想いの罪科

第三章 第十五話
2006/10/29公開



「おにちゃ~~~~!!!」
帰宅を知らせる言葉を口にしながらドアを開くと、そんなけたたましい声が家の中から飛んできた。
何事かと顔を上げる。
幼いヒュームの少女が泣き声を上げながら駆け出して来た。

泣きじゃくっている小さな少女は、いつものぬいぐるみをぎゅっと胸に抱いていた。
目の前まで来ると、何もない床で躓いてべしゃりと転ぶ。
「――ソッ!?」
仰天したノルヴェルトは荷物を放り出して屈んだ。
その頃になって、家の奥からセトが出てくる。

「ノルヴェルトォ~待ってたっちゅ~の~」

げんなりとした顔の彼女は両手で耳を押さえ、ダラダラとした足取り。
彼女の声は、転んだまま泣き喚いている少女の声に掻き消されそうであった。

仰向けに転がって足をばた付かせながら叫ぶ少女。
何を喚いているのか分からない。
訳の分からない状況に困惑しつつもノルヴェルトが泣いている少女、ソレリに手を伸ばす。

「おにぢゃ~セトがいじえ~のぉぉ~!!」

「うん……うん?」

「違うよ!うちは何もしてないっちゅーねん!」

「やぁーーーーセトきらぁ!!!」

バタバタと暴れながら泣いて怒っているソレリは、セトに対してきゃんきゃん吠えまくる。
見兼ねたノルヴェルトは事情を把握できていないものの、とりあえずソレリを抱き上げた。
「なんで嫌いとか言われなきゃいかんのじゃい!」
頭を掻き回すセト。
その様子から、ノルヴェルトが帰ってくるまでの間こんな状態のソレリにずっと手を焼いていたのが想像できる。

「ほらソレリ、大丈夫だよ。……どうしてこんな?」
首にしがみ付いて泣いているソレリを見下ろしながら尋ねた。

すると、セトに言わせまいとするかのようにがばりとソレリが体を離して言った。
「こえ!」
そう言って少女が示したのは、抱き締めているぬいぐるみ。
近過ぎてよく見えないノルヴェルトは一旦ソレリを下ろすことにした。
床に下ろしてもらうと、ソレリはすぐにぬいぐるみを高く掲げて訴えた。

「トミーいたいのぉ~!」

少女が差し出しているのは、スティユお手製のうさぎのぬいぐるみ。
トミーという名前をつけて毎日ソレリが仲良く遊んでいる、少女の親友だ。

しかしそのうさぎのぬいぐるみ。よく見ると耳が片方むしれ、今にも付け根から千切れそうになっている。

「ソレリが遊んでる時、どっかに引っ掛けたみたいでさぁ」

ぬいぐるみを覗き込んでいるノルヴェルトにセトが簡単に説明した。
「いたいのぉ~、たすけておにちゃ~?ねぇ?」
「スティユ、今マキューシオとちょっと遠くまで買い物行っちゃったんよー。だからってうち裁縫とかマジ無理だしさぁ。変にしたら余計ヤバイじゃん?でもできないって言ったらさっきの有様なんよーノルヴェルトォー」
口を尖らせたセトが困り果てたような声で言った。

その経緯説明を聞いてやっと事情が分かった。
納得すると同時に、さっと顔色を悪くする。

「おにちゃーたすけてー。トミーいたいいたいよぉー?」
真っ直ぐな眼差しで訴えてくるソレリをじっと見下ろして固まる。
ちらりとセトを上目遣いに見た。
その様子を見て全てを察したセトは、『期待はしてなかった』と小声で零してから盛大に溜め息をついた。

すがるような目でじっと見上げてくるソレリの眼差しを痛く感じつつ、ノルヴェルトは言葉を濁す。
ゆっくりと片膝をついてソレリと目線を合わせた。
「あい」
少女が鼻をすすりながらぬいぐるみのトミーを差し出した。
ノルヴェルトは苦虫を噛み潰したような顔で視線を泳がせ、慎重に言葉を紡ぐ。

「あの……ソレリ。スティユが、ママがもうすぐ帰ってくるから……」
言っている途中で早くも少女の表情が見る見る変わり、ノルヴェルトは絶望して言葉を続けられなくなった。
少女の向こう側で、セトがすかさず両手で耳を押さえるのが見える。
ソレリは顔を歪ませて爆発的泣き声を上げると、嫌いだと叫んでノルヴェルトの足をべしりと叩いた。
どうしたらいいのかさっぱり分からないノルヴェルトはおろおろと少女を見下ろすことしかできず。
その場にしゃがみ込んでわんわん泣いているソレリは『ママ』と繰り返し叫び始めた。

「むぁーーーもうーーー!!!」

もう耐えられないと言わんばかりの声を上げ、セトは家の奥へと走っていく。
匙を投げたセトに驚きの目を向けつつも、放っておくわけにもいかない少女を愕然と見下ろすノルヴェルト。
しょうがないので抱き上げてあやそうか。
しかし、手を差し出したら小さな手でべちっと弾かれた。
そこまでいくと段々とノルヴェルトも困惑の中に苛立ちが滲む。
『どうして遠くに出掛けたりしちゃうんだ』と、内心夫婦に文句を垂れた。
ノルヴェルトもまだ若い。
幼い子どもの見方など分かるものか。
日頃ソレリ相手に子ども言葉で会話をすること自体、年頃のノルヴェルトには恥ずかしくて堪らないのだ。

困り果てて青年が頭を抱えていると、家の奥からどたどたとセトが駆け戻ってきた。

「ソレリ!まずはトミーの手当てしなきゃ駄目なんじゃん!?」

そう言うセトの手には、スティユが合成に使っている白くて長い布の素材。
もう片方の手には適当な箱にクッションを押し込んだものを引きずっている。

「ノルヴェルト、応急処置をするんよホラッ!」

いきなり布地をぼんと投げ付けられ、ノルヴェルトは目を瞬かせた。
セトが何かを訴えるような顔で何度も深く頷いている。
言葉の通り応急処置をしろということなのだろうか。

ノルヴェルトは泣き声を止めて鼻をすすっているソレリの様子を窺うと、恐る恐る手を伸ばした。
「ソレリ……トミーを貸して?」
ゆっくりと言うと、ソレリは抱き締めていたぬいぐるみを興味深そうに差し出した。

受け取って、よく分からないが耳のところを布でぐるぐる巻いてみた。
昔、誰かが怪我をした時に、マキューシオから教えてもらった巻き方を思い出しながら……。
と思ったが、こんな耳を持っている者などいないのでやっぱり適当になった。

それなりの形に巻き終える。
そうこうしている間に、整えたクッション入りの箱をセトが近くのソファーの上に置く。

「はい、ベッド!ソレリ、寝かせてやんなよ」

言ってノルヴェルトからぬいぐるみをもぎ取り、きょとんとしているソレリにそれを渡した。
ソレリはぬいぐるみを大事そうに抱き締めた。
千切れそうになった耳の部分を何度も撫でる。
「いたいねぇ~……」
ぬいぐるみを労わっている優しい少女にノルヴェルトは目を細める。
即席で作られたベッドをちらりと見ると、青年は何かに気付いたように立ち上がった。
そのまま何も言わずに奥へと歩いていくノルヴェルトをセトが疑問符を浮かべて見送る。
ソレリはソファーの上によじ登って座り、ぬいぐるみをそっと即席ベッドに寝かせた。
そこへ、すぐに戻ってきたノルヴェルトが大きめのハンカチを広げてぬいぐるみの上にかける。即席の掛け布団。

箱の横にぺたりと座り込んだソレリは、その小さな手でぎこちなくぬいぐるみを何度も撫でた。
疲れを顔に出したセトが脱力気味にソファーに腰を下ろす。
ソファーが大きく揺れ動いてソレリがキッとセトを睨んだ。
『ごめんごめん』と平謝りするセトに苦笑しながら、ノルヴェルトは腰掛けずにソファーの脇に屈んだ。
そして、ぬいぐるみを寝かせた即席ベッドと、ソファーの上に正座しているソレリをちらちらと見比べる。

「……ソレリ、ほら、トミーが眠れるよう……に歌とか……ぐっすり……」

「何恥ずかしがってんの?言うならはっきり言えっちゅーねん」

「う、うるさいなっ!」

恥ずかしくてもごもごと言うノルヴェルトに意地悪くセトが言う。
ノルヴェルトは一気に顔を真っ赤にした。
確かに、そういうことは恥ずかしがりながら言う方が余計恥ずかしいのだ。
「う~さな~」
すると眉を寄せたソレリが二人をうるさいと叱る。
しまったと肩を窄めるノルヴェルトと、にんまり笑うセト。
最近ノルヴェルトの『うるさいな』という言葉をソレリが覚えてしまって、ノルヴェルトは何とかしなければと思っていたのだが……。


それから、ソレリとセトが二人で歌った。
スティユがよくソレリに歌ってあげる歌を。


しばらくして、日が傾き始めた頃にヒュームの夫妻が帰宅した。
箱のベッドに寝かされたぬいぐるみを囲んで眠っている三人を見つける。
夫妻は互いに声を潜めると、しばしその光景を眺めて優しく微笑んでいた。







――焚き火がぱちりと鳴った。

それを切欠に、蘇った思い出に包まれていたノルヴェルトははっと目を瞬かせる。
一体どのくらいの時間、眠っている娘を見つめてぼんやりとしていたのだろう。

ノルヴェルトは野宿する際、いつも焚き火など焚かない。
明かりや暖かさは必要ないと思っていたから。
だが今宵はいつもとは違う。自分だけではない。
自分でも信じられないが、今はそう、一人ではないのだ。

小さな焚き火のオレンジ色の光。
照らされて眠っているのは、ずっと捜し続けてきた人。
冷えてはいけないと思ったので、眠っている彼女の上にはノルヴェルトの外套がかけてある。
感情が映っていない寝顔は安らかな寝顔には見えなかったが、それでもノルヴェルトには充分だった。
草の上に腰を下ろし、眠りも忘れてただ飽きもせず、ずっと彼女の寝顔を見つめている。

ここロランベリー耕地の空は、満天の星空とまではいかなかったが晴れていた。
徐々に月が沈み、日が昇ってくるグラデーションの空。

彼女はただ眠っているだけだ。
何も会話はしていない。
ただ見つめているだけであるのに。
ノルヴェルトが必死に求めていたものを、彼女は早速与えてくれた。
何処にしまい込んでしまったのか分からなくなっていたたくさんの思い出達が、ゆっくりと身動ぎし、色を取り戻し。
自分が今何処にいて、どういう姿勢で座っているのかすら忘れさせられる。

彼女が傍にいる。
そのことだけで与えられたものは至極尊く、ノルヴェルトは期待せずにはいられなかった。

これからは全てが、もっともっと変わっていくだろう。
失ったものが次々と戻ってくる。
課せられたものがぼろぼろと身から剥がれ落ちる。
やっと手に入れた。やっと取り返した。

そしてやっと、解放される。

今宵は今までのように、外套に身を包んで鎌を抱いてはいない。
傍には明かり、そしてもう一人分の呼吸がある。
閉じられた彼女の目が開かれた時、今度はどんなものが与えられるのだろう。

先程の彼女はきっと、気が動転していたのだ。
あの場の雰囲気が彼女にああいう行動を取らせた。
この後彼女が目を覚まし、落ち着いて自分を見ることができたなら。
話せば分かってくれるはずだ。
自分が言うことは全て真実なのだから。

自分がとんでもない期待を抱いてしまっていることを自覚している。
ノルヴェルトは、その期待の危うさを頭では理解していた。
そんなに上手くいくわけがない。

しかしもう、到底無理だ。
期待をせずにいられるものか。

みんなは確かにいた。
私は一人ではなかった。
お願いだ。
どうか、みんなに報いて、私を、自由に。


まるで神に――ずっと軽蔑してきた女神に祈るかのように、両手を組んで焚き火の炎を見つめる。

するとその揺らめきの向こう側で、横たわっていたヒュームの娘の体がゆっくりと起き上がった。
トミーが目を覚ました。
はっと顔を上げたノルヴェルトは思わず草原から腰を上げる。

トミーは何かを必死に考えているような顔をして、呆然とノルヴェルトを見上げ硬直していた。
身を起こしたことにより、彼女の肩から徐々にノルヴェルトの外套が滑り落ちる。
思考を廻らせている顔でじっとノルヴェルトを見つめ、目だけを動かして周りを見、またノルヴェルトに視線を戻す。

彼女の眉が少しずつ中央に寄っていく。

そして、外套がぱさりと腰の辺りまで完全に落ちた頃になって、トミーは膝を立てて立ち上がった。
結わいた髪は大分ほつれていた。
彼女が歩み寄ってくるのをノルヴェルトはただ見つめて――

乾いた音が、夜明けの空の下に弾けた。

「……よくも……ッッ!」
ノルヴェルトの頬を引っ叩いたトミーは、真っ直ぐに彼を睨みつけて声を絞り出した。

彼女の平手を避けもせずに受けたノルヴェルトは、牙を剥く現実に対し『やはりな』と妙に冷たく納得する。
しかし――途端に、勢いよく感情の波が体の奥底から押し寄せた。
それはすぐに、最も簡単な感情へと染まる。

ほぼ死滅してしまった心の奥底を這う、憎悪がゆっくりと身をもたげる。

「何をしたって言うの!?絶対許さない!!!」

続いて叩こうとするトミーの腕を感情に震えた手で掴み、ノルヴェルトは加減もせずに力を込めた。
防具の上からとはいえ、とてつもない力で掴まれトミーはうっと苦痛の表情を浮かべる。


「…………何をしたかだって……?」

絞り出した声は、震えていた。

「奴らは奪っただろう?全て」

「く……っ」

抵抗しようとするトミーに構わず掴んだ腕を持ち上げ、彼女を冷たく見下ろした。
彼女に対して今まで一度も向けたことのない、最高に冷え切った眼差しで。
エルヴァーンの彼に片腕を掴み上げられたトミーは、踵が浮いた状態になりつつもキッとノルヴェルトを睨み付けた。
「何を言ってるの!?私には全然分からないよ!」
叫ぶが、ノルヴェルトにその訴えは届いているか分からなかった。
呆然と、独り言のように彼は呟く。
「あんなに愛されていたのに……覚えていないだなんて……」
深いブラウンの瞳が、じっとトミーのことを見つめる。
「私がどんな思いでソレリを探していたと……」
「知、らないっ」
頭を振って拒絶するトミーにノルヴェルトは突然吠えた。

「だから伝えるために!!!」

びくりと身を窄めて彼を見上げるトミーは、そこで初めて怯えを垣間見せる。
怒りに満ちたノルヴェルトの目からしばし視線を逸らせなくなる。

「孤独に生き延びて……私はーーずっと一人で私は!!」

持ち上げた腕を下ろし、もう片方の腕も引っ掴んでノルヴェルトは詰め寄った。
トミーは愕然とした目を向け、信じられないという口振りで声を絞る。

「それで私の、大切な人達を奪って私も独りぼっちにしようとしてるの」

珍しく相手を軽蔑したような、攻撃的な驚きのこもった言葉。
お人好しで大抵のことは我慢してしまうトミーだが、仲間のことを傷付けたノルヴェルトに対しては容赦の無い言葉が口を突いて出た。
あくまでも拒絶を表す声と眼差し。
ノルヴェルトの表情は一層険しくなる。

「私はソレリのために生きてきた!馬鹿げた女神に与えられたこの汚らわしい命で!ソレリに伝えるために!!」

真っすぐにトミーを見つめて訴えかけるノルヴェルトの瞳。
そこには深い孤独と、悲しみと、痛みの波紋。

「それなのに貴女は私を覚えていない。マキューシオやスティユのことさえも!」
悲痛な声で彼は叫ぶ。
トミーはそんな彼の目を見つめ返すことができずに俯く。

「私はソレリなんて名前じゃないよ!勝手なこと言うなぁ!」

髪を振り乱して叫ぶトミーの姿が、ノルヴェルトには駄々をこねる少女のように見えた。

昔思った時とは別の意味も加えて、なぜあの夫妻はいないのかと、誰にでもなく心で問う。

「なぜ……覚えていない!?セトは貴女を守って死んだ!」
震える瞳が縋り付くが、トミーは首を振る。
「誰、だか分からない……っ」
無情にも返される言葉に、ノルヴェルトは必死に、救いを求めるように訴え続ける。

「セトだ……!マキューシオを取り合って喧嘩もしてたじゃないか!!」

「知らないよぉ!」

トミーは腕を掴むノルヴェルトの手を必死に振り払おうとするが、微動だにしない。
俯くノルヴェルトの銀髪が肩を滑り落ちる。

「セトは貴女を守って……セトは……っ」
震える声が苦しげに繰り返す。

抵抗してもびくともしない、圧倒的な力の差。
トミーは憔悴した声で、分からない、覚えてないと、繰り返す。
ノルヴェルトが胸を引き裂かれたような顔を上げ、問いを叫ぶ。

「――なぜだ!」
びくりと肩をすぼめるトミー。

「痛い……放してっ」

トミーの細い肩も、絞り出す声も、すべてが震えている。
彼女の両腕を握り締めている手の片方を放し、ノルヴェルトは自分の前髪をのけた。
眉を断ち切っている古傷。

「この傷を見ろ。これはマキューシオが……貴女の父親が私に刻んだものだ」

現実であったと認めたくない事実を口にし、心臓が軋む。
それでもーーノルヴェルトは必死だった。

「この傷だけじゃない!!その場に貴女もいた!!」

「や……!」

「殺されそうになったんだ、私は!貴女の父親に!!」

どうにも目を背けたかったのにーー心に血を流し、叫んだ。

だが、トミーは拒絶するように顔を伏せる。
解放された方の手で力いっぱい抵抗した。
そしてようやくノルヴェルトの手を振り切る。

トミーは掴まれていた腕に手を当て、彼から離れようと後退る。
すると背中にどんと木がぶつかる。

トミーは緊張した顔で肩越しに背後を見た。

「目を背けるな、私を見ろ!」

ノルヴェルトが命令する。
足を踏み出すノルヴェルトを一瞬だけ見て、トミーは足元に視線を下ろす。
木に背中を押し付けたまま身をすぼめた。

「来ないでっ!やだ……ダン」

トミーの口からあの青年の名前が零れた。
瞬間、びっくりしたように目を見張ったノルヴェルトは即座に彼女の口を手で塞ぐ。
トミーは手の下で何度も悲鳴を上げる。
固く閉じた彼女の目には涙が溢れていた。
そんな彼女を見つめ、ノルヴェルトは心底傷付いた顔をする。

「なぜ、違う名を呼ぶ……」
小さな声で呟いた。

自分の名ではない名を何度も呼んでいる彼女を呆然と見下ろす。
がっちりと口を塞いでいるノルヴェルトの手を掴んで、トミーの瞼が震える。
ノルヴェルトを見ようとしないまま、つぅと涙を流した。
その姿は『拒絶』の一言に尽きる。

そんな彼女の様子に、ノルヴェルトはゆっくりと首を左右に振る。

納得したような、諦めたような声で言った。

「……やはり……貴女が恐れていたのは、私だったんだ」

震えた声。
ノルヴェルトの顔は、まるで恐怖と悲しみに凍り付いたよう。

「あの時崖の上で……貴女だけは、私のことを呼んでいたと思っていた……」

微かな金属の音がちらつく。
鎧を纏ったノルヴェルトの体が、震えていた。

「二人には来るなと拒絶されたが、貴女だけはと……」

守りたいと願っていた、命を賭して恩を返そうと誓っていた人達に拒絶された、あの痛み。
それを少しでも緩和するために自分が見つけ出した、微かな救いの、自分を呼ぶ声。

ーーでも。 声を枯らして泣き叫んでいたあの声は……
やはり、そうだったのか。


「私を……貴女は、私を恐れて泣いていたのか」


衝撃が強過ぎて不気味な笑みのようなものが滲み出ているノルヴェルト。
口元からは、泣き声に似た震えた息遣いが漏れている。

ゆっくりと、トミーの口を塞いだ手を下ろす。
彼女の細い肩を掴んで木に押し付ける。
今度はすがるように言った。

「貴女達は……どれだけ私を傷付ければ気が済む?」

「痛…いっ……」

「どれだけ私を追い詰めれば……!!!」

「何のことを言ってるのか分からないよぉっ!」

悲痛な声で叫ぶトミーは完全に泣いていた。
ノルヴェルトは、震えて泣いている娘をしばし呆然と見下ろす。

やがて、彼は頼りない声で呟いた。

「なぜ私ばかり……こんな……傷付かなければならない? 苦しまなければならないんだ」

そこまで言うと、ノルヴェルトの表情が一気に悲しみに塗り替えられた。
今にも泣き出しそうな目。

「今のソレリの大切なものなんてどうでも良い!」

震える唇が言葉を零す。

「貴女までも奪われたら私は……」

じっとトミーを見つめる。
しかし、彼女は喉を引きつらせてただ泣いている。
声を漏らして泣いているトミーの横顔が、ノルヴェルトの中に残っていた少女の姿と重なった。

目の前のトミーとあの少女の記憶が重なるのは、どれも悲しみ、恐れる姿ばかりだった。



「…………もう……限界だ……もう……」

ノルヴェルトは眩暈を耐えるように目元を押さえ、うわ言のように呟く。
震える呼吸を飲み込み、ぐっと唇を噛む。

そして、苦しみ抜いた鋭い眼差しを上げた。

「ーーもう奪われるのはたくさんだ!!いつか奪われてしまうなら、壊れてしまうならいっそ」

言うが早いか、ノルヴェルトの手はトミーの細い首を掴んでいた。

「なぜ私をこんな目に合わせる!?マキューシオ!皆も!なぜ私だけが!!!」

柔らかな朝日を背にしたノルヴェルトは、悲愴な顔でトミーの首を掴んだ自分の両手を見下ろす。
首を掴まれたトミーは大きく目を見開く。
真っ直ぐにノルヴェルトを見上げた。
ようやく自分のことを見据えた瞳を覗き込む。
ノルヴェルトは、向こう側に見えるもういない人達の影を睨み付ける。

「貴方達に言いたいことはいくらでもある! なぜ私を残した!? なぜ死んだ!? どうして何も言わせてくれない!?」

湧き上がる感情に両手が震えた。

「ーー私は!!」

ふと、視界にぼやけた幕がかかる。
「わたしは……っ!!」


まるでその音が聞こえるかのように。
ノルヴェルトの目から、ぽろりと、涙が零れ落ちた。



「みんなに出会えて……幸せ……だったんだ……それなのに……」



トミーの見上げる先には、不安と悲しみに押し潰されそうになっている少年のような泣き顔。

ノルヴェルトはトミーの首からずるりと手を下ろす。
乱暴に扱った彼女を労わるように、震える指先が腕に触れた。

「違う。こんなこと……違うんだ……」

嗚咽の中で呟いて、はらはらと涙を零す。
彼女のほつれた髪を梳かす手振りをするが、ギリギリのところで触れない。

トミーは大人の男性がこんなにも涙を流すところを見たことがなく、呆然とした。

疑問一色のトミーの眼差しに頭を振り、ノルヴェルトは彼女の前から後退って膝を折る。
まるで絶望や悲しみ、その身に背負った《罪》に、引きずり降ろされるように。

「許してください……無力だった私を……」

痛みをそのまま声にしたような。

「許して…………マキューシオ……みんな……」

涙の懇願が、夜明けの光の中に零れ落ちた。



「……どうして?」

懺悔するノルヴェルトを呆然と見下ろしてトミーが呟く。
木に寄りかかったまま、ずるずるとその場に脱力して座り込む。
ぱさりと、髪の結わきを解く。
乱暴に掴まれた痛みが残る腕をじっと見下ろし、摩った。

「どうして……そんなに傷付いてるの?あなたをそんなに傷付けたのは誰……?」

問いを口にしながら、震える自分の身体を抱き締める。

「あなたは何を見てきたの? 私の何を知ってるの? あなたは誰なの?」

徐々に語気を荒らげ、膝をついて歩く。
跪いているノルヴェルトに近付き彼の肩を掴んだ。
呆然自失となっているエルヴァーンを苦しげに見つめる。

「どうしてーーあんなことを……!?」

揺らぐ瞳で叫ぶ。
ハニーブロンドの髪を振り乱して肩を揺すった。

「あんなことされたら、私……あなたの話を聞きたくても聞けない、です……」

言葉を紡ぎ、へたりとその場に座り込む。
堰を切ったように、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
震える両手で顔を覆った。

「どうしよう、パリスさんが……ぇぅ……パリスさんが……っ」

何度も仲間の名を口にし、声を上げて泣き始める。
蹲る彼女のハニーブロンドの髪。
震えながら、切実な願いを繰り返す。

「………帰して……お願いですから……帰してぇ……」


そんな彼女を見つめ、ノルヴェルトは何も言うことができなかった。
空回りを繰り返している自分の姿。
そして、先程の己の言葉と行動に自ら衝撃を受け、ただ愕然とする。

しかし、すぐ隣で繰り返される彼女の願いに、心がもがいた。

ノルヴェルトはゆっくりと、だがしっかりと、トミーの腕を握る。

溢れる涙を拭っていた腕を握られ、トミーは喉を引きつらせながら顔を上げる。
ノルヴェルトは、彼女の目を見つめることができずに、俯いていた。


「貴女だけは」



ノルヴェルトが辛うじて呟く。
もう、それ以上は何も言えなかった。



   *   *   *



何か言いた気な顔をしたローディの仲間達をアルドのもとに残し、天晶堂本店を出た。
見張りの者にじっと背中を見つめられながら暗い階段を上る。
出てくる際、ローディは部下達に向かって指示を出すことは無かった。
恐らく内輪の話は、今頃リンクシェルを通して展開されていることだろう。

真っ赤なクローク姿の端正な顔立ちをした青年は、薄暗い中そのブルーの目をキラキラさせてダンの状況説明を聞いていた。
無駄なことは言わず、ダンは事の経緯を淡々と説明する。
ローディ相手の場合、親切な補足を加える必要はない。
そして、まるで箇条書きしたようなその状況説明は宿泊施設から出た時に丁度ひと段落した。
天晶堂本店の建物から出ると、外はすっかり明るくなっていた。

「きひっ、あの男やるもんだにゃー。相当キてるな!」

立ち止まって両手を晴天に向かって突き上げ、なぜか高らかにローディは言った。
ローディに説明することによってこれまでのことをおさらいしたダンは、何かとてもとても思うことがあるような顔をしている。

すっかり日が昇り、町は動き出していた。
すでにたくさんの冒険者達が行き来している。
商人達も賑やかに商売を始め、そこらの道端には冒険者のバザーも出店し始めている。
日常と何ら変わりのない、トミーのいない非日常が極普通に始まっていた。

ダンが険しい表情でそんな眩しい通りを見渡していると、ローディがくるりと振り返る。

「――で、ダン」
いつもの下品でだらしのない笑みではなく、賢さを感じさせる凛々しい微笑。
「協力したら、俺にはどんなメリットがある?」
挑戦的な眼差しのローディに対し、心得ているというようにダンは即答した。
「お前の望みを叶えてやる」
「マジカル?」
「あぁ、マジだ」
「……決まりだのぅ」
途端に普段のだらしのない笑みをにひゃっと浮かべて笑った。

互いに条件をよく理解している。
交渉はこの上なくスムーズなものであった。

「ピンポンパン~ここで諸注意。何度も言っちょるけど、俺様達今、イベントの最中なのらー」
両手でハートマークを作って見せて、残念そうにそれをぱかっと割る。
「今のイベントはちょっとビッグで複雑でにょ。引継ぎ作業が必要なんだもし。だからすぐには一緒に行動できないにゃー、悪いけどにゃー」

そこまで言っていきなり『五分後!』と呟く。
恐らく、リンクシェルの方の会話を口に出したのだと思われる。

「俺様は俺様で動くぞぇ。最初の内だけ何人かの仲間を投下するさ~。こんな面白いこと俺様だけで独り占めしたいもんね!だから他の奴は混ぜたくにゃい!!」
興奮冷めやらぬ目でペロリと唇を舐める。
彼が片手でぱっと金髪を払うと、微かに煌めきが舞った。
「きっひっひ♪明日までには見つかると思え。まだそんなに時間も経ってないから、楽なもんね」
自信たっぷりにそんなことを言い放つ。
そしていきなりバッと胸元を広げ、ローディはクロークの中に片手を突っ込んだ。
ラブリーなピンクのリンクパールを取り出すとダンに差し出す。

「…………」

「きひ!ダン警戒!!俺様とダンだけのラブ☆パールだから安心だぞぃ♪」

じっと訝しむ眼差しをしたダンに機嫌の良い声でローディは言った。

仲間が何人いるのか未知数なローディのところの大混雑パールなんて受け取った日には、不眠症は勿論ノイローゼになるのは確実。間違いない。
しかしこれはローディとダンだけのものらしい。
それを聞いてダンは渋々そのパールを受け取った。
いつでも受け入れられるよう、常にダン専用に準備したパールを携帯していたところに引いている。

「どこまでやるかは俺様が決めさせてもらうにょ。面白ければどこまでもやるけどにゃー☆」

邪気しかない変態魔道士は無邪気に笑った。

「ん~じゃあ俺様ひとっ飛びして引継ぎ片付けてドジッ娘探しに出るから、期待してダーリン♪」

肩をすくめてぱちりとウィンクすると、転移魔法の詠唱に入るローディ。
無駄に美声のその詠唱を間近で見、彼に対する拭い切れない不安を抱えたダンはトーンの低い声で言う。
「どうでもいいが……できたらもう少し地味な格好しろ、お前」

“――ダ、ダンさん!”

突然、ロエの震えた声が響いた。

ダンは半眼になっていた表情を一気に凍り付かせる。

「な」

“ダンさんっ!!”

“どうしました?”

ローディはまるで歌うように、転移魔法の長い詠唱を終えた。
リンクシェルの方へ意識を馳せるダンに妖美な笑みを向け、光と共に消える。

呆然とローディを見送ったダンは冒険者居住区の方を鋭く振り返る。

“ロエさん!?”

“パールッシュドさんが!様子が……変で…っ”

“――パリスが?”

ダンの胸がひとつ、強く打つ。

“出て行ってしまったんです!パールサックを置いて!『さようなら』って!”


――何してんだあいつは!!?


舌打ちすると、すぐさま冒険者居住区に向かって駆け出した。
リンクシェルからはなおも動揺したロエの声が流れ込む。

“私、私なんだか怖くて後を追えなくて…止めることもできなくて…どうしましょうどうしたら……!”

鎧を身に着けているとは思えないほどの速さで駆け抜けながら、低い声を返す。
“落ち着いてロエさん。じゃあロエさんは今、まだトミーの部屋にいるんですね?”

“は、はい。リオさんも一緒です。どうしましょうダンさん、パールッシュドさん……”

完全に動揺し切っているロエは半泣きの声をしていた。
ダンには詳しい状況が分からないので、疑問符を浮かべるばかり。

しかし――
正直なところ、不安はあったのだ。
あのヘラヘラしている友人のエルヴァーンには。
できる限り考えたくはなかった。
考えそうになってしまう自分自身を何度も叱咤した。

なのに、そんな自分の努力を、あのボケエルヴァーンは……!!

冒険者達で賑わう通りを疾走し、居住区へ向かう階段を駆け上がる。
息が上がるがリンクシェルには落ち着いた声を賭した。

“分かりました。今戻りますから、そこから出ないで。すぐに――”

ロエに言いながら、通路に飛び出したところでダンは目を見張った。

遠く前方にある部屋のドアを開けて、見覚えのある長身のエルヴァーンが出てきたのが見えた。
驚いたダンは即座に駆ける足を止める。
通路の脇に何となく体を引いた。

そうだ。
あそこは、彼が使用しているレンタルハウスだ。

ノッポの友人はダンのことには気付いていない様子。
部屋を出ると、こちらに背を向けて歩き出した。
手に持っていた淡いグリーンの紙のようなものを懐にしまいながら歩く彼。
歩調は落ち着いており、こそこそと周りを気にする様子もない。
まるで、ちょっとそこまで買い物に行くような物腰。

「……パリス……ッ」

ダンは搾り出した声で呻く。
追いかけたがる足をぐっと踏み止まらせ、名を呼びたがる口を引き結び、強い視線で彼の背中を見つめた。



<To be continued>

あとがき

第十五話『想いの罪科』でした。
冒頭の平和な回想シーンは書いていて楽しかったです。
そして、ノルヴェルトの悲痛な悲鳴が……痛々しかったですね。
彼の歩いてきた道があまりにも暗闇で、現実とかけ離れているから。
伝えることも容易くない。

で、ダンは至極真面目なんですけど、変態が一緒だとふざけて見える。(-_-;)
思惑通り(?)、ついにダンは悪魔と契約しちゃいました。
この人はトミーの為なら手段選びません。
そして突然の脱退表明をしたパリスの件もどうにかしなきゃならないという。
本気で大忙しのダンテス……可哀相なので応援してやってください。