~大切なもの~

<3>



あたり一面真っ白だった。黄色掛かった土気色の白。

一メートル先もろくに見えない中、マキューシオはチョコボから降りた。
降りた時の振動で腕の傷が痛み、小さくうめき声をもらす。
ローブの中に口元まで沈みこんだ状態のワジジもチョコボから飛び降りる。
地面に降り立つと、年配者のような咳を何度か繰り返した。

マキューシオは腕に刺さっている矢を掴むとぐっと口を引き結び、一気に引き抜く。
そのまま矢を捨てて屈み込んだ。

すぐ隣でワジジが詠唱を結び、治癒の光が腕に灯る。

「……ありがとう」

息を吐きながら、苦しげな顔にわずかな笑みを浮かべるマキューシオ。
彼もまた、押し殺したように咳をした。
魔法の詠唱をしたワジジは飛び跳ねて咳き込んでいる。

岩壁の崩壊がひと段落したところで、二人は西へ戻らず途中でチョコボを止めていた。
予定より威力が劣ったせいか、若干亀裂の入り方が狂ったため、東向きとは別の崩れが起きた。

巻き込まれはしなかった。
だが――殲滅できたかどうか、確信が持てない。

まだ東側に、微かな気配を感じるような気がする。
杞憂であればいいのだが。

「えほっ……エアロでこの砂煙、ぶっ飛ばすか!?」

杖をぶんぶん振り回して言うワジジに対し、マキューシオは首を振って立ち上がった。

「逆に巻き上げてしまう」

だが、このまま待つのも得策ではない。
もし生き残った獣人がいたとしたら、砂煙が晴れる頃には、確実に難民へ辿り着く。
それだけは、避けなければならない。

薄いカーテンが幾重にも揺れるような視界。
どうするのかと足元で騒いでいるワジジに対し、口に指を当てて静寂を促した。
視界が悪いのは、相手も同じ。
だが、わざわざ居場所を知らせる必要はない。

その時。

とつ、とつ、と――規則的な足音。

マキューシオは息を殺し、音の方向を測る。
ゆっくりと腰の剣に手を伸ばした。

砂埃の天幕の向こうから現れたのは、チョコボに跨ったフィルナードだった。
低く構えていたマキューシオは目を見開き、姿勢を戻す。

「くく……お前は地の学もあるのか?」

現れるなり、歪んだ笑み。
マキューシオは顔に安堵を滲ませた。
傷を塞いだばかりの腕を曲げ、肩をすくめる。

「いいや、地の学などは。父が工夫だっただけだ」

「ふん……充分だ」

「フィルナードが自分で動くなんて、珍しいな!」

ローブに口までずっぽり埋まったワジジがこもった声で言う。
フィルナードは無言でチョコボを降りる。
マキューシオは外套に刺さった矢を抜き、足元へ捨てた。


「残党がいる。俺が処理しよう」

そう言って、手綱を差し出す。

「こいつはもう要らん」

マキューシオはじっとその顔を見る。
長い黒髪に隠れ、表情は読み取れない。

「おいおいおい、一人でやるってのかぁ!?」

戦闘が始まって以来ずっとテンションが上がりっぱなしのワジジが叫ぶ。

返答はない。

おもむろに、フィルナードはゆっくりとした動作で腰に手を伸ばす。
ベルトの後ろに携えていたダガーを引き抜いた。
フィルナードは背に負った漆黒の大鎌だけでなく、いくつもの武器を携帯している。
大きな獲物である鎌には不利な状況でも、相手を逃がさずに確実に仕留めるため。

次の瞬間――黒い外套が鋭く翻る。

何かが、砂煙の向こうへ飛ぶ。

一拍遅れて、クゥダフの断末魔。

「……どうやらここは、俺の舞台のようだ」

低く、笑いを噛み殺した声。
再び手綱を差し出す。

「俺にしかできないことくらい、俺にやらせろ」

その口元は――笑っていなかった。

マキューシオは黙って見つめる。
だが、決断は早い。
手綱を取る。

「……一人でいいのか?」

「マキューシオー?!」

「他がいると邪魔だ」

「……分かった。この場はフィルナードに任せる。私達は西に戻ろう」

言いながら、マキューシオはチョコボに跨る。
ローブの中で不満だらけの顔をするワジジ。

「しょうがねぇなー!」

思わず声を上げて咳き込むと、手綱を引っ張ったのを合図に身を低くしたチョコボの背中に飛び乗った。
フィルナードは砂煙の向こうへ視線を向けたまま、呟く。

「西側の奴らも、一匹残らず殺しておけ」

その言葉の意味を、マキューシオはすぐに理解した。
逃がせば、情報が渡る。

そしてもう一つ――

自分は、追ってまで殺さない。

その弱さを、突かれたのだ。

マキューシオの表情が、消える。

何かを切り捨てたように。

「……あぁ、分かっている」


チョコボを駆け出させようとした、その時だった。

「それと」

フィルナードの声に、マキューシオは動きを止める。

「ガキもこっちに向かってきてる。連れ戻せ」

「何」

マキューシオの目がわずかに見開く。

「ガキィ?…… あぁ、ノルヴェルトか!」

すぐに察したワジジが声を上げた。
この場に本人がいれば、間違いなく不機嫌になっていただろう。

二人は同時に、西側の煙霧へと目を凝らす。
視線を戻した時には、フィルナードの背はすでに白い砂煙の中へと消えかけていた。
遠く東側で、再び低い崩落音が響く。


「……フィルナード……ッ」

不意に、今度は西から苦しげな声。

「ノルヴェルト! こっちだ」

埃を吸わぬよう声を抑え、マキューシオが呼ぶ。
すると砂煙の向こうから、不安から解放されたような気配。
やがて一羽のチョコボが姿を見せた。

その背には――ノルヴェルト。

「二人とも無事だったんだっ、良かった!」

背筋を伸ばし、安堵の声。

「なんでお前がこっちに来てんだ?」

ワジジの言葉が、容赦なく突き刺さる。
微かに笑みすら浮かべていたノルヴェルトはぎょっとし、慌てて師を見る。
だが師は何も言わない。ただ、待つ。
言葉を。

素直に困った顔をする少年。
数回口を開閉してから言葉を絞り出す。

「その……俺はフィルナードの補佐…だから……だから……」

尻すぼみに消える声。

「早く戻ろうぜぇ! マキューシオ!」

ノルヴェルトの言い訳などには心底興味のないワジジ。
戦線に戻りたくて堪らない様子で、マキューシオを振り返ると手綱を波打たせた。
チョコボが横を抜け、西へ駆けていく。
マキューシオは短く応じた。
ノルヴェルトはその背を追いながら、なお言葉を飲み込んでいる。


――ドギュッ。


左手のどこかで、鈍い音。

続いて、何かが倒れる気配。

ノルヴェルトの身体が強張る。
危険を肌に感じた野生動物のように。

どうやらフィルナードが始めたようだ。
――残党狩りを。

ノルヴェルトは息を呑み、周囲の砂煙に目を見張る。

「マ……ッ!」

「こちらはフィルナードに任せてある。私達は西に戻るぞ」

平坦な声。

だがノルヴェルトは、必死に辺りを見回して歯噛みする。
周囲で始まっている見えない狩りを、どうしても見たいというように。

「マキューシオ、俺も――」

チョコボを降りようとする。
その脇をすれ違いざまに、マキューシオは言った。

「君は戻りなさい」

ノルヴェルトを置いて西に歩き出す師の背中を、少年は強い視線で見つめる。

「お願い! お願いですマキューシオ!」

思わず声を張り、埃を吸い込んで激しく咽る。
チョコボの上で前屈みになって咳き込む。

その背後で、断末魔。

見えない。
だが、確実にそこにいる。

獣人の悲鳴と、何かをぶちまける音。
重いものが倒れる音。

ノルヴェルトは震えながら、なお視線を巡らせる。

――見たい。


その瞬間。

揺らぐ白の奥に、獣人の影を捉えた。


その目。

マキューシオの胸に、鈍い痛みが走る。

――見つけた目だ。


ずっと探していたものを、ようやく見つけた者の目。

鋭く、重く、激しい。

少年が持つべきではない光。


「ノルヴェルト」


一瞬だけ見えた獣人の姿に釘付けになった。
だが、思わず視線を引き離してしまうほどの悲しげな声が呼んだ。

少年が振り返る。

そこにいたのは――
今にも少年を怒鳴りつけそうな目をしたマキューシオ。


「指示が聞けないのなら抜けてもらう」


どこか凄みのある声で放たれた。

ノルヴェルトの呼吸が止まる。

視線が手元へ落ちる。
手綱を握る指が震えている。

「……ごめんなさい」

小さく、潰れた声。

ノルヴェルトは只ならぬオーラを纏った師に恐怖したが――
もちろん、それだけではない。

マキューシオが口にした『抜けてもらう』という処遇が衝撃的だった。
ただの脅しではなかった。
彼の中には本気でそういう選択もあるのだと、直感した。
それが――あまりにもショックだった。

頭を垂れて謝るノルヴェルトを、マキューシオはじっと見つめた。
少年が恐る恐る視線を上げ、師と目を合わせて肩を震わせる。
マキューシオはそれをきっかけにしたように、無言のままチョコボの向きを変えた。
そして西へ。
ノルヴェルトは慌てて彼に続いた。


二人が戻った頃には、西側はドルススの指揮の下、圧倒的な勝利を収めていた。

ばらばらと完全に足並みを乱して逃げ散る獣人達。
ドルススは、その獣人達を逃がした場合に生まれる後の危険を心得ていた。
逃がさぬよう指示を吼え、西側にいたクゥダフ達の殲滅を遂行する。

やがて戦闘は終わり。
戦士達は難民の元へ戻り、勝利を分かち合い、被害を確認する。

砂煙も、徐々に落ち着いていく。
マキューシオは数名と共に、再び東へ向かった。
東は瓦礫によって盛大に塞がり、動かない獣人達が岩々の下敷きになって沈黙していた。

そして、その手前の地面には転々と獣人の体が転がっている。
まだ若干砂埃で霞むその場所。

その片隅に。

黒い外套の男が――静かに腰掛けていた。



   *   *   *



その後、一団は谷から出ると南に回り、東へと移動した。
戦士達は大規模な戦闘の疲労を抱えており、早急に拠点を定めて難民の処置を行う必要があった。
長距離は移動できなかった。

川の傍にある大きな丘の影に陣を張ることを決め、戦士達は野宿の準備に取り掛かった。
夜の冷えが来る前に再び難民達に毛布を配り、質素なものであるが食事を配給する。

隅々まで指示を出さずとも、戦士達は自分に出来ることを見つけ、自ら動いた。
そして難民達の方がひと段落つくと、手が空いたものから休憩に入り戦士達も食事を取る。

ノルヴェルトはセトのいい使い走りにされていた。
次から次へと与えられる指示に奔走し、ようやく自分の仕事に就く。

チョコボの世話を終え、物資の周囲をうろついていると、スティユに声をかけられた。
一息つけと言って、温かいスープとパンを手渡される。

聞きたいことがあったノルヴェルトは、すぐに立ち去ろうとするスティユを呼び止めようとした。
しかし、休憩に入った若い戦士達に捕まり、その機会を逃した。

そのまま焚き火を囲む輪に加わる。
気づけば、日はすっかり落ちていた。

溜め息をつきながら、最も重い胴体の鎧を外して傍らに置く戦士達。
その様子に、なぜかノルヴェルトも慌てて鎧を脱いだ。

辺りを見回す。

態勢はだいぶ整ったようだ。
夕暮れ時には全員が右往左往していたが、今は多くの戦士達が腰を下ろしている。
ノルヴェルトは首を伸ばして周囲を探った。

他の戦士達と同様に、ノルヴェルトも先程までずっとあちこち走り回っていた。
それなのに、その間一度もマキューシオの姿を見かけなかったのが気になる。
だからスティユに聞こうとしたのだ。

きょろきょろと視線を巡らせていると、周囲の戦士達が不思議そうに見る。
ノルヴェルトは首を横に振ると、のろのろと食事を始める。

大概、今宵のような戦闘後の夜には、マキューシオの方から少年の顔を見に来る。
そして疑問や、腑に落ちないという訴えに耳を傾け、共に時間を過ごしてくれるのだ。

頭上から名前を呼ばれる光景を思い浮かべながら、スープを飲む。

ふと、周りの戦士達の話題が耳に入ってきた。

「今考えてみりゃ、絶体絶命だったよなぁ」

マキューシオの指揮がなければ、今頃みな死んでいた、と。
頷き合う戦士達は誇らしげで、声は一日の仕事を終えた労働者のように爽快だった。

あのまま退き続けていたら、圧倒的軍勢に飲み込まれてアウト。
谷に逃げ込んでただ応戦していても結局は挟み撃ちにされてアウト。
どのみち、詰みだった。

まるで試合を振り返るような調子で語られる戦場。


――そんな風に話しているが、怖くはなかったのか?

――これっぽっちも?


スープを口に運んだまま、視線だけで問いかける。
もしあの作戦のどこかでミスがあり、失敗したとしたら――
こうして今、仲間達と食事を囲う光景はなかったはずなのだから。

そう思った瞬間、背筋が冷えた。

若い顔に顎鬚を生やしたエルヴァーンは、パンを頬張りながら言った。

「マキューシオは、俺のお袋に似てる」

どっと笑いが起きる。
焚き火の炎よりも明るい笑い声。

彼はそのまま母親の話を熱く語り出した。
ノルヴェルトは、上の空でそれを聞いていた。

マキューシオが母親に似ているとはどういうことなのか。
周りの戦士達と同じように疑問に思うが、案外、分かるような気がしてきた。

しかし、どういうところが母親的なのだろう。
マキューシオは男性であるというのに?
母というよりは、父や、兄と言う方が自然なのではないだろうか。

マキューシオのあの落ち着きと面倒見の良さは、彼が育った環境によって培われたものかもしれない。
例えば、大人数の兄弟の長男だったとか……。

ふと、師の家族のことを考えてみたら、昼間の姉弟のことを思い出す。

もう二度と立つことのできない足。
健気な幼い弟。

急に怖くなり、ノルヴェルトは顔を上げた。
思わず周囲を見回す。

こうして若い戦士達の輪に入っていたら、師は自分を見つけにくいかもしれない。

黙々と進めていた食事は気が付くと終わっていて、戦士達は食後の談笑に入っている。
話題は完全にお互いの家族の話に移行したようだ。
皆、寂しさの上に笑みを塗りたくったような顔をして大声で喋っていた。

座ってから結構時間は経っている。
もう、勤めはひと段落していてもいい頃なのに。

一向に姿の見えないマキューシオを目で探しつつ、代わりにあの妹弟を見つけてしまうのではないかとノルヴェルトは恐れた。

もう一度あの姉弟と顔を合わせる勇気が、ない。

どんな顔をすればいい?

何を話したらいいのかなんて見当もつかない。

やがて一人になるであろう弟に励ましの言葉を?
――言えるわけがない。

抱き上げた時の、あのぬくもりが蘇る。

怖い。


マキューシオは――来ない。


震えを振り払うように、ノルヴェルトはスープの器を置いたまま無言で立ち上がる。
戦士達の疑問の視線を一身に浴びながら、その焚き火の輪から駆け出した。



   *   *   *



戦士達の焚き火が点々と続く場所から、少し離れたところ。
マキューシオとドルスス、スティユ、ワジジはいた。
焚き火はなく、月明かりだけが彼らをぼんやりと照らしている。

月明かりの下で何か議論をしている様子の彼らは皆、真剣な顔をしていた。

内容までは分からない。
それでもノルヴェルトは、弾む息のまま師の名を呼ぶ。

三人が顔を上げる。
駆けてくる少年を捉えた。

岩に腰を下ろしていたマキューシオは、遅れてゆっくりと振り返る。

「ノルヴェルト。どうしたの?」

マキューシオが口にすると思っていた台詞を、スティユが言った。
一瞬、戸惑う。
呼吸を整えるふりをして、ノルヴェルトは四人の様子を見回した。

何の話をしていたんだろう……。

「……そう…あの、ちょっと気になることがあって」

妙に静かな場の空気に耐えられなくなって、ノルヴェルトは苦し紛れに切り出した。

「気になること?」

スティユが小首を傾げる。
だが、マキューシオは何も言わない。
やり取りを傍観するように、口を閉ざしたままだ。

「難民の中にいるヒュームの……その……姉弟のこと、なんですけど」

「あぁ、セトから聞いたよ」

どっしりと胡坐をかいたドルススが頷く。
その隣で、ワジジが座り直しながら口を開く。

「俺もさっき見たけど、姉ちゃんの方はもう長くないぞ、あれは」

「ワジジ……そういう悲しいことははっきり言わないで」

スティユは肩を落とし、たしなめる。
そして岩から軽やかに降りた。

「そう、あなたも気になったのね。昼間も色々とあったみたいだけれど……。お疲れ様、ノルヴェルトがいてくれて助かったわ」

凛々しい顔付きのスティユがふわりと笑う。
真正面からの感謝に、ノルヴェルトは何だか恥ずかしくなって下を向いてしまった。
年頃の少年にとって、褒められたり感謝されたりするのはどこか苦手だった。

やがて、姉弟の様子を見に行くというスティユの声。

「あ、俺、飯食いたいぞ」

スティユの後にワジジが続く。
ワジジは食事がまだだったらしい。
もしや他の三人もまだなのだろうか。

去っていく二人の背を見送りながら、ノルヴェルトはひやりとした。

一緒に来ないのか、と聞かれたら。

答えられない。

勇気が無いなんて言えない。
他の理由を口にしても、言い訳にしかならない。

自分から言い出したことなのに、いきなり話題を変えることもできず。
ノルヴェルトはその場に突っ立ったまま、動けなくなってしまった。

段々と疑問の色を浮かべるドルススの眼差しに肝を冷やす。
ノルヴェルトは、ちらりと師を盗み見た。


――マキューシオ、どうして何も言ってくれないの。



「…………どうした?」


マキューシオはきっと怒っているんだ、昼間のことで。


そう思い当たった瞬間に、マキューシオのいつもの声が聞こえる。
単なる被害妄想かもしれないが、先程は師の眼差しに少し冷たいものがあったように思えた。
しかし視線を上げて見てみると、マキューシオは何かを観念したような顔をしている。

理由は分からない。
だが、その声を聞いた途端、そんな疑問はビクついた気分と一緒にどこかにすっ飛んでしまった。

「あのっ………あの時は、ごめんなさい」

今言わなければ!と慌てたノルヴェルトはそう言って、慌てて言い直す。

「……すみませんでした」

その様子に、マキューシオは小さく息を吐いた。
手招きし、近くの石に座らせる。


間近で見ると、少年の顔にははっきりと『許して』と書いてある。
ドルススは拳を口元に当て、少年に気付かれないように必死に笑いを堪えていた。


「君は、とても素直だな」

目を細めて微笑むマキューシオに、笑いの滲んだ声でドルススが『まったくだ』と同意する。
自分がどんな顔をしているのか見えていないノルヴェルトは眉を寄せる。

「それに、君はとても優しい」

言葉を噛み締めるように、ゆっくりとした口調でマキューシオは続けた。

「……だから、自ら憎しみに身を浸すことはない。修羅になろうとするな、ノルヴェルト」

夜風が師の黒髪を揺らす。

「君は、君のままで良い」

ひんやりとした夜の空気に、マキューシオのあたたかな言葉が溶ける。
ノルヴェルトはきょとんとして師の顔を見上げていた。
マキューシオの、願いを映したブラウンの瞳。

ふと、ノルヴェルトは口を噤む。
目線を明後日の方向に逸らした。
何か思うことのある顔をしている少年を、マキューシオとドルススはじっと見守る。

「…………優しいとか、そういうの恥ずかしいよ」

非常に言いにくいことだが我慢できない。
そんな様子で呟く。

「今の時代には、優しさなんてあったって、しょうがない……です。必要なのは強さでしょう?」

確かめるように問う。
そんな小生意気なことを言う少年を見て、ドルススはにかっと笑い、マキューシオはわずかに首を傾げた。

「気持ちだけじゃダメだって……マキューシオも思うんでしょう? セトから聞きました」

そこでマキューシオは『あぁ』と思い出したような声を漏らす。
少し困った顔をした。

「僕は……俺は、強くなりたいんです」

ぎゅっと拳を作って足元を見つめ、徐々に目付きを厳しくする少年。

マキューシオは真剣な眼差しでノルヴェルトのことを見つめる。
少年に視線で問うた。

それで、強くなって――どうしたい?

その問いに気付かぬまま、ノルヴェルトは唸る。


「早く強くならないと……今度は、みんなを……」

言い切れない。


マキューシオは瞬きをした。
ふとドルススに目を向ける。

ドルススは満足そうに笑って肩をすくめる。
『ほら、やっぱりな』とでも言うような笑み。

マキューシオは、力の抜けた息を吐くと首を摩った。

ノルヴェルトが顔を上げて師を見ると、彼が妙な表情で自分のことを見ていた。

申し訳なさそうな、謝るような。
弱々しい笑みの浮かんだ剣士の顔。

眉根を寄せるノルヴェルトに、マキューシオはそっと、丁寧に言葉を紡ぐ。

「そうだな……君の言う通りだ」

静かに、受け止める。

「気持ちだけでは、救えないよ」

師の声は、とても穏やかだった。

「ただ闇雲に突き進んでも、己の身を傷付けるだけだ。気持ちがあれば良いというものではない」

その言葉にエルヴァーンの少年は『でしょう』という顔をする。
マキューシオはわずかに目を細めて微笑む。
言葉を続けた。

「だが、強さがあっても、気持ちがなければそれは同じことだ」

「同じ?」

瞬きするノルヴェルトに、ゆっくりと頷きを返す。

「そう、同じだ。それに……強さが優しさを生むことはなくても、優しさは強さを生む」

一息ついて、マキューシオは言葉を選ぶように続けた。

「ノルヴェルト。単純に強さを手に入れれば良いというものではないんだ。折角持っている優しさや思いやりを、恥ずかしがったり、捨てたりする必要はない」

諭すような声だった。

それを聞き、ノルヴェルトは複雑な顔で視線を落とす。
じっと考えた。

思い悩み、どうしても振り切れなかった感情を、絞り出す。

「……でも、みんなの役に立てないのは、本当に嫌なんだ…」

石の上で片膝を抱え込み、俯く。

「俺には何もできない。戦うことも、病気や怪我を治すことも」

蹲る少年は腕の中に顔を潜らせて口ごもる。

昼間の光景が、次々と蘇る。
あの姉弟。容易く動揺する自分。迷いなく動く戦士達。

震える肩に、そっと手が置かれた。

「ノルヴェルト」

顔を上げると、月明かりに照らされた師が静かに微笑んでいた。

「あの姉弟のことは気に病むな。私達はある程度癒す力を持ってはいるが……神じゃない。割り切らなければならないこともあるんだ」

その瞳に、わずかな陰りが宿る。
理想と現実の狭間で、常に前を向いて立つ者の痛みだ。

その痛みまでもが少年に伝わることがないよう、師は光を灯す。
ただし、現実を添えて。

「私達にできることは、彼女達を町まで無事に送ることだ。そこからは、彼女達の力で生きてもらうしかない。例え……そう長く時間が残されていなくても」

風が静かに言葉をさらっていく。
ノルヴェルトの肩から手を下ろし、夜空の月を見上げた。

「君の気持ちはよく分かった。けれどノルヴェルト、私には仲間達を護る責任がある。私は賢者でも猛者でもない。少しでも集中を欠くことは許されないんだ」

そこで、少しだけ口元が緩む。

「だから……あまり私を困らせるな」

そう言って、『いつも君のことが気掛かりで困る』と、ノルヴェルトの頭をくしゃりと撫でた。

「はっはっは! マキューシオの言うことを聞かないのは、スティユとお前さんくらいだよ!」

膝を叩いてドルススが笑う。
ノルヴェルトは再び複雑な顔をする。

子ども扱いされているようで気に入らない。
しかし、正直なところ、凄く嬉しかった。
怖いと震えていた心は落ち着き、体が軽くなったような気がする。

ノルヴェルトは、無力な自分を許す言葉が欲しくて堪らなかったのだ。

本人にはそのような自覚はまったくない。
だが――師は、その叫びを受け止めていた。

「焦らなくても、君は必ず強くなれるよ……」

微笑むマキューシオに対し、ノルヴェルトはどう反応したら良いものかと困惑顔になっていた。
気恥ずかしいような、嬉しいような、まだ何か足りないような……。

そこでふと、先程考えたことを思い出して『あっ』と顔を上げる。
『ん?』と首を傾げるマキューシオに、ノルヴェルトは迷いつつも口を開いた。

「……あ…あの…」

「どうした?」

「……マキューシオって、兄弟いるんですか?」

「兄弟?」

唐突な質問にマキューシオは目を瞬かせた。
少年が人の家族に興味を抱いていることに驚く。

そしてどこかで少し安心する。
あれから一年以上が経って、ついに家族の話題を持ちかけられるほどになったのだなと。

マキューシオはすぐに答えてやる。

「姉と弟が」

『いたよ』と続けそうになったが、咄嗟に言葉を切った。

「そう……なんですか」

少年は期待していた答えでも手元にあったのだろうか。
反応の悪さにマキューシオはいよいよ首を傾げる。

「うん? どうした?」

「はっは! おおかた、大兄弟の長男坊かと思ったんだろ」

ドルススの声にノルヴェルトは素直に頷く。
なるほどとマキューシオは眉を開いた。

そしてすぐに、少年が次に口にするであろう問いが脳裏を過ぎる。
感情の薄い笑みを浮かべ、ノルヴェルトが自分に視線を戻すのを静かに待った。

「そういえばノルヴェルト、ずっと気になってはいたんだが」

視線を戻した少年が興味の目で師を見上げたが、そこでドルススが問いかける。
二人してドルススを見ると、彼は若干しかめた顔で自分の白いたてがみを掻いていた。

「お前さん、親父さんはどうした?」

これまで、母と弟を獣人に殺され復讐心に憑かれていたノルヴェルトの前では、家族の話はタブーであった。
父親については、当然、この少年を保護した時にすぐ確認したかったことである。
だが、ノルヴェルトは父親に関して何も言わないし、もういないのかもしれぬと皆は察するだけに止めていた。

この問いを受けてノルヴェルトは最初きょとんとしていた。
なぜかぽかんとする少年の目は、朧げ。

「父さんは……多分、死んだと思う」

妙にあっさりとした声が言う。

「町があんなことになる二日前の朝に、騎士がうちに来たんだ。目が覚めて窓の外を見たら、門のところで騎士と母さんが話してて……その時の母さんの様子で分かった…」

結局母親は自分達には何も話さなかったけれど、自分も弟もそれを察した、と。
スラスラと、まるで行った祭りが大して面白くなかったと親に話す子どものように言う。

「親戚もあの日町から逃げ出せたとは思えないし……。だから……」

言葉が途切れる。
その背中は、あまりにも小さかった。

ドルススが低く『そうか』と呟く。

マキューシオは何も言わず、ただその背を見つめていた。
少年の叫びはその後ろ姿から充分伝わってきていた。

ここを追い出されたら他に行く宛なんてない。
天涯孤独なのだと。


「マキューシオの」


突然、ノルヴェルトは勢いよくマキューシオを振り返った。
だが、師を直視できない。

「家族はどうしてるんですか? 安全なところに?」

その時。
少年の瞳に垣間見えた微かな《期待》を――マキューシオは見逃さなかった。

それを受け、マキューシオは――
一度、目を伏せた。

ヒュームの剣士は首を横に振ると、静かな声で答えた。

「家族は皆、もういない」

――言った瞬間。
少年の目が大きく見開かれた。

「えっ……獣人に?!」

隠し切れずに《期待》を露にする少年。
マキューシオは穏やかな表情のまま、もう一度首を振る。

「私の家族は皆……事故で死んでしまった」

そう言いながら少年のことをじっと見つめる。

「……そう、なんですか……」

ノルヴェルトはわずかに肩を落とすと、ぎゅっと口を引き結んでいた。

その顔には、獣人への憎しみを分かち合いたいという色が滲んでいた。

仲間を見つけたと思ったのに、とでも言うような様子のノルヴェルトを見て、ドルススは頭を掻いている。


ドルススはマキューシオにも視線を送り、思案顔になった。


マキューシオはしばらくノルヴェルトを見つめる。
やがて、少年の名前を呼んだ。

「……理不尽に大切な人を奪われたんだ、憤る気持ちは分かる。だが、憎しみに囚われて自分を見失ってはいけない」

ノルヴェルトが見上げた先のマキューシオは、そのブラウンの瞳で真っ直ぐに少年の目を見つめていた。


「相手をどうするかじゃない。……君が、これからどうするかだ」


夜風と、月と、星と、暗闇が、その言葉を託された少年のことを見守っていた。



「ノルヴェルトー!」

そこで、戦士達のいる方向から少年のことを呼ぶ声が聞こえてきた。
三人が声の方向に視線を向けると、小さなワジジが大きな声で『セトが呼んでる』と叫んでいる。
どうやら彼はもう食事を食べ終えたようだ。

少し困ったような顔で視線を戻すノルヴェルトにマキューシオは頷く。
短気なワジジが遠くで絶え間なくぎゃあぎゃあ騒いでいる。

「い……行きます!」

ノルヴェルトは焦って返事を返すが、まだ行こうとはしなかった。

「マキューシオ、あの、俺」

ワジジの喚く声を気にしてじりじりと足をずらしながら言う。

「家族を殺されて、相手を許せる人なんて……いないと思います。ドルススとか、ワジジとかが獣人に殺されたらマキューシオは」

「お前でかいくせにノロマだぞー!!」

「――俺は! マキューシオが殺されたら嫌だ!! 絶対許せない!!」

もはや罵りに変わっているワジジの声に観念して駆け出しながら、ノルヴェルトは語気を強めて早口に言い捨てた。
小さな杖を振り回すワジジの元へ駆けていく少年の背中には――

『強くなりたい!』――と。

マキューシオとドルススには聞こえないが、先導して戦士達の中に入っていくワジジの口が少年に何か言っている。
ずばずばと切れ味の良い小言を言っているに違いない。
見えなくなっていく彼らを、二人は静かに見届けた。


いくつもの質素な焚き火の灯りが集まり、ぼんやりと明るい陣中。
その灯りから少し離れた、月明かりに頼った場所にマキューシオとドルススだけになる。


陣を眺めて沈黙していると、不意にドルススが笑いに似た息をつく。
彼の口から呟きが零れた。

「……事故、か」

ドルススは溜め息交じりにそう言って月を見上げ、次いでマキューシオを横目に見る。
マキューシオは何か言いたげな旧友と視線を合わせると自嘲気味の笑みを浮かべた。

「そう」

嘘はついていない、というような顔をして肩をすくめる。


「……“戦争”という、事故だ」


マキューシオの身の上を旧友であるドルススは知っている。
この獣人との戦争が始まる前の時代、アルタナの民同士で戦をしていた時代のことも。

ドルススはこのヒュームの旧友が、自分自身のことをあまり話したがらないことを知っていた。

ノルヴェルトに対しても、マキューシオはやんわりとかわすものだと思っていた。
先程はその手助けをしてみたつもりだったが……珍しいこともあるものだ。
すべてを教えはしなかったものの、彼が家族のことを少年に話したのは驚きだった。

「もう少し教えてやれば、ノルヴェルトの疑問も解いてやれたんじゃないのか?」

「まだ早いさ。彼には重荷になるだけだ」

「まぁ、間違いなくショックは受けるだろうな」

寂しげな薄い笑みを浮かべてマキューシオは頷く。

「まだ早い。……でも……いつか聞いてほしいとは思っているよ」

陣を眺めてぽつりと言うマキューシオ。

「……そうか」

ドルススはにっと笑って頷いた。

――さっきの問いの続きを、少しだけ考える。
だが、すぐに首を振った。

今さら聞くことでもない。

肩を並べて戦っている仲間を憎むかどうかなんて――くだらない。

「……で、さっきの、ノルヴェルトを抜かすかどうかって話だが~」

ゆっくりと膝を立てて立ち上がりながらドルススは切り出した。
『さっき』というのは、ワジジとスティユがいた先程のことである。
突然マキューシオが口にした、驚愕の議論について言っている。

「今確認した限りだと、俺は大丈夫だと思うぞ? ちょっと危うい部分も確かに感じられたがな」

重たい体を立ち上がらせ、太い腕を腰に当てる。

「でも、着実に俺達はノルヴェルトの【大切なもの】になれてきてるんじゃないのか? 復讐よりも魅力的なものにな」

ドルススは続けた。

「それが、俺達の役割だったんじゃないのか?」

ノルヴェルトが強さを求めるのは、果たして何のためなのか。
報復のために強さを求めることから始めた少年は、今現在、その趣旨が変わり始めている。
当の本人はまだ気が付いていないかもしれないが。

マキューシオ自身も少年の変化を感じてはいたが、表情に明るさはなかった。

「確かに彼は、少しずつ変わり始めている」

俯き加減で呟く彼の外套を夜風が撫でる。
一呼吸置き、はっきりと意思を固めたように青年は顔を上げる。

「しかし、ドルスス。私は……私達は、彼の大切なものになってはいけないとも思うんだ」

あらゆる現実を見てきたブラウンの瞳が、真っすぐにドルススを見つめた。

「ノルヴェルトの大切なものになるには、私達は儚い」

その言葉にドルススは目を丸くする。
そして温かみのある声で笑った。

「はっはっは! 大将がそんな弱気では困るぞ、マキューシオ」

陽気さで包もうとする旧友に、マキューシオは痛みを抱えた目をした。

「ドルスス、君も分かるだろう? 私達はとても脆い。彼の“希望”には相応しくないんだ」

マキューシオは背負う者の言葉で、自らに突き付けるように、説く。

「今日も本当に危ないところだった。結果は上手くいったが、こちらにも犠牲は出ている。今日の数名がいつ大半になってもおかしくない。だから私達はノルヴェルトの中であまり大きな存在になっては……。彼に選択させるには、今しかない」

「ノルヴェルトは間違いなく俺達を選ぶよ」

よりはっきりとした声でドルススは言い切った。

「それは、お前さんもよく分かってるだろう?」

夜の湿った空気が、荒野の風に流されていく。
陽気さで誤魔化さないドルススの声は、真っ向からマキューシオに向いた。

「お前さんはノルヴェルトを救いたかったんだ。自分みたくなってほしくなかったから。そうだろう?」

顎を擦りながら、ドルススは太い腕を胸の前で組むと一つ溜め息をつく。

「最初にノルヴェルトを仲間として迎えるかどうか議論した時、お前さんは迎えるに反対だったな。賛成は俺とスティユだけだった。だが、お前さんは結果的にノルヴェルトを迎えると決断した」

遠くの焚火の一角で、くつろぐ戦士達が一瞬沸き立つのが聞こえた。

「おかげで、あいつは今生きてるんだと、俺は思っているがね」

厚い胸板を張ると、ドルススは心底自信のある笑みを浮かべた。

普段、マキューシオは仲間達の前で弱音など吐いたりしない。
しかし、どうもドルスス相手だと時折出てしまうようだ。

今もまた後ろ向きな自分が出てしまったと、マキューシオは頭を掻いた。

――いつもそうだ。

歩みを止めかける度に、背中を押してくれるのは仲間達だった。

皆は、マキューシオの“希望”に惹かれてついてきたと言う。

だが――違う。

自分が“希望”なのではない。
道を照らしているのは、仲間達の方だ。

マキューシオは苦笑を浮かべた。
そして、空に浮かぶ丸い月を見上げて目を細める。

「……私達との出会いは、彼にとって良いものだったと思うか?」

落ち着いた声で静かに問う。
何かを思い出しているような横顔だった。

ドルススは息をつき、唇の端を吊り上げる。

「ノルヴェルトの顔を見れば一目瞭然、だな!」

やれやれという仕草を見せるドルスス。
マキューシオは小さく笑った。


「……ありがとう」


小さく礼を言ったあと、マキューシオはしばし黙り込んだ。

彼が案じているのは――
いつ消えてしまうか分からない自分達が、少年の中で大きな存在になってしまうことだけではない。

それ以上に。

仲間達の知らない、自分自身の問題が、
確実に未来へ影を落としていた。

確かに、ノルヴェルトのことは救いたかった。
自分と同じ過ちを犯してほしくなかった。

だが――
いつまでも近くに置けば、逆に似てしまうのではないか。

その考えが、離れない。


彼には、もっと良い師が必要だ。

自分の過去を重ねて見てしまう人間ではなく。

いつか、少年を――
己の中に燻る憎悪の対象にしてしまうかもしれないような、
そんな自分ではなく。

彼から恐怖と悲しみを拭い去り、
心から笑顔にさせてやれる人間が。


「やほーーー二人共ー! ご飯食べなー!」

陣の方から声が聞こえた。今度はセトの声。
薪の束を脇に抱えて大きく手を振っている彼女に、ドルススが大きな声で返事をする。
思考に耽っていたマキューシオは神妙な顔に穏やかさを取り戻し、口を開いた。

「私はもう少しここにいる。君は先に行っててくれないか」

振り返ったドルススは眉間にしわを寄せる。

「あんまり自分を後回しにしてると、スティユにどやされるぞ?」

にっと笑って意地の悪い声で言う。

「早く来いよ」

片手を上げて踵を返す。

「あぁ」

のしのしと陣に向かって歩いていく背中を見送る。

――不意に、ドルススが足を止めてマキューシオを振り返った。


「もっと望めよ、マキューシオ」


マキューシオは不意打ちを食らったような顔をしてまじまじと彼を見た。
ガルカのモンクは拳を掲げてみせると、声を出して笑いながら陣中へと去って行った。

マキューシオに伝えたいことすべてを、ドルススはその一言に込めた。
旧友との間柄、長々と言葉にするのは野暮だ。


陣の方向から吹く、戦士達の賑わいを乗せた風。
マキューシオの黒髪が揺れる。

きっと、スティユがやきもきしているのを見掛けたセトが、気を回して呼びに来たのだろう。
呼びかけてさっさと陣の奥へ引っ込んだセトの様子を見て、そう思う。

スティユにもいつも助けられてばかりだ。
彼女はよく気が付く。そしてとても賢い。

はつらつとしたセトにも。
向こう見ずなワジジにも。
信じて戦ってくれる多くの戦士達にも。
いつも救われてばかりだ。

皆が自分に見ている“希望”は、
皆の“光”が反射しているに過ぎない。

戦士達の声が遠くに聞こえる。
その場に一人立ち尽くす。

ふと、夜空を見上げた。
ちかちかと小さく瞬く星が散りばめられている。


「…………フィルナード」

夜空を見上げたまま、ぽつりと口にした。

「聞こえているなら、何処にいるか教えてくれないか?」

言って、戦士達のいる方向に背を向けて立つ。
ゆっくりと辺りを見回す。

辛抱強く待つ。
すると、離れた岩の向こう側で何かがきらりと光ったのが見えた。

大きな鎌がゆらりと揺れ、漆黒の身を月明かりの下に現す。
その鎌はマキューシオが向き直ると、すぐにまた岩の向こう側に沈んで消えた。

大鎌が姿を現した岩をじっと見つめ、口を開く。

「私の教える護る剣と、君が教える殺す剣を糧に、ノルヴェルトは必ず強くなるだろう」

微かに冷たい風が吹き、マキューシオの外套を揺らした。
ぼんやりとした月明かりの下に一人立ち、ふと陣の方を見つめて目を細める。

戦いを乗り越えたことに喜び、夢を語り、励まし合ういくつもの焚き火。
その灯りの中にいるであろうエルヴァーンの少年のことを考えながら、独り言のように呟く。


「ただ……私の剣では、自分の身を護れない」


穏やかな口調で言いながら、腰に下げている細身の剣を見下ろし柄を握る。
少年の真っ直ぐな瞳と正直な顔が脳裏を過ぎり、ふと微笑を浮かべた。

「……将来……君の剣が、彼を護る」

そう告げて、もう一度漆黒の鎌が煌いた岩を見つめる。
悲しげに微笑んだ。

もっとも、岩の向こう側に座っているエルヴァーンの騎士にその表情は見えていない。

マキューシオは安堵したような小さな溜め息をつく。

「よろしく頼む」

呟き、踵を返した。


すると、マキューシオを陣中から駆け出したノルヴェルトが迎える。

「マキューシオ! あっちで二人が待ってますよ」

「二人?」

「ドルススとスティユ」

『あぁ』と納得した声を漏らすマキューシオの前に立ち、『こっちです』とノルヴェルトが先導する。

少年は何度も振り返った。
早く、と言わんばかりの眼差しに、マキューシオは微笑して後を追う。

「ノルヴェルト、どうしたんだ? そんなに急いで」

「ドルススが、今日の作戦のこと詳しく教えてくれるって!――あ。……それにはマキューシオを呼んできてほしいと言われました」

興奮気味の少年が説明しながら向かう先に、二人の姿が見えた。
安堵した顔のスティユと、焚き火の灯りに照らされたドルススの笑み。

その光景に、マキューシオは目を細めた。
点々と並ぶ焚き火の間を抜けながら、幸せそうに微笑んだ。



今宵はあの夜と同じ、満月。
陣の喧騒が遠のく岩陰で、フィルナードは思い出していた。
あの少年と出会った夜のことを。

闇に身を溶かそうにも、月は明るく、焚き火すらいらぬほどだった。

岩に背を預け座り込むエルヴァーンの騎士。
去っていった男の言葉を反芻する。

「……ふん……勝手なことを……」

吐き捨てると、それきり口を閉ざした。
ただ一人、夜の風に耳を澄ませる。

悲壮な剣士を哀れむことはない。

だが――
もし神がいるのなら。

あの剣士の歩む道に、風を吹かせてやるのも退屈しのぎになるだろう。

今宵のような、心地良い風を。



<End>

あとがき

『思い出よ、永久に美しく ~大切なもの~』でした。
この番外はマキューシオのためのものだと思っています。
第二章は基本ノルヴェルト視点だったので、見えなかった彼の本音がここにあります。

彼は頑固で、少し、背負い過ぎてしまったよね。
子が親を追うかのようにマキューシオを探し求めるノルが、愛おしく切ない。

読んでくださった皆様、ありがとうございました。
一言感想など聞かせていただけたら嬉しいです。