雨中の守護者達

第三章 第十話
2006/05/07公開



「う…っ……うぇ…ひっ…」

「トミーさん…」

「もぉぉ何なのよ!? 何があってこんなことになってんのよ!?」

ようやく錯乱状態が収まり、トミーがダンを解放したのは数分前のことだった。
だがトミーは床に座り込んだまま、すんすんと泣き続けている。

その傍らではロエが、心配そうに背をさすりながらハンカチを差し出していた。
しかしトミーは目元を押さえたまま、顔を上げようとしない。

反対側に立つリオは、状況が掴めない苛立ちを隠さず、ミスラ特有の尻尾でトミーの肩をぱしぱしと叩いた。
それでも反応はない。苛立ちは募る一方だ。

そしてもう一人――
解放されるや否や装備を整え、部屋を歩き回る男もまた、同じように焦れていた。

“……何してんだパリス、遅ぇぞ!!”

痺れを切らし、ダンはリンクシェル越しに怒鳴る。
ロエとリオはすぐに駆けつけたが、最後の一人――あのノッポのエルヴァーンだけが来ない。
召集をかけてから、すでに三十分が過ぎていた。

“んや~ごめん、うっかりジュノから出ちゃったもんだから。すぐ行きます、今行きます!”

引きつった声で必死に返すパリス。
昨日あれだけの目に遭ったというのに、なぜ外に出ているのか。

――部屋で安静にしていろと言ったはずだ。

歯噛みしながら、ダンは振り返る。

部屋の隅。
泣き続けるトミーと、その傍らで困惑を浮かべるロエ。

数十分前にトミーから聞いた話が脳裏をよぎる。
だが今は、それに向き合っている余裕はない。

「これは何なのよ!? 説明しなさいよね!」

トミーを指して叫ぶリオ。
道着を着ているもののナックルは所持してこなかったようだ。
ぐーすか寝ていたところを叩き起こされたので機嫌は最高に悪い。

ダンはそれを聞き流し、トミーの前へ歩み寄った。

小さく身を縮め、震える背中。
それを見た瞬間、湧き上がる感情に胸が苦しくなる。

――説明しなければならない。

駆けつけた二人には、まだ何も話していない。
昨日パリスに対して自分が苛立ったように、二人も状況を説明されないもどかしさにやきもきしているだろう。

それは分かる。

分かるのだがーー難しい。

『昨日パリスを襲った男が現れた』と言うか?
そんなこと言ってみろ、この泣いている娘がどうなるか。

二人を別室に呼ぶか。
だがトミーを一人にするのは危険だ。

かといって、何も知らぬまま任せるのもまた危うい。

ダンはトミーを見下ろし、込み上げる焦燥を押し殺して息を吐いた。

そして――

状況説明を求める二つの視線を背に受けながら、
彼はトミーを見つめたまま、低く言った。

「…………バタリアで殺しを見た」

トミーの肩が、びくりと震えた。

より鮮明に殺しの光景が頭の中に再生されただろう。
しかしもう、この際しょうがない。

「は?」――「えっ」

リオとロエが同時に目を見開く。
ロエはハンカチを胸元で握りしめ、不安げに視線を揺らした。
リオがぎこちなく口を動かす。

「……ねぇ、それってもしかして、昨日のと関係――」

「パリスを待ってる時間はない」

言葉を遮るように、ダンは立ち上がる。

「二人はここで、こいつを」

短く言い切る。

散々慎重にせねばと考えていたのに、結局最悪の形でトミーに知らせる羽目になってしまった。
泣き続けていたトミーの呼吸が、目に見えて乱れた。

恐らく考えている。
『昨日の』とは何なのかーーと。

リオはトミーほど馬鹿ではない。
やはり昨日デルクフで起きた出来事に関して疑問が残っていたようだ。

こうなればもう、全部話すしかない。

だが、それは今じゃない。

これ以上余計なことを言わせないように、ダンは視線でリオを制し、そのままロエを見る。

「パリスが来たら、ここで待機させてください」

有無を言わせぬ声音。
ロエが何か言おうと口を開きかけた、その瞬間。

「ーーい…やだ!」

トミーが顔を上げた。

「やだぁ!!」

ダンはもう一度あの場所に行く気だ。

がばりと立ち上がり、ダンにしがみつく。

「お、おい――」

「行っちゃダメ!」

腕に絡みつく細い指。

「落ち着け」

「いやだよ行かないで!! 怖い、やだぁ!!!」

言葉は届かない。
トミーは必死に腕に縋りついたまま、その場に崩れ落ちる。
引きずられるように、ダンの体勢も崩れた。
片膝をつく。
そのまま、呆然と見下ろした。

異様な取り乱し方に、ロエもリオも動けない。


ダンは小さく息を吐き、視線を上げる。

「……ロエさん」

「は、はいっ」

呼ばれた瞬間、ロエは理解した。
一瞬だけ迷い――それでも、詠唱を始める。

対象を眠らせる魔法、スリプル。

トミーの力が、少しずつ抜けていく。

「いやだ……いか、ないで……」

声がほどけ、やがて静かに落ちた。
泣き疲れた子どものように、眠りに沈む。

ダンはその体を受け止め、神妙な顔をする。
片手の篭手を外し、彼女の涙をそっと指で拭いた。

「……ったく、殺されやしねぇよ」

誰に向けた言葉でもなく。

トミーの身体をひょいと抱き上げ、ベッドの上に横たえる。
ロエはその様子を痛ましげに見つめ、リオはようやく事態の重さを理解し始めていた。

「鎧、外してやってくれ」

ダンは篭手をはめ直しながら言う。

「ロエさんじゃ無理だから、お前に頼む」

「あ、当たり前でしょ! あんたになんか――」

「いや俺じゃねぇよ」

びしっと指を突きつけてくるリオにダンは被せるように返す。
盾の具合を確かめ、動作は無駄がない。
その背に、ロエが声をかけた。

「でも…あの……」

振り向かないまま、足を止める。

「目が覚めた時、ダンさんがいなかったら……」

「そいつは相当気が参ってる。魔法の効果が切れても、しばらくは起きませんよ」

言いながらドアノブに手をかける。

「――本当にっ!」

ロエの声が、背を追った。

「……行くんですか?」

ダンは外に出かけたまま、ぴたりと止まる。
ゆっくり振り返った。

リオの険しい顔。
ロエの、引き止めるような目。


一瞬だけ沈黙して――

「一方的に神出鬼没の奴は、気に食わねぇんだ」

いつもの調子で吐き捨てる。

「一時間で戻る」

それだけ残して。
扉は、閉まった。



   *   *   *



きっと女神は――私で遊んでいるのだ。

世界が平和になった、退屈しのぎに……。


昨日。
あの後、日が傾き始めた島に、言い様のない恐怖を覚えた。
まるで何かに追われるように、クフィムを飛び出した。

もし夜空に、あの狂気の光が現れたら――
自分は正気を保てない。

ジュノへ戻る道中、思考は絡まり、何一つ形をなさなかった。
そして逃げ戻っても尚、街に留まることができなかった。

行き交う者達がすべて刺客に見えた。
あの男の手の中にいるような感覚。
島から逃げ出してきたそのままの勢いで街を飛び出した。

気付けば――

バタリアの夜空の下に佇んでいた。

星明かりだけが丘陵を照らし、音のない静寂が広がっている。
遠い夜空をしばらくじっと見上げた後、重たい足で歩き出す。

どこへ向かうのか分からない。
ただ――目的などないことだけは、分かっていた。

無気力に歩を進める己の足音だけの、闇夜。

やがて思考が戻る。

そして、理解する。


あれは罠ではない。

――あの瞬間、自分は疑った。
長年探してきた少女に似た存在を餌に、あの男が自分を誘い込んだのではないかと。

そう思った瞬間、戦慄と、底のない悲しみに呑まれた。

もしやと期待を寄せたあの娘の姿が途端に恐ろしくなり、逃げ出した。

だが同時に――
彼女であってほしいと、願っていた。

今なら分かる。
あの場に、不自然なものは何もなかった。

考えたくはないーー考えたくはないが。

おそらく、彼女は冒険者だ。

あの若者たちと共に、ただ自然に、過ごしていただけ。
冒険という時間を。


――ならば、なぜ自分は。
なぜ、あのような接近をした。

普通に近づけばよかった。
『貴女は、生き別れた家族に似ている』と。

それだけでよかったはずだ。

気が動転していた。

それだけでは、説明がつかない。

原因は、過去だ。

エルヴァーンへの――憎悪。

冷静になった今でも、あの男への不信は消えていない。

なぜなら。

自分は、見た。


――早く。

もう一度、彼女に会わなければ。


さ迷う足から視線を上げる。
空が白み、夜が明けていた。

ゆっくりと暖かい光を丘陵の地に伸ばしてく朝日。
その先に、石造りの入口があった。

ふと、記憶が蘇る。

戦争の時代。 この地で過ごした日々。

豪雨の中、ああいった丘の中に陣を張った。
地下の古墳に下りる階段のない丘を探して。

すべての丘に階段があるわけではない――
師の言葉。

あの頃の自分は、とにかく周りの大人達に追い付こうと必死だった。

編成されたいくつかの班が、陣を張れる丘を探しに発った時。
こちらの居たたまれない心境を察してあの師が言った。

『君は私と行こう』と。

彼の補佐を務めている女性が渋い顔をしたが、師は私を連れて、待機している一団を離れた。
酷い豪雨と風の中、師は穏やかに歩いていた。
風に暴れる外套を制御するのに手一杯の自分に歩調を合わせていたのだと、今なら分かる。

外套を見下ろす。

あの頃とは違う、自分の身体。
擦り切れた布の重み。

『自然の手に掛かれば、私達など微々たるものだな』

その時の師の横顔が、ぼんやりと浮かぶ。


――朧げだ。

……たくさんの過去達が、まだ。

引き寄せられるように、丘へ向かう。
あの時、結局、誰が拠点を張れる丘を見つけたのか。
入口の前で立ち止まる。

もし、この中に――
階段がなかったら。

やめれば良いものを。
意味のない想像だと分かっていながら、足は止まらない。
中へ入る。

階段を下りる。

ドーム状の空間。

――行き止まり。



だから、ただの勝手な空想なのだ。
根拠も何もない、ただの。

苦笑が漏れる。

当然だ。

何も起こるはずがない。

薄暗い空間に立つ、自分一人。


なぜ。

なぜ、自分はここにいる。

問いは、何度繰り返しても答えない。

――その時。

音。

身体が反応する。
まるで帰りを待つ子どものように。

だが違う。

その奥にあるのは――歪んだ何か。

次の瞬間。

黒く塗り潰される。
内側を、獣が駆ける。

気付けば、笑っていた。

外へ出る。

朝日の下、数人の影。

――来た。

笑みが深くなる。
踵を返し、丘の中へ戻る。

連中は追ってくる。

あとは――いつも通りだ。

良いところに来てくれたと、何度も言ったような気がする。
ここ数年で最も獣じみた、人間的ではないやり方をした。
たっぷりと時間をかけて、少しずつ。

彼らに罪はない。
あるとすれば――知らないこと。

『知らない』彼らに、裁けるのか。

冗談ではない。


知るがいい。

痛みを。恐怖を。


最後の一人。
逃がすふりをして、仕留めた。
落とし物を投げたのは、ただの戯れ。
気分が良かった、それだけだ。

――そして。

その直後。



弁解の余地は、なかった。


そして――
これ以上ない皮肉な形で、確信した。

彼女は間違いなく、あの少女だ。

悲鳴と、あの怯える姿が。
赤い雪の上で見た、あの日の光景と重なる。

声を掛けるどころか、手を伸ばすことすらできなかった。
自分の前から逃げていく様子に自分自身納得していたから。

呆然と見送る。

見えなくなると、まるで満足したように自分は踵を返した。
彼女が去っていった方向とは正反対の方向へ歩き出す身体。

――何処へ行こうというのか?

答えはない。

夜明け前と同じだ。

行き先など、最初から存在しない。

これでまた、二つの事実が手に入った。

一つは、彼女が捜し人であるという確信。

そしてもう一つ。
あの日、少女の叫びに抱いた疑問の答え。

頭を殴られたような衝撃に朦朧としながら、丘陵を再びさ迷う。

いつの間にか、空は曇っていた。
分厚い雲が広がり、やがて雨が落ちる。

景色が、滲む。


自分がどこを歩いているのかは分からない。
ただ――彼女から遠ざかっていることだけは、分かっていた。


どれほど歩いたのか。

誰の意思で動いているのか分からない足。
ふと、顔を上げる。


雨に霞む丘陵。

そこに――
一羽のチョコボ。


……今は、そんな気分ではない。

だが。
一人なら、すぐに終わる。

そんなことを考えながら、足を引きずるように進む。

チョコボが、こちらを見ている。

動かない。

やがて。
その背の人物が、静かに降り立った。
手綱が放たれる。
チョコボは一声鳴き、雨の向こうへ消えていく。

残ったのは、鎧の男。

歩みを止めぬまま、観察する。

銀色の鎧を身に着け、腰には剣を下げている。

――エルヴァーンではない。


おかしい。

いつもなら、伝わるはずの“意思”が、来ない。

濡れた栗色の髪。
見覚えが――

その瞬間。

思い出す。
つい先程、会ったばかりの顔だと。

足が止まる。

視界に落ちる銀髪の隙間で、目を見開く。

暴れ出しそうな思考を、力で押し潰す。
そして――願う。

――剣を、抜かないでくれ!!



   *   *   *



あーあぁ……下りちまったよ……。

ダンは自分の行動をまるで他人事のように眺め、そんなことを思いつつチョコボの手綱を放した。
チョコボの足音が雨の向こうに走り去っていく。
耳で聞きながら、自分の正面にいる人物をじっと見つめた。

見つけた時はまさに死神のようだと感じたが、よく見てみるとなんと惨めな姿をした男だろうと思った。
そうまるで、雨の中帰る場所もなくさ迷っている野良犬のようだと。

これで相手との対面は二度目。
硬直した相手を見据えたまま、ダンは思考を整える。

昨日の話と、今見たものが繋がる。

武装してるが……あれは冒険者じゃない。

装備が雑すぎる。
流通も常識も感じない。

そうなると当然、騎士でも、銃士でもない。

なら、なぜ武装している?


理由は単純だ。

この男は、戦う必要がある人間――

つまり、追われる身だ。

簡単に言えば賊や罪人の部類の人間なのだろう。
そして恐らく相手はかなり場慣れしている。
当然のごとく先程の殺しの現場に直行したわけだが、あそこには何も残っていなかった。

――どうやら、後片付けのしつけはちゃんとされているようだな……。

そんな皮肉を思いながら、自分の登場にもまったく動じる様子を見せなかったこの相手を警戒し、やはり国に一声かけてから来るべきだったかと考えた。
だが、絶対に逃がしたくはなかったのだ。
そこは仕方ないと思うことにする。

そもそもなぜ、こんな者が自分の知っているあの娘に近付こうとしているのか。
ダンは先程の遭遇で、この男にとってあの娘は悪意を向ける対象ではないことを察した。

もし害するつもりなら、あの時あんな顔はしない。
ダンは、退避の瞬間に見た男の顔を思い出す。

――深く傷付いたような、あの表情を。


この男にとってあの娘が何なのかは、まったく予想はつかない。
昨日友人が言っていたように、ファンにしては些か行動が常軌を逸している。
むしろ、なぜあののっぽの友人があんなことになったのかという点だが。

あいつは剣を向けやがったんだ――あの阿呆……。

冷静さを欠いた人間は、獣と同じだ。
武器を向ければ、牙を剥く。
それは――どちらかが果てるまで終わらない。
この男も、例外じゃない。

しかし昨日聞いた友人の話では、相手は現れるなり好戦的であったらしいので、この後いつこちらに向かって牙を剥いてくるか分かったものではない。
そうなれば困ったものだ。
正直なところ、自分には相手とやり合う理由はない。
人殺しになって日常を手放す気はないし、知りもしない男に黙って殺される義理もない。
正直、この男が何者だろうがどうでもいい。

――だからこそ。

無駄な争いは御免だ。


「最初に言っとくが、俺はあんたとやり合う気はない。ただでさえ寝不足なんだ」

さあさあという雨音の中、ダンはじっと見つめる男に言葉を投げ掛けた。
その声をきっかけに、男の身体がゆっくりと起こされていく。


「あー……何だ……手短にあんたの目的を聞かせてもらえるか?」

髪から雫が落ちる。

「 ゆっくり茶でも飲みたいところだが――時間がない」



この沈黙は長かった。

回答を待つ間、ダンは相手の目から一瞬たりとも視線を逸らさず、突然相手が動いても瞬時に反応できるよう全神経を集中させた。


やがて返ってきた相手の声は、雨音に掻き消されてしまいそうなか細いものだった。


「あの娘の……名は?」


ダンは正直、繰り返される同じ問い掛けに、今にも堪忍袋の緒が切れそうだった。

「あいつがあんたの知り合いに似てるってんなら多分人違いだ。あいつにあんたみたいな関係者がいるとは思えねぇ」

ついつい攻撃的になる自分の言葉に『おっと』と内心気を張り、ゆっくりと溜め息をついた。
離れた距離で対峙している男の顔が強張ったのが見える。

「貴様は……何者だ? 彼女とはどんな……」

些か厳しくなった眼差しに見つめられた。
やはり少し刺激してしまったか。

まだ相手の出方が分からない――が、会話をする意思はあるようだ。
ダンは神経を尖らせて相手を観察しつつ、どこか余裕を感じさせる声で答える。

「あー……あいつにとっちゃ『お友達』なのかもしれんが、それにしちゃ割りに合わねぇ苦労させられてる。まぁ保護者みたいなもんか?」

流れで『ずいぶんなこと聞くじゃねぇか。あいつの父親だとか言うなよ』と口から出そうになるが、ダンは何とか喉の辺りでその皮肉をぐっとくい止めた。

こちらが好戦的になってどうする。

先程トミーに言われたことを痛感し、やはりあの娘は自分のことをよく分かっていると思った。
だから尚更、ここは慎重にせねば。

「そう言うあんたは?」

静かでゆっくりとした口調を意識したが、険しくなった相手の表情は変わらなかった。

「……貴様に話す気はない。こうして会話をしてはいるが、貴様を信用してはいないからな」

警戒心を剥き出しにしたその言葉を聞いて、ダンは思わず『おいおい』と零して苦笑を浮かべた。

「まだ会ったばかりだ。信用も何もあるわけねぇだろ」

相手はこちらをとても警戒しているようだ。
警戒するのはこっちの方だというのに。

このまま警戒し合っていては埒があかないと感じたダンは、思い切って会話を前進させることにした。

「まぁ、俺は別に、あんたがどこの誰だろうと構わないんだが……。ただ、あいつの周りをウロウロされると迷惑なんだ。ピーピー泣かれていちいち翻弄される俺の身にもなってもらいたいぜ」

額から流れた雨が頬を伝って下りていくのがくすぐったい。
霧雨とは言え、こちらもあちらもお互いすでにずぶ濡れになっている。

「なぁ、最初に言ったがそんなに時間があるわけじゃないんだ。お互い少し妥協してみようぜ」

大丈夫だ。
ペースはこちらが握っている。

ダンは極力冷静に状況を見ながら言葉を紡いだ。

「俺は……ダンテス。仲間内では“ダン”で通ってる。あんたが知りたがってるあいつの名前はー……あんたの名前を聞いたら教える」

言うと、相手の表情が見る見る内に変わっていった。
こちらに対する警戒一色だった顔に戸惑いが広がっていく。
そしてまるで自分の中で会話を展開しているような顔になると、何かを必死に願うような、非常に何か言いたそうな眼差しで見つめてきた。

――会ったばかりなのに目で会話ができるかっつーの……。



「…………ノルヴェルト……」

ふと、相手の薄い唇からぽろりと零れ落ちた。
ダンが眉を開くと、もう一度低い声で『私の名はノルヴェルトだ』と相手が名乗った。

知らされた彼の名を自分でも呟くと、ダンはすぐさま自分の中にある情報を引っ掻き回した。
どこかで聞き覚えのある名ではないかと探るが、探れば探るほど聞き覚えはない。
こちらが相手の名を復唱した瞬間、相手がぴくりと微かに反応したのが気になったが、とりあえず今のところは初めて聞く名だということで結論付けることにした。

さて、問題はここからだ。

下手に嘘をついても後々面倒なことになるだけだと思い、ダンは簡単に告げた。


「あいつの名前はトミーだよ」


そう告げた直後の相手の様子を見て、やはり別の名を挙げて適当に流すべきだっただろうかと少し後悔する。

「――なっ……まさか、なぜ!?」

「んなこと俺に言われてもな」

明らかな動揺。
しかし相手にとっては悪いものではない……のだろうか?
ご希望の名だったようには見えないが、まったく知らない名ではなかったのかもしれない。
相手にとって『トミー』というのは良いのか悪いのか、よく分からなかった。

「ちなみにあんたの捜し人の名前は?」

そのくらい答えてくれても良いようなものだが、相手は口を開いたもののすぐに閉じてしまう。
絶妙なタイミングで、うっかりスラスラと事情を喋るのではと狙ったが相手のガードは固かった。

まったく、『なぜ』というくせに、相手はこちらに事情を話す気はないと言うのだから困ったものである。

なぜそこまで話そうとしないのか。
話せば、こちらも対応を変える。

――まぁ。

どうせ、何を言われても全否定して追い返す気満々だが。


駄目だ。
話にならない。

ダンは濡れた髪をかき上げ――決めた。

――あーもー面倒臭ぇぞコラァ!!


「あんた、あいつのこと知りたいんだろ」 相手の表情が強張る。 「生憎、俺はこれ以上ペラペラ喋る気はねぇ」

きっぱりと言い放つ。

「あんたが事情を話さないなら。フェアじゃねぇだろ」

静かな、霧雨の音。

ひとつ溜め息をつく。

「あー……あいつのことがどうしても気になるってんなら」

少しだけ肩をすくめる。

「会ってみるか?」

相手の目が一層大きく見開かれる。
お構いなしに言葉を続ける。

「あんた追われてる身なんだろ? よく分からねぇが……。だったら夜がいいか。今夜零時過ぎにジュノ下層の競売前だ。会って確かめる気があるならの話だけどな」

ダン自身、とんでもない話を持ちかけていることくらい重々分かっていた。


――会わせるだと?

――この殺人犯を、あのボケにか。


本当にとんでもないことだと思うが、ダンなりに考えた末に出した提案であった。
このまま雨の中突っ立って話していても何も前進しないし、相手が事情を話すとは思えない。

それにそう、時間がない。
早く戻らないとまた面倒なことになる。
絶対に。

また、ぎこちなくではあるが言葉を交わしている内に、良からぬ想定が徐々に浮上し始めた。

この男の捜し人がトミーであるかは別として、相手は本当に訳ありのようだ。
彼が抱えているものが何なのかは初めからいっているように、どうでも良い。
ダンからすれば、とにかくこの男のトミーに対する感心がなくなれば良いのだ。

もし――もしも会わせた時に、この男の様子が豹変したとしたら。

その時は何も迷うことはない、手段は選ばないつもりだ。
むしろ前以て国に報告しておいて、会いに来たところをしょっ引いてもらうのも良いだろう。
とりあえずはこの男の名を得たので、念のためトミーに確認を取ってみようとは思っている。

とにかくだ。
今この場で話術と出任せを駆使して丸め込んだとしても、本人が心底納得しなければ後に再びあの娘の周りをうろつくに決まっているのだから。


「んじゃ、そういうことにしてこの場は解散だ」

「待て……!」

ペースを掴んでいるのを良いことに、つらつらと一方的に話を進めたダンがそう締めくくると、今まで聞いた相手の声の内最も大きな声がダンを止めた。
一瞬利き手に緊張を走らせるが、相手はこちらのその気配に緊張を見せただけだった。

ダンは濡れた髪から雨が滴るのをうざったそうに表情をしかめる。

「あぁ? 競売前ってのが気に食わないか? あそこは人が多いから逆に目立たねぇんだ。安心――」

「ダンテス、と言ったな」

「やめろ。ダンでいい」

ぎっとすぐさま表情を険しくする。
ダンをまじまじと観察しながら、ずぶ濡れのエルヴァーンは口を引き結んだ。
互いに厳しい眼差しでしばし見つめ合う。

「……私は、貴様を信用してはいない」

「奇遇だな。俺もあんたを信じてねぇ」

ぴりりとしたダンが即座に好戦的な言葉を返す。
そぼ濡れた長い髪を肩に乗せたエルヴァーンは、動じずにじっとダンを見つめた。

「だが多少は……話のできる男だと思っている」

思いもよらなかい発言に、ダンは一瞬耳を疑った。
苦笑を返す。

「……そりゃどうも」

「……こんなことを言っても無駄なのかもしれないが……」

いきなりの不可解な前置きにダンが苦笑を消す。
凶器を背負ったずぶ濡れの男、ノルヴェルトは、低い声で噛み締めるように言った。

「あのエルヴァーンの男は、信用するな」

「何?」

眉を寄せるこちらに対して『貴様も奴の仲間でなければ良いのだがな』と続ける。
不可解な前置きの意味はそういうことかと理解して、ダンは再び皮肉れた苦笑いをした。

「はぁ? それはアレだろ、あんたが昨日痛めつけたあの野郎のことだろ?」

「油断していると、彼女が危ない」

「おいおい、ちょっと待ってくれ。あんたさ」

「私は確かに見た」

ダンの声を打ち切る。
そして訴えた。

「見たのだ。……あの男……確かに…」


「……おい、あんた。……何……言ってんだ?」

ダンの表情から苦笑いが消える。


「一体何のことだ?」


じっと口を結んで雨に濡れている男に対して、今度はダンの方が緊迫した声で問い掛けた。


雨は、止まない。



<To be continued>

あとがき

第十話『雨中の守護者達』でした。
探り合い、牽制、気遣い。
それぞれがそれぞれの望みを抱えていて、必ずしも同じ方向を向いていないような、そんな状況を描いています。

師との思い出は、ちらつく度に愛おしく、なんだかつらい……。

そして今回、ノルヴェルトがダンに「何か」を告げていますね。
その一言が、後々どんな波紋を呼ぶのか——
それはもう少し先で明らかになるはずです。

色々な思惑が絡み合い、少しずつ歯車が噛み合っていく第三章。
村長作品の集大成ともなれば……すごいよ?←何
最後まで、お付き合いいただければ幸いです。