想いの罪科
2006/10/29公開
「おにちゃ~~~~!!!」
ノルヴェルトが帰宅を知らせる言葉を口にしながらドアを開くと、そんなけたたましい声が家の中から飛んできた。
何事かと顔を上げるノルヴェルトの前に、幼いヒュームの少女が泣き声を上げながら駆け出してくる。
泣きじゃくっている小さな少女はいつものぬいぐるみをぎゅっと胸に抱いており、ノルヴェルトの目の前まで来ると何もない床で躓いてべしゃりと転んだ。
「―――――ソッ!?」
仰天したノルヴェルトが荷物を放り出して屈むと、その頃になって家の奥からセトが出てきた。
「ノルヴェルトォ~待ってたっちゅ~の~」
げんなりとした顔のセトは両手で耳を押さえ、ダラダラとした足取りで寄ってくる。
そういう彼女の声は転んだまま泣き喚いている少女の声に掻き消されそうであった。
仰向けに転がって足をばた付かせながら叫ぶ少女は何を喚いているのか分からない。
訳の分からない状況に困惑しつつもノルヴェルトが泣いている少女、ソレリに手を伸ばす。
「おにぢゃ~セトがいじえ~のぉぉ~!!」
「うん、うん?」
「違うようちは何もしてないっちゅーねん!」
「やぁーーセトきらぁ!!!」
バタバタと暴れながら泣いて怒っているソレリは、セトに対してきゃんきゃん吠えまくる。
見兼ねたノルヴェルトは事情を把握できていないものの、とりあえずソレリを抱き上げた。
『なんで嫌いとか言われなきゃいかんのじゃい!』と頭をかき回しているセトの様子から、ノルヴェルトが帰ってくるまでの間こんな状態のソレリにずっと手を焼いていたのが想像できる。
「ほらソレリ、大丈夫だよ。………どうしてこんな?」
首にしがみ付いて泣いているソレリを見下ろしながらセトに尋ねた。
すると、セトに言わせまいとするかのようにがばりとソレリが体を離して言った。
「こえ!」
そう言って少女が示したのは、抱き締めているぬいぐるみ。
近過ぎてよく見えないノルヴェルトは一旦ソレリを下ろすことにした。
床に下ろしてもらうと、ソレリはすぐにノルヴェルトに対しぬいぐるみを高く掲げて訴えた。
「トミーいたいのぉ~!」
少女が差し出しているのはスティユお手製のうさぎのぬいぐるみである。
トミーという名前をつけて毎日ソレリが仲良く遊んでいる、少女の親友だ。
しかしそのうさぎのぬいぐるみ、よく見ると耳が片方むしれて今にも付け根から千切れそうになっている。
「ソレリが遊んでる時どっかに引っ掛けたみたいでさぁ」
ぬいぐるみを覗き込んでいるノルヴェルトにセトが簡単に説明した。
「いたいのぉ~たすけておにちゃ~?ねぇ?」
「スティユ今、マキューシオとちょっと遠くまで買い物行っちゃったんよー。だからってうち裁縫とかマジ無理だしさぁ、変にしたら余計ヤバイじゃん?でもできないって言ったらさっきの有様なんよーノルヴェルトォー」
口を尖らせたセトが困り果てたような声で言った。
その経緯説明を聞いてやっと事情が分かったノルヴェルトは、納得すると同時にさっと顔色を悪くする。
「おにちゃーたすけてー。トミーいたいいたいよぉー?」
真っ直ぐな眼差しで訴えてくるソレリをじっと見下ろして固まってから、ちらりとセトを上目遣いに見る。
その様子を見て全てを察したセトは、『期待はしてなかった』と小声で零してから盛大に溜め息をついた。
すがるような目でじっと見上げてくるソレリの眼差しを痛く感じつつ、ノルヴェルトは言葉を濁しながらゆっくりと片膝をついてソレリと目線を合わせた。
「あい」
少女が鼻をすすりながらノルヴェルトにぬいぐるみのトミーを差し出す。
ノルヴェルトは苦虫を噛み潰したような顔で視線を泳がせると、慎重に言葉を紡いだ。
「あの………ソレリ、スティユが、ママがもうすぐ帰ってくるから…」
言っている途中で早くも少女の表情が見る見る変わり、ノルヴェルトは絶望して言葉を続けられなくなった。
少女の向こう側で、セトがすかさず両手で耳を押さえるのが見える。
ソレリは顔を歪ませて爆発的泣き声を上げると、嫌いだと叫んでノルヴェルトの足をべしりと叩いた。
どうしたらいいのかさっぱり分からないノルヴェルトはおろおろと少女を見下ろすことしかできず。
その場にしゃがみ込んでわんわん泣いているソレリは『ママ』と繰り返し叫び始めた。
「むぁーーーーーーもうーーーー!!!」
もう耐えられないと言わんばかりの声を上げてセトは家の奥へと走っていく。
匙を投げたセトに驚きの目を向けつつも、放っておくわけにもいかない少女を愕然と見下ろすノルヴェルト。
しょうがないので抱き上げてあやそうかと思ったが、手を差し出したら小さな手でべちっと弾かれた。
そこまでいくと段々とノルヴェルトも困惑の中に苛立ちが出てきて、『どうして遠くに出掛けたりしちゃうんだ』と内心夫婦に文句を垂れ始める。
ノルヴェルトだってまだまだ若い、幼い子供の面倒の看方など分かるものか。
日頃ソレリ相手に子ども言葉で会話をすること自体、年頃のノルヴェルトには恥ずかしくて堪らないのだから。
困り果てて青年が頭を抱えていると、家の奥からどたどたとセトが駆け戻ってきた。
「ソレリ!まずはトミーの手当てしなきゃ駄目なんじゃん!?」
そう言うセトの手には、スティユが合成に使っている白くて長い布の素材。
もう片方の手には適当な箱にクッションを押し込んだものを引きずっている。
「ノルヴェルト応急処置をするんよホラッ!」
いきなり布地をぼんと投げ付けられ、ノルヴェルトは目を瞬かせた。
セトが何かを訴えるような顔で何度も深く頷いている。
言葉の通り応急処置をしろということなのだろう、と判断したノルヴェルトは泣き声を止めて鼻をすすっているソレリの様子を窺うと、恐る恐る手を伸ばした。
「ソレリ、トミーを貸して?」
ゆっくりと言うと、ソレリは抱き締めていたぬいぐるみを興味深そうに差し出した。
ぬいぐるみを受け取ると、よく分からないが耳のところを布でぐるぐる巻いてみた。
昔誰かが怪我をした時にマキューシオから教えてもらった巻き方を思い出しながら……。
と思ったが、こんな耳を持っている者などいないのでやっぱり適当になった。
それなりの形に巻き終えると、そうこうしている間に整えたクッション入りの箱をセトが近くのソファーの上に置く。
「はいベッド!ソレリ寝かせてやんなよ」
そう言ってノルヴェルトからぬいぐるみをもぎ取り、きょとんとしているソレリにそれを渡した。
ソレリは大事そうに抱き締めて、千切れそうになった耳の部分を布で巻かれたぬいぐるみを何度も撫でる。
「いたいねぇ~………」
ぬいぐるみを労わっている優しい少女に目を細めたノルヴェルトは、即席で作られたベッドをちらりと見ると何かに気付いたように立ち上がった。
そのまま何も言わずに奥へと歩いていくノルヴェルトをセトが疑問符を浮かべて見送る。
ソレリはソファーの上によじ登って座り、ぬいぐるみをそっと即席ベッドに寝かせた。
そこですぐに戻ってきたノルヴェルトが大きめのハンカチを広げてぬいぐるみの上にかける。
即席の掛け布団である。
箱の横にぺたりと座り込んだソレリは、その小さな手でぎこちなくぬいぐるみを何度も撫でた。
疲れを顔に出したセトが脱力気味にソファーに腰を下ろすと、ソファーが大きく揺れ動いてソレリがキッとセトを睨む。
『ごめんごめん』と平謝りするセトに苦笑しながら、ノルヴェルトは腰掛けずにソファーの脇に屈んだ。
そして、ぬいぐるみを寝かせた即席ベッドと、ソファーの上に正座しているソレリをちらちらと見比べる。
「………ソレリ、ほら、トミーが眠れるよう…に歌とか…ぐっすり…」
「何恥ずかしがってんの?言うならはっきり言えっちゅーねん」
「う、うるさいなっ!」
恥ずかしくてもごもごと言うノルヴェルトに意地悪くセトが言うと、ノルヴェルトは一気に顔を真っ赤にした。
確かに、そういうことは恥ずかしがりながら言う方が余計恥ずかしいのだ。
「う~さな~」
すると眉を寄せたソレリが二人をうるさいと叱る。
しまったと肩を窄めるノルヴェルトとにんまりと笑うセト。
最近ノルヴェルトの『うるさいな』という言葉をソレリが覚えてしまって、ノルヴェルトは何とかしなければと思っていたのだが……。
それから、ソレリとセトが二人で歌を歌った。
スティユがよくソレリに歌ってあげる歌を。
しばらくして、日が傾き始めた頃にヒュームの夫妻が帰宅した。
箱で作られたベッドに寝かされたぬいぐるみを囲んで眠っている三人を見て、夫妻は互いに声を潜めると、しばしその光景を眺めて優しく微笑んでいた。
―――――――焚き火がぱちりと鳴った。
それを切欠に、蘇った思い出に包まれていたノルヴェルトははっと目を瞬かせる。
一体どのくらいの時間、眠っている娘を見つめてぼんやりとしていたのだろう。
ノルヴェルトは野宿する際いつも焚き火など焚かない。
明かりや暖かさは必要ないと思っていたから。
だが今宵はいつもとは違う、自分だけではない。
自分でも信じられないが、今はそう、一人ではないのだ。
小さな焚き火のオレンジ色の光に照らされて眠っているのは、ずっと捜し続けてきた人。
冷えてはいけないと思ったので、眠っている彼女の上にはノルヴェルトの外套がかけてある。
感情が映っていない寝顔は安らかな寝顔には見えなかったが、それでもノルヴェルトには充分だった。
草の上に腰を下ろし、眠りも忘れてただ飽きもせず、ずっと彼女の寝顔を見つめている。
ここロランベリー耕地の空は満天の星空とまではいかなかったが晴れていて、徐々に月が沈み、日が昇ってくる過程が色のグラデーションではっきりと見られた。
彼女はただ眠っているだけだ。何も会話はしていない。ただ見つめているだけであるのに。
ノルヴェルトが必死に求めていたものを、彼女は早速与えてくれた。
何処にしまい込んでしまったのか分からなくなっていたたくさんの思い出達が、ゆっくりと身動ぎし、色を取り戻し。
自分が今何処にいて、どういう姿勢で座っているのかすら忘れさせられる。
彼女が傍にいるというそのことだけで与えられたものの甘美さは相当なもので、ノルヴェルトは期待せずにはいられなかった。
これからは全てが、もっともっと変わっていくだろう。
失ったものが次々と戻ってくる、課せられたものがぼろぼろと身から剥がれ落ちる。
やっと手に入れた、やっと取り返した。
そしてやっと、解放される。
今宵のノルヴェルトは今までのように外套に身を包んで鎌を抱いてはいない。
傍には明かり、そしてもう一人分の呼吸がある。
閉じられた彼女の目が開かれた時、今度はどんなものが与えられるのだろう。
先程彼女はきっと気が動転していたのだ、あの場の雰囲気が彼女にああいう行動を取らせた。
この後彼女が目を覚まし、落ち着いて自分を見ることができたなら。
話せば分かってくれるはずだ、自分が言うことは全て真実なのだから。
自分がとんでもない期待を抱いてしまっていることを自覚しているノルヴェルトは、その期待の危うさを頭では理解していた。
そんなに上手くいくわけがない。
しかしもう、到底無理だ。期待をせずにいられるものか。
みんなは確かにいた、私は一人ではなかった。
お願いだ、どうか、みんなに報いて、私を、自由に。
まるで神に、ずっと軽蔑してきた女神に祈るかのように両手を組んで焚き火の炎を見ていると、その揺らめきの向こう側で横たわっていたヒュームの娘の体がゆっくりと起き上がった。
トミーが目を覚ました。
はっと顔を上げたノルヴェルトは思わず草原から腰を上げる。
トミーは何かを必死に考えているような顔をして、数秒間呆然とノルヴェルトを見上げて硬直していた。
身を起こしたことにより、彼女の肩から徐々にノルヴェルトの外套が滑り落ちる。
思考を廻らせている顔でじっとノルヴェルトを見つめ、目だけを動かして周りを見、またノルヴェルトに視線を戻すと彼女の眉が少しずつ中央に寄っていく。
そして外套がぱさりと腰の辺りまで完全に落ちた頃になって、トミーは膝を立てて立ち上がった。
結わいた髪が大分ほつれてしまっている彼女が歩み寄ってくるのをノルヴェルトはただ見つめて――――
乾いた音が夜明けの空の下に弾けた。
「………よくも……ッッ!」
ノルヴェルトの頬を引っ叩いたトミーは真っ直ぐに彼を睨みつけて声を絞り出した。
彼女の平手を避けもせずに受けたノルヴェルトは、牙を剥く現実に対し『やはりな』と妙に冷たく納得する。
しかし途端に、勢いよく感情の波が体の奥底から押し寄せ、それはすぐに、最も簡単な感情へと染まった。
ほぼ死滅してしまった心の奥底を這う憎悪がゆっくりと身をもたげる。
「何をしたって言うの!?絶対許さない!!!」
続いて殴ろうとするトミーの腕を感情に震えた手で掴むと、ノルヴェルトは加減もせずに力を込めた。
防具の上からとはいえ、とてつもない力で掴まれトミーはうっと苦痛の表情を浮かべる。
「……………何をしたかだって……?」
「奴らは奪っただろう?全て」
「く…っ」
抵抗しようとするトミーに構わず掴んだ腕を持ち上げ、ノルヴェルトはトミーを冷たい目で見下ろした。
彼女に対して今まで一度も向けたことのない、最高に冷え切った眼差しで。
エルヴァーンの彼に片腕を掴み上げられたトミーは、踵が浮いた状態になりつつもキッとノルヴェルトを睨み付けた。
「何を言ってるの!?私には全然分からないよ!」
「あんなに愛されていたのに……覚えていないだなんて………。私がどんな思いでソレリを探していたと」
「知、らないっ」
「だから伝えるために!!!」
頭を振って拒絶するトミーにノルヴェルトは吠えた。
びくりと身を窄めて呆気に取られたようにノルヴェルトを見上げるトミーは、そこでやっと怯えを垣間見せた。
怒りに満ちたノルヴェルトの目からしばし視線を逸らせなくなる。
「孤独に生き延びて…私は………ずっと一人で私は!!」
持ち上げた腕を下ろし、トミーのもう片方の腕も引っ掴んでノルヴェルトは詰め寄った。
トミーは愕然とした目を向け、信じられないというような口調で言う。
「それで私の大切な人達を奪って私も独りぼっちにしようとしてるの」
トミーには珍しく相手を軽蔑したような、攻撃的な驚きのこもった言葉。
怒りを露にしている相手に対して当然恐怖はある。
お人好しで人を傷付けることが怖いので大抵のことは我慢してしまうトミーだが、仲間のことを傷付けたノルヴェルトに対しては容赦の無い言葉が口を突いて出た。
あくまでも拒絶を表す声と眼差しでそう言うトミーを見下ろし、ノルヴェルトの表情は一層険しくなる。
「私はソレリの為に生きてきた!馬鹿げた女神に与えられたこの汚らわしい命で!ソレリに伝えるために!!それなのに貴女は私を覚えていない…マキューシオやスティユのことさえも!」
「私はソレリなんて名前じゃないよ勝手なこと言うなぁ!」
俯き髪を振り乱して叫ぶトミーの姿が、ノルヴェルトには駄々をこねる少女のように見えた。
昔思った時とは別の意味も加えて、何故あの夫妻はいないのかと誰にでもなく心で問う。
「何故…覚えていない!?セトは貴女を守って死んだ!」
「誰、だか分からない…っ」
「セトだ!!マキューシオを取り合って喧嘩もしてたじゃないか!!」
「知らないよぉ!」
腕を掴むノルヴェルトの手を必死に振り払おうとするが、微動だにしない。
俯き加減になり髪を顔の前に垂らしたまま、ノルヴェルトは『セトは貴女を守って……セトは……っ』と苦しげに繰り返す。
抵抗してもびくともしない力の差に息をつきながらも、分からない、覚えてないと憔悴した声でトミーが言う。
ノルヴェルトは掠れたその言葉を聞き、がばりと顔を上げて『何故だ!』と問いを叫んだ。
「痛い、放してっ」
そう震えた声で訴えるトミーの両腕を握り締めている手の片方を放し、ノルヴェルトは顔の前に下がっている自分の髪をのけた。
そうして眉を断ち切っている古傷をトミーに見せる。
「この傷を見ろ。これはマキューシオが、貴女の父親が私に刻んだものだ!この傷だけじゃない!!その時貴女もいたんだ!!!」
「や…!」
「殺されそうになったんだ私は、貴女の父親に!!!!」
ノルヴェルトが必死に訴えかけるもトミーは目をそむけ、解放された方の手で自分の腕を掴んでいる手を掴むと力いっぱい抵抗した。
そしてようやくノルヴェルトの手を振り切ったトミーは、掴まれていた腕に手を当てて彼から離れようと後退る。
すると背中にどんと木がぶつかり、トミーは緊張した顔で肩越しに背後を見た。
そんな彼女に『目を背けるな私を見ろ!』とノルヴェルトが命令する。
顔をしかめて歩み寄ってくるノルヴェルトを一瞬だけ見て、トミーは足元に視線を下ろし木に背中を押し付けたまま身をすぼめた。
「来ないでっ、やだ……ダン」
トミーの口からあの青年の名前が零れた瞬間、びっくりしたように目を見張ったノルヴェルトは即座に彼女の口を手で塞いだ。
手の下で何度も悲鳴を上げているトミーをじっと見下ろすと、トミーの目に涙がにじんでいることに気が付く。
ノルヴェルトは心底傷付いた表情をして、『何故違う名を呼ぶ……』と小さな声で呟いた。
自分の名ではない名を何度も呼んでいる彼女を呆然と見下ろす。
がっちりと口を塞いでいるノルヴェルトの手を掴んで、トミーは固く目を閉じた。
ノルヴェルトを見ようとせずにつぅと涙を流す様は『拒絶』の一言に尽きる。
その頑なな彼女の姿を見てノルヴェルトはゆっくりと首を左右に振り、納得したような、諦めたような声で言った。
「……………やはり……貴女が恐れていたのは私だったんだ」
感情的になった震えた声で言うノルヴェルトの顔は、まるで恐怖と悲しみに凍り付いた様。
「あの時崖の上で………貴女だけは私のことを呼んでいたと思っていた…。二人には来るなと拒絶されたが、貴女だけはと…」
守りたいと願っていた、命を賭して恩を返そうと誓っていた人達に拒絶されたあの痛み。
それを少しでも緩和するために自分が見つけ出した微かな救いの、自分を呼ぶあの声。
声を枯らして泣き叫んでいたあの声は、やはり、そうだったのか。
「私を………貴女は私を恐れて泣いていたのか」
衝撃が強過ぎて不気味な笑みのようなものが滲み出ているノルヴェルトの口からは、泣き声に似た震えた息遣いが漏れている。
口を塞いだ手を下ろし、トミーの細い肩を掴んで木に押し付けると、今度はすがるように言った。
「貴女達は……どれだけ私を傷付ければ気が済む?」
「痛…いっ……」
「どれだけ私を追い詰めれば……!!!」
「何のことを言ってるのか分からないよっ!」
悲痛な声で叫ぶトミーは完全に泣いていた。
小さく震えて泣いている娘を呆然と見下ろしてノルヴェルトは頼りない声で呟く。
「何故私ばかり………こんな……傷付かなければならない?苦しまなければならないんだ」
そこまで言うとノルヴェルトの表情が一気に悲しみに塗り替えられ、今にも泣き出しそうな目になった。
「今のソレリの大切なものなんてどうでも良い!」
『貴女までも奪われたら私は……』と必死の形相でトミーを見つめるが、トミーは喉を引きつらせてただ泣いている。
声を漏らして泣いているトミーの横顔が、ノルヴェルトの中に辛うじて残っていた少女の姿と重なった。
目の前のトミーとあの少女の記憶が重なるのは、どれも悲しみ、恐れる姿ばかりだった。
「…………もう……限界だ……もう…」
「もう奪われるのはたくさんだ!!いつか奪われてしまうなら、壊れてしまうならいっそ」
言うが早いか、ノルヴェルトの手はトミーの細い首を掴んでいた。
「何故私をこんな目に合わせる!?マキューシオ!皆も!何故私だけが!!!」
柔らかな朝日を背にしたノルヴェルトは、悲愴な顔でトミーの首を掴んだ自分の両手を見下ろす。
首を掴まれたトミーは大きく目を見開いて真っ直ぐにノルヴェルトを見上げた。
ようやく自分のことを見据えた瞳を覗き込んで、その向こう側に見えるもういない人達の影をノルヴェルトは睨み付ける。
「貴方達に言いたいことはいくらでもある!何故私を残した!?何故死んだ!?どうして何も言わせてくれない!?」
「私は!!!」
「わたしは…っ!!」
まるでその音が聞こえるかの様に、ノルヴェルトの目からぽろりと涙が零れ落ちた。
「みんなに出会えて……………とても…幸せ…だったんだ……………それなのに…」
トミーの見上げる先には、不安と悲しみに押し潰されそうになっている少年のような泣き顔。
ノルヴェルトはずるりとトミーの首から手を下ろすと、乱暴に扱った彼女を労わるように腕に触れた。
『違う、こんなこと、違うんだ』と嗚咽の中で呟いてはらはらと涙を零しながら、彼女のほつれた髪を梳かす手振りをするがギリギリのところで触れない。
トミーは大人の男性がこんなにも涙を流すところを見たことがなかったので呆然とした。
疑問一色のトミーの眼差しに頭を振り、ノルヴェルトは彼女の前から後退って膝を折る。
「許してください………無力だった私を…………」
「許して……………マキューシオ……みんな……」
「どうして……?」
―――――と、身を屈めて懺悔しているノルヴェルトを呆然と見下ろしてトミー。
木に寄りかかったままずるずるとその場に脱力して座り込み、髪の結わきを解くと乱暴に掴まれたせいで痛みが残っている腕をじっと見下ろして摩る。
「どうしてそんなに傷付いてるの?あなたをそんなに傷付けたのは誰…?あなたは何を見てきたの?私の何を知ってるの?あなたは誰なの?」
徐々に語気を荒らげ、トミーは膝をついて歩きノルヴェルトに近付くと彼の肩を掴む。
そして悲しみに暮れて呆然としているノルヴェルトをじっと睨み付けた。
「どうしてあんなことを……!?」
ハニーブロンドの髪を振り乱してノルヴェルトの肩を揺する。
「あんなことされたら…私…………あなたの話を聞きたくても聞けない…です…」
苦しげに言葉を紡いでへたりとその場に座り込み、トミーはぽろぽろと涙を零す顔を両手で覆った。
「どうしよう…パリスさんが……ぇぅ………パリスさんが…」
「………帰して……お願いですから……帰してぇ…」
何度も仲間の名を口にし声を上げて泣き始めたトミーを呆然と見つめて、ノルヴェルトは何も言えなかった。
完全に空回りを繰り返している自分の姿と、先程の己の言葉と行動に自ら衝撃を受け、ただ愕然とする。
しかしすぐ隣で繰り返される彼女の願いにどうしようもない気持ちになり、ノルヴェルトはゆっくりと、だがしっかりと、トミーの腕を握った。
溢れる涙を拭っていた腕を握られたトミーは喉を引きつらせながら顔を上げる。
トミーの腕をひしと掴んだノルヴェルトは、彼女の顔を見つめることができずに俯いていた。
「貴女だけは」
ノルヴェルトは辛うじてそう言っただけで、それ以上は何も言えなかった。
* * *
何か言いた気な顔をしたローディの仲間達をアルドの元に残し天晶堂本店を出て、ダンとローディは見張りの者にじっと背中を見つめられながら暗い階段を上った。
あの後特に部下達に指示を出すことも無く出てきたローディだが、恐らく内輪の話は今頃リンクシェルを通して展開されていることだろう。
いつものことであるが、それでもローディはリンクシェルの会話に気を取られているような様子は無い。
真っ赤なクローク姿の端正な顔立ちをした青年は、薄暗い中そのブルーの目をキラキラさせてダンの状況説明を聞いていた。
無駄なことは言わず、自分の憶測も加えずにダンは事の経緯を淡々と説明する。
ローディ相手の場合、親切な補足を加える必要はないと判断した結果だ。
そして、まるで箇条書きしたようなその状況説明は宿泊施設から出た時に丁度ひと段落し、天晶堂の本店が地下にあるその建物から出ると外はすっかり明るくなっていた。
「きひっ、あの男やるもんだにゃー。相当キてるな!」
立ち止まって両手を晴天に向かって突き上げ、何故か高らかにローディは言った。
ローディに説明することによってこれまでのことをおさらいしたダンは、何かとてもとても思うことがあるような顔をしている。
すっかり日が昇り一日が動き出している町には、すでにたくさんの冒険者達が行き来していた。
商人達も賑やかに商売を始め、そこらの道端には冒険者のバザーも出店し始めている。
日常と何ら変わりのない、トミーのいない非日常が極普通に始まっていた。
ダンが険しい表情でそんな眩しい通りを見渡していると、ローディがくるりと振り返る。
「で、ダン」
いつもの下品でだらしのない笑みではなく、賢さを感じさせる凛々しい微笑。
「協力したら俺にはどんなメリットがある?」
挑戦的な眼差しのローディに対し、心得ているというようにダンは即答した。
「お前の望みを叶えてやる」
「マジカル?」
「あぁ、マジだ」
「………………決まりだのぅ」
途端に普段のだらしのない笑みをにひゃっと浮かべてローディは笑った。
互いに条件をよく理解している、交渉はこの上なくスムーズなものであった。
「ピンポンパン~ここで諸注意。何度も言っちょるけど俺様達今イベントの最中なのらー。今のイベントはちょっとビッグで複雑でにょ、引継ぎ作業が必要なんだもし。だからすぐには一緒に行動できないにゃー悪いけどにゃー」
そこまで言っていきなり『5分後!』と呟く。
恐らくリンクシェルの方の会話を口に出したのだと思われるが。
「俺様は俺様で動くぞぇ。最初の内だけ何人かの仲間を投下するさ~。こんな面白いこと俺様だけで独り占めしたいもんね!だから他の奴は混ぜたくにゃい!!きっひっひ♪明日までには見つかると思え、まだそんなに時間も経ってないから楽なもんね」
そう言いつつローディはいきなりばっと胸元を広げ、クロークの中に片手を突っ込んだ。
そしてラブリーなピンクのリンクパールを取り出すとダンに差し出す。
「…………」
「きひ!ダン警戒!!俺様とダンだけのラブ☆パールだから安心だぞぃ♪」
じっと訝しむ眼差しをしたダンに機嫌の良い声でローディは言った。
仲間が何人いるのか未知数なローディのところの大混雑パールなんて受け取った日には、不眠症は勿論ノイローゼになるのは確実。間違いない。
しかしこれはローディとダンだけのものらしい、それを聞いてダンは渋々そのパールを受け取った。
いつでも受け入れられるよう、常にダン専用に準備したパールを携帯していたところに引いている。
「どこまでやるかは俺様が決めさせてもらうにょ、面白ければどこまでもやるけどにゃー☆ん~じゃあ俺様ひとっ飛びして引継ぎ片付けてドジッ娘探しに出るから、期待してダーリン♪」
肩をすくめてぱちりとウィンクすると、転移魔法の詠唱に入るローディ。
無駄に美声のその詠唱を間近で見、彼に対する拭い切れない不安を抱えたダンはトーンの低い声で言う。
「どうでもいいが…できたらもう少し地味な格好しろお前」
“―――――ダ、ダンさん!”
突然、ロエの震えた声が響いてダンは半眼になっていた表情を一気に凍り付かせる。
「な」
“ダンさん!!”
“どうしました?”
ローディはまるで歌のような転移魔法の長い詠唱を終え、リンクシェルの方へ集中するダンに妖美な笑みを向けて光と共に消えた。
呆然とローディを見送ったダンは冒険者居住区の方を勢い良く振り返る。
“…ロエさん!?”
“パールッシュドさんが!様子が……変で…っ”
“パリスが?”
“出て行ってしまったんです!パールサックを置いて!『さようなら』って!”
―――――何してんだあいつは!!?
ダンは舌打ちするとすぐさま冒険者居住区に向かって駆け出した。
“私、私なんだか怖くて後を追えなくて…止めることもできなくて…どうしましょうどうしたら……!”
“落ち着いてロエさん、じゃあロエさんは今まだトミーの部屋にいるんですね?!”
“は、はいリオさんも一緒です。どうしましょうダンさん、パールッシュドさん…”
完全に動揺し切っているロエは半泣きの声をしていた。
ダンにはパリスが出て行った時の状況が全く分からないので疑問符を浮かべるばかりである。
しかし正直なところ、不安はあったのだ。
あのヘラヘラしている友人のエルヴァーンには。
できる限り考えたくはなかった、考えそうになってしまう自分自身を何度も叱咤した。
なのに、そんな自分の努力をあのボケエルヴァーンは……!!
賑わう通りを行き交う冒険者達を避けながら疾走し、居住区へ向かう階段を駆け上がる。
“分かりました。今戻りますからそこから出ないで!すぐに――――”
慌てっぷりがひしひしと伝わってくるロエに言いながら階段を駆け上がったダンは、通路に飛び出したところではっと目を見張った。
遠く前方にある部屋のドアを開けて、見覚えのある長身のエルヴァーンが出てきたのが見えた。
驚いたダンは慌てて駆ける足を止めると、通路の脇に何となく体を引いて彼を見つめる。
そうだ、あそこは彼が使用しているレンタルハウスだ。
ノッポの友人はダンのことには気付いていない様子で、部屋を出るとダンに背を向けて歩き出した。
手に持っていた淡いグリーンの紙のようなものを懐にしまいながら歩く彼の歩調は落ち着いており、こそこそと周りを気にする様子もなく、まるでちょっとそこまで買い物に行くような物腰である。
「………パリス…ッ」
搾り出した声で呻くと、追いかけたがる足をぐっと踏み止まらせ、名を呼びたがる口を引き結び、強い視線で彼の背中を見つめた。
あとがき
十数年振りの兄妹喧嘩勃発。(笑)いやはや、冒頭の平和な回想シーンは書いていて楽しかったです。
何だか笑っちゃう程トミーとノルヴェルトの再会は散々ですね。
ノルヴェルトは一生懸命過ぎて見事な空回りっぷりですし。
で、ダンは至極真面目なんですけど変態が一緒だとふざけて見えるな。(´□`;)
思惑通り(?)、ついにダンは悪魔と契約しちゃいました。
この人はトミーの為なら手段選びません。
そして突然の脱退表明をしたパリスの件もどうにかしなきゃならないという…。
本気で大忙しのダンテス氏……可哀相なので応援してやってください。