想いで溢れている胸がとても苦しくなった。
どうしてとか、何故とか、そういう類のものが次から次へと湧いてくる。
「でも俺は……それを益々口に出せなくなるようなことを、今後ロエさんの前で繰り返していくつもりです。それでも構いませんか」
酷いです。
男の人って本当にずるい。
どうしてそういうこと言うんですか?
辛い。寂しい。苦しい。切ない。悲しい。
もう、小さな体に納まり切らない。
「じゃあ」
予想していたよりもはっきりとした、力のある声が口から出た。
視線を上げると、少し驚いた顔をしてダンが見下ろしている。
「聞かせていただけませんか?ダンさんの、正直な気持ちを。勿論、私に対する気持ちじゃありません」
責めるような眼差しになっているかもしれないと思いつつ続ける。
「私は強くありませんから、自分の気持ちを知ってもらうだけでも……なんて、できないんです」
ダンの凛々しい眉が徐々にしかめられていく。ロエの言葉をしっかりと受け止めているからこそだ。
「言わないで聞くなんて、ずるいことだとは十分承知しています。私がはっきり言わなければ、ダンさんもはっきり言えないってことは分かっているんです」
ダンの目を見ていることができなくなり、俯いてしまう。
「でも……お願いです。ダンさんの声や眼差し、行動から見て取るんじゃなくて……ダンさんの口からはっきりと聞かせていただければ、私…」
「分かりました」
落ち着いたダンの声が上から降りてきた。
自分の懇願に対して返ってきた承諾の声なのに、ロエは凍り付いてしまう。
『聞いてください』と、容赦なく語る覚悟を表明する彼に恐れすら感じたが、半端な期待を抱かせぬようにするためなのだ分かっていた。
ふと、彼との出会いや、今まで過ごしてきた時間達を思い浮かべる。
悲しさが襲ってくるだろうと構えたが、訪れたのは不思議な安堵だった。
見つけたのは最近であったけれど、何処にも行けずにずっと苦しんでいた自分の気持ちが微笑む。
ロエは目を閉じて、胸の中でそっと一言呟いた。
* * *
身内の話をする時の、何処か気恥ずかしさを感じさせる横顔で彼女が笑う。
「みんなの推理では、トミーっていうのは愛称なんじゃないかーって。え~と、例え、トーマスとか、そういう名前の?」
トミーという今の彼女の名前は、保護された時に自ら名乗ったのだという。
普通に考えれば、彼女が例に挙げた「トーマス」という名前は明らかに男性の名前だ。
しかし、これまで疎ましくさえ思っていた冒険者に彼女が保護され、寄りによってエルヴァーンの王国サンドリアで育ったという話があまりにも衝撃的で、その「トーマス」の点に疑問を抱く余裕はなかった。
「へぇぇ~でも、そうですか。ソレリさんのぬいぐるみもトミーって名前だったんですね」
言葉が出ないこちらに対して、彼女は『偶然ですね』というニュアンスを持った声で言う。
反射的にすがる眼差しを上げると、懐かしむように壁を撫でながら廊下を歩いていく彼女の姿が見えた。
「私はあまり、ぬいぐるみで遊んだりはしなかったですね~。お姉ちゃんと冒険者ごっこして遊んでました♪」
両親の冒険者仲間に、ガルカ族の戦士がいた。時々、そのガルカが家にやってきて遊んでくれたらしい。
彼女はそのガルカが戦士役をする姿を見たいがために、オーク役ばかりやっていたと言う。
「……オ…?」
「カッコイイんですよ~そのガルカのおじさんっ。腕にしがみ付くと振り回してくれるんです♪」
思わず眩暈を感じ、壁に手をついてしまった。
そんな役回りを何故貴女が…?そういうのは父親がすればいいじゃないですか。
セトがいた頃は、そういった“やられ役”の類は必ず私に回ってきたものです。
内心嘆いて気が付いた。
そういえば、母親や姉の話は出てきても、父親の話が一度も出てこない。
眩暈から立ち直って顔を上げてみると、彼女はふと足を止めて物思いにふけっていた。
心なしか、深刻な表情を浮かべている。その横顔に眉根を寄せたところで、彼女は明るい声で『二階に行きましょ』と言って振り返り、脇を通り抜けた。
一つに結わいた髪を弾ませ、階段に姿を消す彼女の後ろ姿を呆然と見送る。
最初は『来ないで』と言われ、『知らない』と跳ね除けられた。
あの時は心底絶望したが、今は、こちらの話に興味を示す彼女がいる。
少しずつ伝え合い、少しずつ知り合っていく。
そんな手応えが、この短い時間だけでも十分に感じられた。
しかも、想定していた重々しい語り継ぎではなく、“雑談”の調子で。
あの人達のことを。奴らのことを。
彼女自身のことを。
伝え終わったら、全てを終わらせに行くのだ。
伝え終わったのだから、長年押さえ込んできた感情を開放して。
過去を清算し、あの人達のいないこの悲しみの世界から―――。
ヒュームの娘が軽い足音を立てて階段を上っていくのが聞こえる。
はっとした。
惑いによってじわりじわりと緊張し始めた己を自覚しつつ、大きな鎌を背負って上るには少々狭い階段を上がる。
漆黒の凶暴な武器が壁を引っかかないよう、鎌の柄に片手を添え、ゆっくりと。
―――――――彼女が笑う。
胸の中で、誰にでもなく放たれる言い訳がましい自分の声。
彼女はまだ、ちゃんと『ソレリ』ではないし、望んだ再会の形が未だ叶っていないとは言え。
事実は伝えた。自分はもう、終焉に向かうことを許されている。
―――――――けれど。
二階が妙に明るいなと思ったら、踊り場の天井に天窓があった。
その丸い天窓から白み始めた空が見え、暗い家の中をぼんやりと照らしている。
階段を上がり切ると、正面にある部屋の扉が大きく開かれていた。
入ってみて足を止める。そこに彼女はいなかった。
―――――――まだ伝え終わってなどいないのではないか?
ここまできて、怖気付いたのか。
―――――――そうじゃない。
惰弱だ。もう少し見ていたいと思うなんて。
交錯し始める思考を振り払うかのように、頭を振った。
自分の中での論点を変えた方が良い。そう思って視線を上げる。
家具がないので、四角い部屋の形がはっきりと分かる、明かりのない暗い部屋。
入ってすぐの場所に立ち尽くし、空虚なその光景を眺めていると、蘇る記憶と出会う。
先程彼女との会話にも出た、トミーという名のぬいぐるみ。
スティユが作って与えたあのぬいぐるみのことを、ソレリはとても大切にしていた。
思えば、家の中で一番明るかったものが失われ、両親や私が穏やかさを失った後も、あのぬいぐるみだけが何も変わることなく、少女に寄り添っていた。
しかし、そうだ。
ある日、ぬいぐるみのトミーが独りぼっちで廊下に寝ていたことがあった。
私は慌ててぬいぐるみを拾い上げ、少女の姿を捜した。
少女の身に何かあったのではと思ったからだ。
でもソレリは―――そう、何も無い暗い部屋で、大人しく座っていた。
今のこの部屋のような、がらんとした部屋に、一人で。
私は安堵した声で少女を呼んだ。
振り返った少女にぬいぐるみを見せて口を開く。
でも、何も言えなかった。
泣き顔が怒ったように『いらない』と言った。
訳が分からず近付いてみたが、ソレリはまるで敵を見るような目で、ぬいぐるみを拒否し続けた。
しばらくの間少女は泣き喚き、やがて俯いて涙を拭きながら、泣き声の中で呟く。
『あいたい』
途切れ途切れに聞こえる、会話にならないぶつ切りの単語を拾い上げている内に、私は少女が考えたことをようやく察することができた。
理解した頃に、少女がやっと繋がった言葉を搾り出す。
『セトにあいたい』
トミーとばかり遊んでいるから、セトが帰ってこないわけではないのに。
頭を振って無人の部屋から目を逸らした。
込み上げたものを振り払うように、荒らげた溜め息をついて部屋を出る。
先に階段を上がったはずの娘を捜して周りを見回すと、踊り場の横にもう一つ部屋があることに気がつく。
階段を上がってきた時は、開かれたこちらの部屋に意識を取られて気に留めなかった。
その部屋の扉は少しだけ開いていた。
歩み寄り、半開きになっていた扉をそっと押し開けると、やはり中は暗かった。
今見たもう一つの部屋よりも、こちらの方が小さいようだ。
窓の位置が他の部屋と比べると少し低めなので、子ども用の部屋なのかもしれない。
その窓枠に手を添えて、ヒュームの娘がこちらに背を向けて佇んでいた。
窓にはやはり戸が閉まっているので、彼女が外の景色を眺めているわけではないのは確かだ。
窓枠に添えた手に視線を落としている彼女の背中は、部屋ががらんとしているせいか、とても寂しげに見えた。
マキューシオとスティユがあんなことにならなければ、この娘は今頃どうなっていただろう。
あの生活が続いていたとしたら、ひょっとすると今も、彼女は唯一の友達を抱き締めて、暗い部屋に一人で……?
どうしようもない空想だと思った。
「ソレリ」
空想を打ち消したくて咄嗟に呼びかけると、ヒュームの娘がはっとしたように振り向いた。
こちらがその反応に少々驚くと、彼女もあっという顔をする。
闇を這う生活が長かったせいか、随分と夜目が利くようになっているらしい。
暗い中でも、彼女の目に涙が溜まっていることに気が付き、思わず目を丸くしてしまった。
「ソ…」
「あ、わ、違うんです!違うんです、これ!ごめんなさい!」
重々しい足音を踏んで歩み寄ると、彼女は慌てて顔を隠すように手を振り回した。
そして、ぱたぱたと部屋の隅へ逃げて笑う。
「あはは、ごごごごめんなさい!何でもないですよ!」
「でも、泣いて…」
「なんか色々と思い出しちゃって、懐かしくて!あは、ちょっと感傷的にっ」
そう言って背を向け、ごしごしと目元を擦りながらばつが悪そうに笑っている。
あの時、セトに会いたいと泣く少女を抱き上げて、自分は何と言っただろう。
それが思い出せず、今、もう幼い少女ではない彼女の後ろ姿に戸惑い、手を伸ばすことも、言葉をかけることもできずに立ち尽くした。
“パリス。その酒場で駄目だった場合、他に当てはないのか?”
不意に、直接頭の中に聞こえた青年の声にびくりとする。
それは彼女も同じだったらしく、縮こまっていた背中が驚いたようにしゃんと伸びた。
“ん~と~、リェンの実家の場所とか忘れちゃったしなぁ~。やっぱ城しかないかも~”
張りの無い返答の第二声を聞いて、ようやくリンクシェルだと理解できた。
情報伝達に於いてなんと便利なものだろう。
昔これが手元にあれば、どんなに重宝したことか。
リンクシェルについてそんな感想を抱いたのは、大分後になってからだ。
今は目の前にいる彼女と自分のことで頭がいっぱいだった。
“そっちは大丈夫ですかパリスさん。リェンさんとは会えそうですか?”
涙を追いやった彼女が、事も無げにリンクシェルで問いかけるのが聞こえる。
“いやぁ~いないねぇ彼。ダメだ、一旦戻りま~すよ~”
“あ、はーい。了解です!”
“気をつけてくださいね”
“おい、ネコが静かだが……ちゃんといんのか?”
“あっはっは。それが、いまいちコツが掴めないらしくて~あいたたたっ!”
同行しているミスラから攻撃を受けているようなエルヴァーンの声を聞こえ、同じものを聞いているはずの私を振り返って彼女は笑った。
リンクシェルを通しても、笑っている彼女の声が聞こえる。
何故あの雪の上で、渾身の力を込めて立ち上がり、少女の手を掴むことができなかったのだろう。
どうして私は十七年もの間、彼女の振り返る先を留守にしていたのだろう。
「ん~?……ゆっくり話すことできたのかなぁ、ロエさん。声がちょっと元気??」
向こうを向いて何やら言いながら、それとなく目元を指で撫でる彼女の背中。
「お邪魔かな?でも、そろそろダン達のところに戻った方がいいかもですよね」
見つめていると、すっかり涙を隠した彼女が機嫌良い声で言いながら再度こちらを向いた。
それから最後にぐるりと部屋の中を見回して、『あ~懐かしかった♪』と腕を伸ばす。
私は満足げな顔で部屋の出口に向かう彼女を、焦ったように呼び止めた。
「ソ、あ…っ」
「む?」
きょとんとした顔で振り返り、次に、こちらが呼び方に躊躇したことに困った顔で笑う。
今更だと思ったかもしれない。自分でもそう思う。
顔が熱くなるのを感じたが、ぐっと表情を引き締めて彼女と視線を合わせた。
『今更ですが…』と口の中でもたついてから意を決す。
「このまま、ソレリと呼んでも……良いですか?」
「ダメでぇぇすッ」
「!」
自分がこの時どんな顔をしたのかは当然見えなかったが、面食らった自覚はあった。
相当の表情をしたのかもしれない。
こちらの顔を見た彼女は、驚いたように眉を開いてから声を出して笑った。
「あはははっ、ごめんなさい冗談です!スミマセン!」
扉の向こう側に半身を隠し、こちらを窺いながら笑っている姿は、まるで無邪気な子どものようだった。
天窓から差す光が、彼女のハニーブロンドの髪を鮮やかな金色に縁取っている。
「ん~~~本ッ当のところは、トミーがいいんですけど……。しばらくの間はソレリでもいいですよ。少しずつでいいので、トミーに慣れてくださいね?」
そこまで言って、『ただし、ソレリと呼んでいい期間はひと月だけです!』と、びしっと指差される。
どきりとするものを感じた。
……ひと月……。
彼女の中では、自分と過ごす未来が当然のように用意されているのだということ。
その事実に動揺の波が押し寄せ、喉が詰まる。
不意に、胸元の外套を鷲掴みにした。
待ってくれ。
一体どうした。
まさか私は。
生きたい、のか?
* * *
戻ってきたパリス達と合流し、一行は冒険者が行き交う通りを歩いていた。
来る時もそうであったが、人通りが多い道を歩く時は身を隠す魔法を使用しないでおく。
似たような格好をした冒険者達が行き来する通りならば、十分に紛れることができるからだ。
それに、行動の効率や安全面を考えると、やはり魔法は使わない方が良い。
隠蔽の魔法の中に、何処ぞの変態魔道士御用達の『インビジ』というものがある。
それは姿を見えなくする魔法で、隠密行動には持って来いではあるのだが、賑わいの中で使用するにはリスクが高い。
完全に姿が見えなくなる為、無警戒に衝突されてしまう可能性がある。
特に武装している冒険者に衝突されようものなら、思わぬ事故になり兼ねない。
もし相手がガルカ種族だった場合、それこそひとたまりも無い。ロエなら、命の危険すら感じる。
「これはもう、通報しちゃってみる?」
『リェンと連絡取る手段も見つからないし』と、お手上げの声でパリスが言った。
先頭を歩く彼の隣にはリオがおり、その後ろにトミーとノルヴェルト、最後尾にはダンとロエがいる。
こういう行動の際、一番話を振りたい相手のダンはいつも最後尾にいるなとパリスは思った。
不便と言えば不便だが、それでも、ごもっともだとも思う。
“リンクシェルで話せ”
ダンの短い言葉が返ってくる。
一瞬きょとんとしてから、パリスは『ですよね』と頭を掻いた。
彼の隣を歩いているロエに目を向けると、彼女はこちらの視線に気付き、にこりと微笑む。
何だかキラキラしてるように見えるんですけど……何かあったんですか?
そんなことを思って目を瞬かせていると、大きな声が頭を叩いた。
“通報するってったって何で連絡先知らない何処にのよするのよ友達なんじゃないわけ?!”
“集中力のなさが盛大に表れてるぞ、ネコ”
「うっさいわね!!!」
拳を作ってダンのことを振り返るリオ。
パリスは苦笑いを浮かべながら、同時に二つの文句が言えるなんて器用だなぁ…とか思った。
リオは発言ができるようにはなってきたようだが、まだまだ安定しない様子だ。
“そういえば、あんたどうだったのよ”
“ハイ?”
“馬鹿、あんたじゃないわよ!リリー!”
パリスが返事をして首を傾げると、リオはトミーのことを指差す。
自分のことを指差して目をぱちくりするトミーに対し、『家に行ってどうだったのよ』と口頭で尋ねる。
リンクシェルを使うことがもう面倒臭くなったらしい。
“え、あっ、私ですか!?”と、とぼけた声でトミーが言うと、低い声が聞こえる。
“俺達も聞いてない”
ダンの声だった。
トミーはその瞬間、自分の誤魔化し笑いがすぅっと薄らいでしまうのを感じる。
心なしか背中をじっと見られているように思えて、一瞬言葉を失った。
“……あ、えぇとそうでした!長い時間下で待っててもらっちゃって、ごめんなさい!”
トミーはくるりとロエを振り返った。
いきなり自分に来るとは思っていなかったロエは、少し驚いてふるふると首を横に振る。
反応を返す相手を選んだトミーの様子を、当然、ロエの隣を歩いている戦士がいぶかしむ。
その気配を感じ、トミーは慌てて前を向いた。
“それが、あの家に住んでた頃の思い出話を……ただずっと喋ってた…感じで…”
前を歩いているリオもまた、最高に怪訝な顔をしていた。
苦しくなったトミーは隣の男へ視線を逃がす。
“ノ、ノルヴェルトさんにもちょっと迷惑だったかもですね”
はは…と乾いた笑いをもらしつつ見上げたが、銀髪のエルヴァーンの眼差しはトミーを見ていなかった。
ノルヴェルトは黙々と歩きながら、じっと前方を見つめている。
しかし、どこか様子がおかしい。
まるで意識を視線の先に向けていないかのような、静かな、ぴりりとした空気を纏っていた。
疑問符を浮かべて彼を見上げていると、彼の手がゆっくりと、音を立てずに鎌の柄へと伸ばされていくのが見えた。
ノルヴェルトは篭手をしていない為、彼の指に残る細かい傷が視認できる。
そんな彼の手が鎌の柄を握り締めたのを見届けた時、ようやくトミーははっとする。
驚いて口を開くが、それよりも先にダンの声が皆に届いた。
“待て”
怒鳴り声ではなく、冷静に鎮圧する目的を十分に表した声。
皆が足を止めた瞬間、通りの賑わいの中から声が放たれた。
「ねぇねぇ~!」
振り返ると、行き交う人々の間を傍若無人に掻き分けながら声の主が現れる。
いかにも『やんちゃ盛り』という言葉が似合いの、エルヴァーン族の少年だった。
ノルヴェルトは自分の後ろにトミーを隠すように立ち、皆の間にも緊張が走る。
見たところ、年はまだ十にも満たないと思われる少年は、一行が身構えたのを感じたのか、無邪気な顔を強張らせる。
その様子に気付いてトミーが進み出ようとすると、ノルヴェルトが無言でそれを腕で制した。
「あ?何か用か」
容赦も愛想もないダンの一言が少年に振り下ろされる。
ぎょっとして身を硬くする少年に、慌ててロエが『どうしたんですか?』と声をかけた。
その頃になって、少年が現れたのと同じ方向から、遅れて数人の少年達が姿を現した。
皆、同じくらいの年齢のようで、少年の遊び仲間と思われる。
彼らは少し離れたところから、怖々と興味深そうにこちらを眺めていた。
歓迎されていない様子の少年を笑っているようだった。
場の空気の悪さを見兼ねて、トミーはノルヴェルトの腕を退けて前に出た。
銀髪のエルヴァーンの強い眼差しを感じたが、少年があまりにも気の毒に思えたのでそのまま話しかける。
「なぁに?」
ひょいっと少年の前に屈んで尋ねると、少年の緊張した表情が少し和らぐ。
彼は握り締めていた手を上向きに目いっぱい開いて何かを見せた。
「届けもの!」
小さな掌の上には、これもまた小さな一つの丸い輪っか。
黒いオイルのようなもので汚れて乾いた感じのものだった。
最初は何かの部品かと思ったが、少年の手から摘み上げてよく見てみると、それは部品などではなかった。
指輪だった。
「冒険者の人が、渡してって」
「頼まれたの?」
「うん!」
大きく頷く少年の前で、眉を寄せてまじまじと指輪を見つめる。
そこで何かに気が付いたのか、ダンが抑えた声で『貸せ』と手を差し出す。
トミーは疑問符を浮かべながらもダンの手に指輪を置いて、少年ににこと笑って礼を言った。
厳しい眼差しで指輪を見つめるダンの周りに自然と皆が集まる。
ダンはまるで、嫌な予感が的中してしまったと言う顔で指輪を見つめていた。
指輪を少しずつ回し、角度を調節して内側を観察する。
すると、ダンの手がぴたりと止まった。
口の中で舌打ちをして何とも言えない顔をすると、のっぽのエルヴァーンを呼んで指輪を差し出す。
その様子を見た少年は、慌てた声で『オレのせいじゃないよ!』と叫んだ。
少年は、ダンが指輪の汚れに怒っていると思ったのだろう。
「確認しろ」
指輪を渡され、重たい声でそう言われたパリスは、手にした指輪をじっと見つめた。
「ん~?……この汚れって~……」
「血だ」
「えぇ!?」
驚きの声を上げて立ち上がるトミー。
少年はただならぬ空気を感じ取ったのか、後退りしながら『渡したからね!』と言って、仲間達のところに駆け戻っていく。
「ちょっとあんた!これ……!!」
「やめろ、巻き込むな」
リオが少年を追おうとするが、ダンが鋭い声で止める。
少年は遊び仲間達と共に、何人もの人とぶつかりながら通行人の向こうへ逃げるように去っていった。
じれったそうに人ごみの向こうを見つめるリオ。
皆が視線を戻すと、パリスが紙よりも白い顔をして立ち尽くしていた。
ダンが『確認しろ』と言った、指輪の内側を見たのだ。
「…………うわ……どうしよう……」
「ど、どうしたんですか?」
ロエが怖々と尋ねると、パリスはちらりとロエを見てから、再び指輪に視線を戻し口に手を当てる。
「………リェンのっぽい、これ」
混乱をそのまま音にしたような声でパリスが呟く。
ロエやトミーが目を見張ったのとほぼ同時に、ダンの背中がばしばしと叩かれる。
打撃の主である赤髪のミスラは、瞬きを惜しむ目で人ごみの奥をじっと見据えていた。
「ちょっと、ねぇ、あれ」
視線の先に意識が集中するあまり、言葉の選択が疎かになっている様子で彼女は指を指し示す。
通りの向こう側に目を向けると、ローブを身に纏った魔道士や、鎧を鳴らして歩く戦士からなる冒険者のパーティが目に入る。
その中で、町に暮らす平民やギルドの職人達が、冒険者の足取りとは異なるペースで横切っていく。
それぞれの流れを持つ人々が行き交う、そんな通りの向こう。
街路樹が作る木陰の下で、のんびり居眠りバザーをしている冒険者――――の横だ。
荷物鞄を足元に置き、橙と深い緑の質素な色合いのダブレット姿。
一見、冒険者風の身なりをしたエルヴァーンの男が、じっとこちらを眺めていた。
リオはその人物を示しているのだと、皆は気付き始める。
こちらのそんな様子を見て取ったのか、男は胸の前の腕組みを解いた。
彼――――黒髪のエルヴァーンが落ち着いた動作で、懐から眼鏡を取り出す。
その瞬間、彼が誰なのか、この場にいる全員が理解した。
パリスが手にしている指輪の内側には文字が彫られており、その汚れの合間から、友人である青年騎士の愛称の文字列が読み取れた。
テュークロッス率いる貴冑騎士団の騎士ウォーカーは、ゆっくりと眼鏡を掛け、愕然とする面々の様子に満足した表情を浮かべ、会釈するのだった。
あとがき
以上、第二十四話『失した(なくした)時間』でした。今回もまた色々とクレームがきそうな内容となりました。(汗)
恨みはないんですよ、本当に、狙いを定めて陥れているわけでは…!
怖くて触れられないのである箇所についてはスルーさせていただくとして。
長い時を経て、やっっっとマキューシオの言葉が届き始めたノルです。
それぞれの思いが、それぞれの意思で、前に進み始めます。
誰の気持ちに一番共感するかは、読み手の皆さんによって違うかも。
是非とも感想など聞かせていただきたいですね。
これからも彼らを見守り、応援してやってください。