失くした時間

第三章 第二十四話
2008/06/29公開



『あぁ?家に帰りたいぃ?』
皆が揃った場でトミーが願いを打ち明け、ダンがそんな怪訝な声を上げたのは昨夜のこと。

ローディが戻ったのは、高く上った月が雲間から照っている頃だった。
真っ赤で派手なドリームローブ姿になって帰ってきた金髪碧眼の美青年は、ダンが苛立つのを楽しみつつ、勿体つけて外の様子を一行に報告した。
やはり、表からは騎士団が騒いでいる様子は見られず、王都は限りなく日常。
城の者達はこの度の騒ぎを知らぬ顔して、おくびにも出さない。
あれだけのことをやっておいて、あれだけのことが起きたというのに、ああも見事に隠蔽するところを見ると、さすが頑強な騎士王国と言ったところだろうか。
そんな城の様子から、考えられる現状は大きく分けて三つ。
一つは、まさに“王国”ぐるみで隠蔽していること。
これが一番タチが悪い。
ローディが言うには、一般的に言う『裏』で手配がなされているかどうかも、軽く探りを入れてみたらしい。
結果、関連しそうなものは存在しなかったそうだ。
『裏』に一般的なものと、そうでないものという区別があるあたり、彼に対して色々と思うことはあったが敢えてそこは流す。
そして二つ目は、事態が急変してすでに終着していること。
青年騎士リェンが持っていた様子の“心当たり”が良く作用して、こちらが知らぬ内に状況が好転し、城が平常に戻っているという可能性もある。
しかし実際、その可能性には希望を持てないのが残念なところではあるが……。
それらの話を踏まえて、皆が暗黙の内に最も高い可能性を感じているのが三つ目だ。
それは、城の者達が本当にこの度の件を関知していないということ。
つまりローディの話でいうところの、『一般的ではない裏』の存在である。
連中は王国とはまた別の、独自のネットワークを持っているということだ。

互いに持ち得る情報を交換し合うが、肝心なところはどれも推測でしかない。
この話し合いで、全員が共通して最も理解できたことは、とにかく『危険だ』ということだった。


そこで当然、パリスは行動の願いを申し出た。
リェンは恐らくこの件の詳細を知らない。知らずに行動するのはあまりにも危険過ぎる。
又、彼はこの場所のことを知らないので、連絡の取り様がなく困っているかもしれない。
とてもじゃないが、今、城に赴くのは危険である。
しかし、貴族達の住まう区域はパリス自身気軽に立ち入れる場所でもないので、とりあえずは先日リェンと寄った酒場に行ってみることにする。
リェンにとっても、思い当たる場所と言ったらそこしか浮かばないはずだ。
このセルズニック兄弟の家から酒場までは、すぐに駆け付けられる距離ではないので、もしも何かが起こった時のことを考えると行動班は慎重に決めなければならない。

その頃になって、タイミングを計りかねていたトミーが、思い切って例の希望を皆に告げたのだ。
ダンの怪訝な声の原因である、自分の育った家に行きたいという願いを。

この状況下でばらばらと別行動をするのは極めて好ましくないことだが、トミーの話を聞くと、どうやら旧ドーデル家はこのセルズニック兄弟の家と酒場との間の位置にあるようだ。
そこで、パリスがリェンを捜しに行く間、皆は旧ドーデル家で待機することにした。
パリスの同行者には、非常に迷い所ではあったがリオを付けることになった。
今回の件に携わった騎士を、パリスは最後に出くわした二名のことしか知らない。
その点、どうやらリオは襲撃犯のエキストラまで顔を覚えているらしいので、もし見掛けた時には、すぐに気が付いて危険を回避することができるだろう。
隠密行動には絶望的に不向きと思われる彼女だが、今回ばかりは重宝される存在だ。
そして、万が一この家に来訪者があった時に備えて、ローディを留守番に置いていくことにする。
ヴィヤーリットを巻き込んでしまう形となるが、今はこの家を拠点とさせてもらうしかない。
留守番の役目を言い渡された金髪碧眼の魔道士は、意外にも文句を言わなかった。
最近眠った記憶がないと言う彼は、『おk』と返事を返した次の瞬間には、すでにそのブルーの瞳は何も見ておらず、表情の無い美しい顔をしてまるで人形のように眠りに堕ちていた。
留守番というのはヴィヤーリットの護衛も役目に入っているわけだが、ローディに対する妙な信頼がダン以外の仲間達にも広まったのか、彼を叩き起こす者は誰もいなかった。



   *   *   *



トミーの育った家は大きな通りから一つ入った通り添いにあった。
サンドリアの住居はウィンダスやバストゥーク等の他国とは異なり、東方でいうところの長屋のように、横長の建物に幾つもの部屋がある形式が多い。
旧ドーデル家も例外ではなく、道を作っている横長二階建ての建物の中にある一角だった。
立地や家賃の面でも、冒険者の家族が間借りするのに都合が良いので、トミー達ドーデル家が出た後も、この家には子ども連れの冒険者一家が入居したという。
しかし、その家族も最近この家を出たらしく、今は空き家になっているようだった。
今はあまり、人と関わりを持たない方が良いと思われたので、家の所有者に話を付けに行く段取りは省略した。
遠くの空が日の出で白み始める中、申し訳ないが、ドアの鍵を壊して中に入る。
内側のドアノブに修理代金として、ギルを入れた小さな袋を引っ掛けておいた。

「このくらいの距離だったら、一度は道ですれ違ってたかもね」
閉じたドアを振り返りながらパリスは言う。
その横顔に昨日までの重さはなく、どうやらトミーに対する後ろめたさを克服できたようだ。
その手助けをしたと言えるダンに、『勿体無いことしちゃったなぁ』としっかり軽口まで叩いている。
ダンはまず初めに、ざっと家の中の様子を見て回り、戻ってきたところだ。
今は人が生活していないので、家具が一切なく、家の中は外観で受けた印象よりも広く感じられる。
奥にはキッチンらしきものが見え、その脇には二階に上がる階段があった。
二階の踊り場の天井には天窓があり、そこだけは戸が締まっていなかったが、他の窓はすべて戸が閉まっていて一階には明かりがない。
光を入れるために玄関の傍にある窓の戸を少しだけ開けておく。

「それじゃあ、僕らはこの先にある酒場をちょっと覗いてきますね」
まるで小用を済ませに行くかのように、あっけらかんとしてパリスは言った。
「あぁ。とりあえずそこだけにしておけよ。ただでさえ同行者に問題があるからな」
「まったく!なんであたしがこのデカブツを護衛しなきゃなんないのよっ」
「あっはっはっはっは、頼りにしてますよ~ん♪」
護衛というか単なる五月蝿い警報機だ、と内心思いつつダンは溜め息をつく。
『気をつけてくださいね』と不安顔をして見送るトミーとロエ。
ノルヴェルトは先日のような敵対一辺倒の眼差しではなくなっていたが、音を立てないようにゆっくりと閉められる扉を神妙な眼差しでじっと見つめていた。


「そんなにのんびりはできないが、好きに見てこい」
そう言って背に携えた両手剣の位置を整え、自身は警戒に専念するという意を表すダン。
トミーは胸の前で手を握り締めるとこくりと頷いた。
ダンが付き添わないなら、自分は付いて歩いた方が良いかもしれない。
そんな思案顔になったロエに気付き、トミーは『ちょっと行ってきます』とにこやかに同行を遠慮する。
遠回しにダンと共にここにいてくれと言われたロエは、微かに動揺を見せた。
ちらりと見上げると、視線に気付いているであろうダンは何も言わない。
「ノルヴェルトさん、一緒に来てもらえませんか?」
振り返って立ち止まったトミーに呼ばれ、ノルヴェルトは何となくダンへ視線を馳せる。
彼は肩をすくめてみせた。別に許可を請うたつもりはなかったが、行き易くなったのは事実だった。

奥へと歩いていくトミーの後ろ姿を眺めて、再度家の中を見回した。
開けた戸の隙間から薄っすらと入り込んだ光が、侵入者によってどよめいている微かな塵をちらちらと照らす。
ごとりごとりと重々しい足音を踏み、途中の部屋を眺めつつ、トミーが先に入っていったキッチンへ向かう。
キッチンの入り口に立ってみると、流し台を撫でながら懐かしむように歩く娘の姿。
食器類は勿論、食器棚もない。ただ水の出ない流し台があるだけの部屋だった。
ふと、トミーが壁の一点を見上げる。
彼女は何も言わなかったが、もしかしたらその視線の先に、以前は時計がかけてあったのかもしれないと予想した。
過去にはあったものが今はないという光景を眺めて、少し寂しそうな笑みを浮かべている。
そんな彼女の横顔を見て想起するものがあり、どきりとした。
昔、あの人達のそんな笑みから寂しさを、悲しみを、拭い去りたいとどんなに願ったことだろう。
何故か懐かしさを覚える生活感のないキッチンを眺めていると、徐々に胸が早鐘を打ち始めた。

――――――報いる時が来たのではないか?
――――――こんなところで悠長にしていないで、もう……

「スティユさんは」
そう言いながらこちらを向いた顔に、はっと思考が途切れる。
「どんな料理を?」
一通り事実は伝え終えたはずなのに、何故、長年待ち望んだ終焉に向かわないのか。
それは、伝えた相手がちゃんと『ソレリ』ではないからだ。今の一言でそう気付く。
「………何でも……作ってしまう人でした……。創意工夫が得意で」
「へぇ~スゴイッ」
伝え終えれば、ようやく開放されると思っていたのに。
何も思い残すことなく、全てを終わらせることができると。
恩師夫妻の話をした時もそうだったが、所々で彼女が口にする『ソレリではない』ことが、逸る私をいちいち引き止めているような気がする。
「ノルヴェルトさんは、中でも何が好きだったんですか?」
余所余所しい、まるで初対面の人間と会話を交わすような問い掛けに自然と視線が下がる。
「……………魚料理…」
「魚??」
「私が釣って帰った魚を、色々な料理にしてくれました。……セトは…魚が好きだったので、いつも私の分を掠め取って」
「あはっ」
「マキューシオやスティユに注意されていました……」
「あははっ、そうだったんですか~!」
戸惑ってしまった、彼女の明るい笑顔に。
自分の中では悲しみの記憶だと認識されていたものだったのだが、確かに、考えてみるとこの話自体に悲惨さは無い。
ふと、先日彼女から投げつけられた言葉を思い出す。
『ノルヴェルトさんが私に伝えたかったのは、憎しみなんですか?』
奪われたと、信じるなと、憎いとばかり叫んでいた己の姿に、あの一言で気付かされた。
奴らに一矢報いるだけの力を持つと、そのことだけしか考えられなくなっていた。
遠い昔に自分が恐れたはずの、“憎悪に体が支配された”状態に陥っていたのだ。
「それじゃ今度私も魚料理作りますから、食べてみてくれますかっ?」
手を後ろに回して笑顔で問いかけてくるヒュームの娘を、呆然と見つめてしまった。
突然提示された『未来』の話に言葉が出ない。
さっと焦燥の念が滲むが、彼女はこちらの返事をじっと待つことはしなかった。
「料理は結構得意なんですよ~」
明るい声で言いながら、流し台を撫でつつゆっくりと別の部屋へ歩いていく。

『相手をどうするかじゃない、君がこれからどうするかだ』
脳裏に、優しい師の言い含めるような声が蘇る。



……………『これから』?



   *   *   *



二人だけにして大丈夫なのだろうか。
ずっと沈黙したままのこの場を繋ぐため、そんな心配を口にしてみようかと考えた。
しかし同時に、今の自分達も二人きりの状況にあるのを改めて意識してロエは怖くなった。
この沈黙は辛いが、思い切って始めた会話がすぐに終わってしまい、再び沈黙に戻るというのは尚辛い。
視線を落として思い悩みつつ、隣に立っている人の足を横目に見る。
するとその気配を察したかのようなタイミングで上から呼ぶ声がした。
驚いて顔を上げると、ダンが家の中を眺めたまま口を開く。
「話したいことがいくつかあるんですが」
「は、はい」
緊張した返事を返すロエをダンは見下ろした。
そのダンの視線と行き違うようにして、声の通りの緊張した顔をしてロエは自分の足元に視線を落とす。
ダンはその様子を見て苦笑した声で『いや、あの』と話を始めた。
「わだかまりを、解消したいんですよ。俺は」
こんな状況になって、今はより一層、仲間内での結束を高めなければならない時だ。
互いに何となく気まずさを感じてぎくしゃくしている場合ではない。
「順番に解消します。まずは、トミーがジュノに来ようとした時の話です」
「えっ」
ロエの驚きに対し、『結構前の話になってしまいましたが』と苦々しく言うダン。
「あの件では色々と、世話をかけました」
単なるすれ違いに過ぎなかったのだが、意固地になった挙句、自分の取った態度のせいでロエを泣かせてしまったことをダンは言っているのだ。
「謝っておかないと、とは思っていたんですが、遅くなってしまいました」
謝罪の言葉を述べて小さく頭を垂れるダンに、ロエは顔を上気させて慌てて首を振る。
「いいえそんなこと、気になさらないでください!」
「それだけじゃありませんよ。……言い訳がましくなるようですが、ここのところ色々とあり過ぎて」
溜め息混じりに言いつつ疲れた様子で頭を掻く。
「ロエさんには節々で大変な役回りを頼んだりしてしまって、申し訳なく思ってます」
「いいえそんなっ、私は大丈夫です。私の方こそすみませんでした、色々と……手を煩わせてしまって……」
最近、泣いて喚いてダンに突っかかることが何度かあった。
それを思い起こしたロエはカーッと赤面して、深く深く俯いてしまう。
恥ずかしくて、穴があったら入りたい心境ではあったが、実際は嬉しくて堪らなかった。
これで気まずい雰囲気を解消することができた。
安堵と、解決の切欠を作ってくれた彼に対する想いがたちまち胸に溢れてくる。

「そう、そのことですが」

恥ずかしさと嬉しさで両の頬に手を当てていたロエは、『え?』と顔を上げる。
見上げると、真面目な顔をしたダンがじっとロエのことを見下ろしていた。
「そのことで、聞きたいことがあります」
どきりとした。
ロエが身を硬くすると、ダンはふいと視線を外して再び周囲を見渡した。
警戒の任を忘れることなく、そのままでヒュームの戦士は続ける。
「トミーが、ノルヴェルトにさらわれる直前のことです」
ロエもはっきりと覚えている。『傍にいたい』と泣いて懇願したあれのことだ。
「確かあの時ロエさんは、何か言い掛けていたように思うんですが…」
見上げる先のダンは真っ直ぐな眼差しで、家の中の何処か一点を見つめている。
「続きがあるなら、聞きます」
少しも言い難そうな様子を見せずに、そこまでをダンははっきりと言ってのけた。
急速に緊張が高まったロエは、前で絡めた両手が小刻みに震え始める。
突然のことなので激しく動揺してしまうが、そんな動揺の中でも理解することができた。
きっと、彼は。
「…あの……予想…は……」
「えぇ、やっと」
己に対する呆れのようなものが滲んだ苦笑を浮かべるダンの横顔。
どうやら最近の出来事で、ロエの抱く想いにダンは勘付いたようだ。
彼が言うように、やっと。
と言ったって、ロエ自身、自分の気持ちに気が付いたのはつい最近のことなのである。
「まぁでも、今はまだ単なる憶測でしかありませんが」
憶測はあくまでも憶測であって、事実ではないから。
言いよどむ気配のない彼の口調が、すでにその憶測に対する返事を伝えているとロエは感じた。
否、彼が返すであろう答えなんて、随分前から分かり切っていたこと。
口をつぐんで視線を落とすと、諦めた声色で呟く。
「………言わなければ、駄目でしょうか?」
まるでぐずっている子どものようだと思いつつも、言葉を渋った。
しかし、その言葉に対しダンは直ちに『いえ』と返す。
「無理強いするつもりはありません。ロエさんが言いたくなければ、言わなくても」
上から聞こえるその声に、一つの想いで溢れている胸がとても苦しく感じた。
どうしてとか、何故とか、そういう類のものがたちまち頭の中に湧いてくる。
「でも俺は、それをますます口に出せなくなるようなことを、今後ロエさんの見てる前で繰り返していくつもりです。それでも構いませんか」

酷いです。
男の人って本当にずるい。
どうしてそういうこと言うんですか?

辛い。寂しい。苦しい。切ない。悲しい。
もう、小さな体に納まり切らない。

「じゃあ」

予想していたよりもはっきりとした、力のある声が口から出た。
視線を上げると、少し驚いた顔をしてダンが見下ろしている。
「聞かせていただけませんか?ダンさんの、正直な気持ちを。勿論、私に対する気持ちじゃありません」
責めるような眼差しになっているかもしれないと思いつつ続ける。
「私は強くありませんから、自分の気持ちを知ってもらうだけでも……なんて、できないんです」
ダンの凛々しい眉が徐々にしかめられていく。ロエの言葉をしっかりと受け止めているからこそだ。
「言わないで聞くなんて、ずるいことだとは十分承知しています。私がはっきり言わなければ、ダンさんもはっきり言えないってことは分かっているんです」
ダンの真っ直ぐな目を見ていることができなくなり、俯いてしまう。
「でも………お願いです……。ダンさんの声や眼差し、行動から見て取るんじゃなくて、ダンさんの口からはっきりと聞かせていただければ……私…」
「分かりました」
落ち着いたダンの声が上から降りてきた。
自分の懇願に対して返ってきた承諾の声なのに、ロエは一瞬凍り付いてしまう。
『聞いてください』と、容赦なく語る覚悟を表明する彼に恐れすら感じたが、半端な期待を抱かせぬようにするためなのだということは分かっていた。

ふと、彼との出会いや今まで過ごしてきた時間達を思い浮かべる。
悲しさが襲ってくるだろうと構えたが、やってきたのは不思議な安堵。
見つけたのは最近であったけれど、何処にも行けずにずっと苦しんでいた自分の気持ちが微笑む。

ロエは目を閉じて、胸の中でそっと一言呟いた。



   *   *   *



身内の話をする時の、何処か気恥ずかしさのある横顔で彼女が笑う。
「みんなの推理では、トミーっていうのは愛称なんじゃないかーって。え~と例えば、トーマスとかそういう名前の?」
トミーという今の彼女の名前は、保護された時に自ら名乗ったのだという話だ。
普通に考えて、彼女が例に挙げたトーマスというのは明らかに男性の名前だと思われる。
しかし、これまで疎ましくさえ思っていた冒険者に彼女が保護され、寄りによってエルヴァーンの王国サンドリアで育ったという話がとにかく衝撃的で、トーマスの点に疑問を返している余裕はなかった。
「へぇぇ~でも、そうですか。ソレリさんのぬいぐるみもトミーって名前だったんですね」
言葉が出ないこちらに対して、『偶然ですね』というニュアンスを持った声で言う。
反射的にすがる眼差しを上げると、懐かしむように壁を撫でながら廊下を歩く彼女がいた。
「私はあまり、ぬいぐるみで遊んだりはしませんでしたね~。お姉ちゃんと冒険者ごっこしたりして遊んでました♪」
両親の冒険者仲間にガルカ族の戦士がいて、時々家にやってきて遊んでくれたらしい。
彼女はそのガルカが戦士役をする姿を見たいがために、オーク役ばかりやっていたと言う。
「……オ…?」
「カッコイイんですよ~そのガルカのおじさんっ。腕にしがみ付くと振り回してくれるんです♪」
少し眩暈を感じて、思わず壁に手をついてしまった。
そんな役回りを何故貴女が………そういうのは父親がすればいいじゃないですか。
セトがいた頃は、そういった“やられ役”の類は必ず私に回ってきたものです。
内心嘆いて気が付いた。そういえば母親や姉の話は出てきても、父親の話が出てこない。
眩暈から立ち直って顔を上げてみると、彼女はふと足を止めて物思いにふけっていた。
心成しか深刻なその横顔に眉根を寄せたところで、『二階に行きましょ』と明るい声で言って振り返った彼女は脇を通り抜けた。
一つに結わいた髪を弾ませて階段に姿を消す彼女の後ろ姿を呆然と見送る。


始めは『来ないで』と言われ、『知らない』と跳ね除けられた。
あの時は心底絶望したが、今は、こちらの話に興味を示す彼女がいる。
少しずつ伝え合い、少しずつ知り合っていく。
そんな手応えが、この短い時間だけでも十分に感じられた。
しかも、想定していた重々しい語り継ぎではなくて、“雑談”の調子で。

あの人達のことを。奴らのことを。彼女自身のことを。
伝え終わったら、全てを終わらせに行くのだ。
伝え終わったのだから、長年押さえ込んできた感情を開放して。
過去を清算し、あの人達のいないこの悲しみの世界から―――。

ヒュームの娘が軽い足音を立てて階段を上っていくのが聞こえる。
はっとした。
惑いによってじわりじわりと緊張し始めた己を自覚しつつ、大きな鎌を背負って上るには少々狭い階段を上がった。
漆黒の凶暴な武器が壁を引っかかないよう、鎌の柄に片手を添えてゆっくりと。


―――――――彼女が笑う。

胸の中で、誰にでもなく放たれる言い訳がましい自分の声。
彼女はまだ、ちゃんと『ソレリ』ではないし、望んだ再会の形が未だ叶っていないとは言え。
事実は伝えた。自分はもう、終焉に向かうことを許されている。
―――――――けれど。

二階が妙に明るいなと思ったら、踊り場の天井に天窓があった。
その丸い天窓から白み始めた空が見え、暗い家の中をぼんやりと照らしている。
階段を上がり切ると、正面にある部屋の扉が大きく開かれていた。
入ってみて足を止める。そこに彼女はいなかった。

―――――――まだ伝え終わってなどいないのではないか?
ここまできて、怖気付いたのか。
―――――――そうじゃない。

惰弱だ、もう少し見ていたいと思うなんて。

交錯し始める思考を振り払うかのように頭を振った。
自分の中での論点を変えた方が良い。そう思って視線を上げる。
家具がないので、四角い部屋の形がはっきりと分かる、明かりのない暗い部屋。
入ってすぐの場所に立ち尽くし、空虚なその光景を眺めていると蘇る記憶と出会う。


先程彼女との会話にも出た、トミーという名のぬいぐるみ。
スティユが作って与えたあのぬいぐるみのことを、ソレリはとても大切にしていた。
思えば、家の中で一番明るかったものが失われ、両親や私が穏やかさを失った後も、あのぬいぐるみだけが何も変わることなく、少女に寄り添っていた。

しかし、そうだ。
ある日、ぬいぐるみのトミーが、独りぼっちで廊下に寝ていたことがあって。
私はぬいぐるみを拾い上げると慌てて少女の姿を捜した。
少女の身に何かあったのではと思ったからだ。
でもソレリは……そう、何も無い暗い部屋で大人しく座っていた。
今のこの部屋のような、がらんとした部屋に。一人で。
私は安堵した声で少女を呼んだ。振り返った少女にぬいぐるみを見せて口を開く。
でも、何も言えなかった。
泣き顔が怒ったように『いらない』と言った。
訳が分からず近付いてみるが、ソレリは敵を見るような目でぬいぐるみを拒否し続ける。
そうやってしばらくの間泣き喚き、やがて、少女は俯いて涙を拭きながら泣き声の中で呟く。
『あいたい』
途切れ途切れに聞こえる、会話にならないぶつ切りの単語を拾い上げている内に、私は少女が考えたことをようやく察することができた。
理解できた頃に、少女が繋がった言葉を搾り出す。
『セトにあいたい』
トミーとばかり遊んでいるからセトが帰ってこないわけではないのに。



頭を振って無人の部屋から目を逸らした。
込み上げたものを振り払うように、荒らげた溜め息をついて部屋を出る。
先に階段を上がったはずの娘を捜して見回すと、踊り場の横にもう一つ部屋があることに気がつく。
階段を上がってきた時は、開かれたこちらの部屋に意識を取られて気に留めなかった部屋だ。
その部屋の扉は少しだけ開いていた。
歩み寄って、半開きになっていた扉をそっと押し開く。やはり中は暗かった。
今見たもう一つの部屋よりも、こちらの方が小さい部屋のようだ。
窓の位置が他の部屋と比べると少し低めなので、子ども用の部屋なのかもしれない。
その窓枠に手を添えて、ヒュームの娘がこちらに背を向けて佇んでいた。
窓にはやはり戸が閉まっているので、彼女が外の景色を眺めているわけではないのは確かである。
窓枠に添えた手に視線を落としている彼女の背中は、部屋ががらんとしているせいか、とても寂しげに見えた。

マキューシオとスティユがあんなことにならなければ、この娘は今頃どうなっていただろう。
あの生活が続いていたとしたら、ひょっとすると今も、彼女は唯一の友達を抱き締めて暗い部屋に一人で……?

どうしようもない空想だと思った。

「ソレリ」
空想を打ち消したくて咄嗟に呼びかけると、ヒュームの娘がはっとしたように振り向いた。
こちらがその反応に少々驚くと、彼女もあっという顔をする。
闇を這う生活が長かったせいか、随分と夜目が利くようになっているらしい。
暗い中でも彼女の目に涙が溜まっていることに気が付き、目を丸くしてしまった。
「ソ…」
「あ、わ、違うんです違うんですこれ!ごめんなさい!」
重々しい足音を踏んで歩み寄ると、彼女はそう叫んで顔を隠すように手を振り回した。
そして、ぱたぱたと部屋の隅へ逃げて笑う。
「あはは、ごごごごめんなさい何でもないですよ!」
「でも、泣いて…」
「なんか色々と思い出しちゃって、懐かしくて!あは、ちょっと感傷的にっ」
そう言ってこちらに背を向けて、ごしごしと目元を擦る。
その間もばつが悪そうに笑っている。

あの時、セトに会いたいと泣く少女を抱き上げて自分は何と言っただろう。

それが思い出せず、又、もう幼い少女ではない彼女の後ろ姿に戸惑って、手を伸ばすことも言葉をかけることもできずに立ち尽くした。

“パリス。その酒場で駄目だった場合、他に当てはないのか?”
不意に、直接頭の中に聞こえた青年の声にびくりとする。
それは彼女も同じらしく、縮こまっていた背中が驚いたようにしゃんと伸びた。
“ん~と~、リェンの実家の場所とか忘れちゃったしなぁ~。やっぱ城しかないかも~”
張りの無い返答の第二声を聞いて、ようやくリンクシェルだと理解できた。
情報伝達に於いてなんと便利なものだろう。昔これが手元にあればどんなに重宝したことか。
リンクシェルについてそんな感想を抱いたのは、大分後になってからだ。
今は目の前にいる彼女と自分のことで頭がいっぱいだった。
“そっちは大丈夫ですかパリスさん。リェンさんとは会えそうですか?”
涙を追いやった彼女が、事も無げにリンクシェルで問いかけるのが聞こえる。
“いやぁ~いないねぇ彼。駄目だ、一旦戻りま~すよ~”
“あ、はーい。了解です!”
“気をつけてくださいね”
“おい、ネコが静かだが……ちゃんといんのか?”
“あっはっは。それが、いまいちコツが掴めないらしくて~あいたたたっ!”
同行しているミスラから攻撃を受けているようなエルヴァーンの声を聞き、同じものが聞こえているはずのこちらを振り返って彼女は笑った。
リンクシェルを通しても、笑っている彼女の声が聞こえる。

何故あの雪の上で、渾身の力を込めて立ち上がり、少女の手を掴むことができなかったのだろう。
どうして私は十七年もの間、彼女の振り返る先を留守にしていたのだろう。

「ん~?……ゆっくり話すことできたのかなぁ、ロエさん。声がちょっと元気??」
向こうを向いて何やら言いながら、それとなく目元を指で撫でる彼女の背中。
「お邪魔かな?でも、そろそろダン達のところに戻った方がいいかもですよね」
見つめていると、すっかり涙を隠した彼女が機嫌良い声で言いながら再度こちらを向いた。
それから最後にぐるりと部屋の中を見回して、『あ~懐かしかった♪』と腕を伸ばす。
私は満足顔で部屋の出口に向かう彼女を焦ったように呼び止めた。
「ソ、あ…っ」
「む?」
きょとんとした顔が振り返り、次に、こちらが呼び方に躊躇したことを困った顔で笑う。
今更だと思ったかもしれない。自分でもそう思う。
顔が熱くなるのを感じたが、ぐっと表情を引き締めて彼女と視線を合わせた。
『今更ですが…』と口の中でもたついてから意を決す。
「このまま、ソレリと呼んでも……良いですか?」
「ダメでぇぇすッ」
「!」
自分がこの時どんな顔をしたのかは当然見えなかったが、面食らった自覚はあった。
相当の表情をしたのかもしれない。
こちらの顔を見た彼女は驚いたように眉を開いてから声を出して笑った。
「あはははっ、ごめんなさい冗談です!スミマセン!」
扉の向こう側に半身を隠し、こちらを窺って笑っている姿はまさに無邪気な子どものようだった。
天窓から差す光が、彼女のハニーブロンドの髪を鮮やかな金色に縁取る。
「ん~~~本ッ当のところは、トミーがいいんですけど……。しばらくの間はソレリでもいいですよ。少しずつでいいのでトミーに慣れてくださいね?」
そこまで言って、『ただし、ソレリと呼んでいい期間はひと月だけです!』と、びしりと指差される。
どきりとするものを感じた。……ひと月……。
彼女の中では、自分と過ごす未来が当然のように用意されているということ。
動揺の波が押し寄せて喉を詰まらせると、何故か、咄嗟に胸元の外套を鷲掴みにした。


待ってくれ。

一体どうした。

まさか私は。




生きたい、のか?



   *   *   *



戻ってきたパリス達二人と合流し、一行は冒険者が行き交う通りを歩いていた。
来る時もそうであったが、人通りが多い道を歩く時は身を隠す魔法を使用しないでおく。
似たような格好をした冒険者達が行き来する通りならば、十分に紛れることができる。
それに、行動の効率や安全面を考えると、やはり魔法は使わない方が良い。
隠蔽の魔法の中に、何処ぞの変態魔道士御用達の『インビジ』というものがある。
それは姿を見えなくする魔法で、隠密行動には持って来いではあるのだが、賑わいの中で使用するにはリスクが高い。
こちらの姿が全く見えていない人間、それも武装している冒険者に衝突されようものなら、下手をすると思わぬ事故になり兼ねない。
相手がガルカ種族だったとしたら、それこそひとたまりも無い。ロエの場合、命の危険すら感じる。
「これはもう、通報しちゃってみる?」
『リェンと連絡取る手段も見つからないし』と、お手上げの声でパリスが言った。
先頭を歩く彼の隣にはリオがおり、その後ろにトミーとノルヴェルト、最後尾にはダンとロエがいる。
こういう行動の際、一番話を振りたい相手のダンはいつも最後尾にいるなとパリスは思った。
不便と言えば不便ではある。しかし、ごもっともだとも思う。
“リンクシェルで話せ”
短いダンの言葉が返ってくる。一瞬きょとんとしてから、パリスは『ですよね』と頭を掻いた。
彼の隣を歩いているロエに目を向けると、彼女はこちらの視線に気付きにこりと微笑む。
何だかキラキラしてるように見えるんですけど……何かあったんですか?
そんなことを思って目を瞬かせていると大きな声が頭を叩いた。
“通報するってったって何で連絡先知らない何処にのよするのよ友達なんじゃないわけ?!”
“集中力のなさが盛大に表れてるぞネコ”
「うっさいわね!!!」
拳を作ってダンのことを振り返るリオ。パリスは苦笑いを浮かべる。
同時に二つの文句が言えるなんて器用だなぁ、とか思いつつ。
リオは発言ができるようにはなってきたようだが、まだまだ安定しない様子だ。
“そういえば、あんたどうだったのよ”
“ハイ?”
“馬鹿あんたじゃないわよ!リリー!”
返事をして首を傾げたパリスを睨みつけて言い、リオはトミーのことを指差す。
自分のことを指差して目をぱちくりするトミーに対し、『家に行ってどうだったのよ』と口頭で尋ねる。
リンクシェルを使うことがもう面倒臭くなったらしい。
“え、あっ、私ですか!?”ととぼけた声でトミーが言うと、低い声が聞こえる。
“俺達も聞いてない”
ダンの声だった。トミーは自分の誤魔化し笑いがすぅっと薄らいでしまうのを感じる。
心成しか背中をじっと見られているように思えて、一瞬言葉を失ってしまう。
“……あ、えぇとそうでした!長い時間下で待っててもらっちゃってごめんなさい!”
トミーはくるりとロエを振り返った。
いきなり自分に来るとは思っていなかったロエは、少し驚いてふるふると首を横に振る。
反応を返す相手を選んだトミーの様子を、当然、ロエの隣を歩いている戦士がいぶかしむ。
その気配を感じ、トミーは慌てて前を向いた。
“それが、あの家に住んでた頃の思い出話を……ただずっと喋ってた…感じで…”
前にいるリオもまた最高に怪訝な顔をしていて、苦しくなったトミーは隣の男へ視線を逃がす。
“ノ、ノルヴェルトさんにもちょっと迷惑だったかもですね”
はは…と干乾びた笑いをもらしつつ見上げるが、銀髪のエルヴァーンの眼差しはトミーを見ていなかった。
ノルヴェルトは、じっと前方を見つめて黙々と歩いている。
しかし、何となく様子がおかしい。
意識を視線の先に向けていないとでも言うのだろうか。静かな、ぴりりとした空気を纏っている。
疑問符を浮かべて彼を見上げていると、彼の手が非常にゆっくりと、音を立てずに鎌の柄へと伸ばされていく過程が見えた。
ノルヴェルトは篭手をはめていないので、指にもいくつもの細かい傷が残っているのが視認できる。
そんな彼の手が鎌の柄を握り締めたのを見届けたところで、ようやくトミーははっとする。
驚いて口を開くが、トミーよりも先にダンの声が皆に届いた。
“待て”
怒鳴り声ではなく、鎮圧の目的を十分に表した声。
皆が足を止めた丁度その時、通りの賑わいの中から声が放たれた。
「ねぇねぇ~!」
来た道を振り返ると、行き交う人々の中を傍若無人に掻き分けて声の主が現れる。
いかにも『やんちゃ盛り』という言葉が似合いの、エルヴァーン族の少年であった。
ノルヴェルトは自分の後ろにトミーを隠すように立ち、皆の間にも緊張が走った。
見たところ年はまだ十にも満たないと思われる少年は、一行が身構えたのを感じたのか、ふと無邪気な顔を強張らせる。
その様子に気付いてトミーが進み出ようとすると、ノルヴェルトが無言の内にそれを腕で制した。
「あ?何か用か」
容赦も愛想もないダンの一言が少年に振り下ろされる。
ぎょっとして身を硬くする少年に、慌ててロエが『どうしたんですか?』と問う。
その頃になって、少年が現れたのと同じ方向から、遅れて数人の少年達が姿を現した。
皆同じくらいの年齢と思われる。少年の遊び仲間といったところだろうか。
怖々と、しかし興味の目で、少し離れたところからこちらを眺めている。
歓迎されていない様子の少年を笑っているようだった。
場の空気の悪さを見兼ねて、トミーは制するノルヴェルトの腕を退けて前に出た。
銀髪のエルヴァーンの強い眼差しを感じたが、少年があまりにも気の毒に思えたのでそのまま話しかける。
「なぁに?」
ひょいっと少年の前に屈んで尋ねると、少年の緊張した表情が少し和らぐ。
彼は『届けもの!』と握り締めていた手を上向きに目いっぱい開いて見せた。
小さな掌の上には、これもまた小さな一つの丸い輪っか。
黒いオイルのようなもので汚れて乾いたような見てくれだったので、何かの部品かと思ったが、少年の手から摘み上げてよく見てみるとそれは部品などではなかった。
指輪だった。
「冒険者の人が、渡してって」
「頼まれたの?」
「うん」
大きく頷く少年の前で、眉を寄せてまじまじと指輪を見つめる。
そこで何かに気が付いたのか、ダンが抑えた声で『貸せ』と手を差し出す。
疑問符を浮かべつつダンの手に指輪を置いて、トミーは少年ににこと笑ってひとまず礼を言った。
厳しい眼差しで指輪を見つめるダンの周りに自然と皆が集まる。
ダンはまるで、嫌な予感が的中してしまったと言う顔で指輪を見つめ、角度を調節して指輪の内側を観察する。
指輪を少しずつ回すダンの手が、すぐにぴたりと止まった。
そして、口の中で舌打ちをして何とも言えない顔をすると、のっぽのエルヴァーンを呼んで指輪を差し出す。
その様子を見た少年は、慌てた声で『オレのせいじゃないよ!』と声を上げた。
ダンが指輪の汚れに怒っていると思ったのだろう。
「確認しろ」
指輪を渡され、重たい声でそう言われたパリスは、手にした指輪をじっと見つめた。
「ん~?……この汚れって~……」
「血だ」
「えぇ!?」
驚きの声を上げて立ち上がるトミー。
少年はただならぬ空気に後退りし、『渡したからね!』と言って仲間達のところに駆け戻っていく。
「ちょっとあんた!これ……!!」
「やめろ、巻き込むな」
リオが少年の後を追おうとするがダンが鋭い声で止める。
少年は遊び仲間達と共に、何人もの人とぶつかりながら通行人の向こうへ逃げるように去っていった。
じれったそうに人ごみの向こうを見つめるリオ。
皆が視線を戻すと、パリスが紙よりも白い顔をして立ち尽くしていた。
ダンが『確認しろ』と言った、指輪の内側を見たのだ。
「…………うわ……どうしよう……」
「ど、どうしたんですか?」
怖々と尋ねるロエをちらりと見てから、指輪に視線を戻し、口に手を当てる。
「………リェンのっぽい、これ」
混乱をそのまま音にしたような声でパリスが呟く。
ロエやトミーが目を見張ったのとほぼ同時に、ダンの背中がばしばしと叩かれる。
打撃の主である赤髪のミスラは、瞬きを惜しむ目で人ごみの奥をじっと見据えていた。
「ちょっと、ねぇ、あれ」
視線の先に意識が集中するあまり、言葉の選択が疎かになっている様子で指し示す。

ローブを身に纏った魔道士や、鎧を鳴らして歩く戦士からなる冒険者のパーティ。
彼らに混じって、この町に暮らす平民やギルドの職人達も、冒険者の足取りとは異なるペースで横切っていく。
それぞれの流れを持った人々が行き来している、そんな通りの向こう側。
街路樹が作る木陰の下で、のんびり居眠りバザーをしている冒険者――――の横だ。

荷物鞄を足元に置き、橙と深い緑の質素な色合いのダブレット姿。
一見冒険者風の身なりをしたエルヴァーンの男がじっとこちらを眺めていた。
リオはあの人物を示しているのだと、皆が見当を付けられた頃、こちらのそんな様子を見て取ったのか男は胸の前の腕組みを解く。
彼――――黒髪のエルヴァーンが落ち着いた動作で懐から眼鏡を取り出した時には、彼が誰なのか、この場にいる全員が理解していた。

パリスが手にしている指輪の内側には文字が彫られており、汚れの合間から友人である青年騎士の愛称の文字列が読み取れた。

テュークロッス率いる貴冑騎士団の騎士ウォーカーは、ゆっくりと眼鏡を掛け、愕然とする面々の様子に満足した表情を浮かべて会釈するのだった。



<To be continued>

あとがき

以上、第二十四話『失した(なくした)時間』でした。
今回もまた色々とクレームがきそうな内容となりました。(汗)
恨みはないんですよ、本当に、狙いを定めて陥れているわけでは…!
怖くて触れられないのである箇所についてはスルーさせていただくとして。
師の言葉の引用先が本で書いたお話なので、サイトにある作品のみの方にとっては「んなこと言ってたっけ?」となると思います。申し訳ないです。(´Д`;)
長い時を経て、やっっっとマキューシオの言葉が届き始めたノルです。

いやーーー怖い怖い怖い!なのでもう脱兎!!(←オイ)