~大切なもの~
あたり一面真っ白だった。黄色掛かった土気色の白。
一メートル先もろくに見えない中、マキューシオはチョコボから降りた。
降りた時の振動で腕の傷が痛み小さくうめき声をもらす。
ローブの中に口元まで沈みこんだ状態のワジジもチョコボから飛び降りる。
地面に降り立つと、年配者のような咳を何度か繰り返した。
マキューシオは腕に刺さっている矢を掴むとぐっと口を引き結び―――一気に引き抜く。
矢を捨て、その場に屈み込むマキューシオの隣でワジジが素早く回復魔法の呪文を結ぶと、治癒の光がマキューシオの腕に灯る。
ふぅと息をついて『ありがとう』と辛そうな顔に笑みを浮かべ、マキューシオもまた何度か押し殺したような咳をした。
魔法の詠唱をしたワジジは飛び跳ねて咳き込んでいる。
岩壁の崩壊がひと段落したところで、彼らは西には戻らずに途中でチョコボを止めた。
予定より威力が劣ったせいか、若干亀裂の入り方が狂った為、東向きとは別の崩れが起きた。
マキューシオ達は退避が遅れたものの幸い巻き込まれずに済んだが、おかしな崩れ方をしたので獣人を殲滅できたのか不安が残っている。
まだ東側に微かな気配を感じるような気がする。杞憂だと良いのだが。
「えほっ、エアロでも派手にぶっ放ってこの砂煙ふっ飛ばすか!?」
杖をぶんぶん振り回して言うワジジに対し、マキューシオは首を振って立ち上がった。
「逆に巻き上げてしまう可能性があるな」
とは言うものの、砂煙が治まるまで待っているというのも得策ではない。
もし生き残った獣人がいたとしたら、砂煙が治まる頃には確実に難民達の元まで到達してしまう。
難民が巻き込まれることだけは絶対に避けなければならない。
まるで薄いカーテンがゆらゆらと何枚も重なっているような視界の谷間で、どうするのかと足元で騒いでいるワジジに対して口に指を当てて静寂を促した。
視界が悪いのは獣人達も同じことだが、わざわざ居場所を教えることもない。
マキューシオが周りの揺らぐ視界に目を凝らすと、とつとつという定期的な足音が近付いてくることに気がついた。
音が聞こえる正確な方向を必死に予想し、腰の剣にゆっくりと手を伸ばす。
砂埃の天幕の向こうから現れたのは、チョコボに跨ったフィルナードだった。
低く構えを取っていたマキューシオは目を見張って背筋を伸ばす。
「くく…………お前は地の学もあるのか?」
現れるなり口元に歪んだ笑みを浮かべて言うフィルナード。
マキューシオは安堵の表情を浮かべると、傷を塞いだばかりの腕を曲げ、肩をすくめる。
「いいや、地の学などは。父が工夫だったくらいだな」
「ふん、充分だ」
「フィルナードが自分で動くなんて珍しいな!」
ローブに口までずっぽり埋まったワジジがこもった声で言うと、フィルナードはゆっくりとチョコボから降りる。
マキューシオは彼の登場に安堵した様子で、自分の外套に刺さったままになっている数本の矢を引き抜いて足元に捨てた。
「残党がいる。俺が処理しよう」
フィルナードがぼそりと言う。自分が乗ってきたチョコボの手綱をマキューシオに差し出す。
『こいつはもう要らん』と言うフィルナードの顔をまじまじと見るマキューシオ。
フィルナードの表情は相変わらず、長い黒髪のせいで正確に読み取れなかった。
「おいおいおい一人でやるってのかぁ!?」
戦闘が始まって以来ずっとテンションが上がりっぱなしのワジジが素っ頓狂な声で言う。
視界が悪くて敵の数も分からず、どうしたものかと考えていたというのに何を言い出すんだという声だ。
そのワジジの言葉に対して特に反応を示さずに、フィルナードは空いた手をゆっくりとした動作で腰に伸ばす。
そしてベルトの後ろに携えていた大きめのダガーを引き抜いた。
フィルナードは背に負った漆黒の大鎌だけでなく、いくつもの武器を携帯している。
それは恐らく、大きな獲物である鎌には不利な状況でも、相手を逃がさずに確実に仕留める為。
ダガーを引き抜いたフィルナードが何をするのかと二人が見ていると、突如フィルナードの黒い外套がずばっと翻った。
その瞬間、砂埃のカーテンの中に何かが飛び込んでいくのが見え、それから一拍置いて、離れた場所からクゥダフの悲痛な呻き声が響いた。
「………どうやらここは俺の舞台のようだ」
ダガーを放ち砂煙の向こうにいる獣人に挨拶をしたフィルナードは、笑いを噛み殺したような低い声で言うと再度手綱をマキューシオに差し出す。
「俺にしかできないことくらい、俺にやらせろ」
この時、ゆらりと黒髪を揺らすフィルナードの口元は笑ってはいなかった。
じっとフィルナードのことを見つめて黙るマキューシオ。だが決断は早かった。
差し出されているチョコボの手綱を受け取る。
「……一人でいいのか?」
「マキューシオー?!」
「逆に、他がいると邪魔だ」
「分かった、この場はフィルナードに任せる」
『私達は西に戻ろう』と言いながら、フィルナードから譲られたチョコボに跨る。
ローブの中で不満だらけの顔をしたワジジは『しょうがねぇなー!』と言いながら、手綱を引っ張ったのを合図に身を低くしたチョコボの背中に飛び乗った。
「西側の奴らも、一匹残らず殺しておけ」
騎乗した二人から先に広がる砂埃の中に視線を移してフィルナードが呟く。
何故彼がそんなことをわざわざ言ったのか、マキューシオにはすぐに察しがついた。
逃がせば、獣人軍の本隊にこちらの情報が届き、軍隊規模であちらからマークされる可能性が高い。
そしてもう一つ、それに加えて。
マキューシオには逃げる者を追ってまで殺すことは望まない傾向がある。
そのフィルナードの釘を刺すような言葉を聞き、マキューシオはふっと無表情になった。
たった今まであった何かを捨てたかのように、顔から表情が消えた。
「………あぁ、分かっている」
「それと」
チョコボを駆け出させようとするマキューシオを、すぐにフィルナードの声が引き止めた。
「ガキもこっちに向かってきてる。連れ戻せ」
「何」
「ガキィ?あぁノルヴェルトか!!」
すぐ気がついたようにワジジが言う。この場に本人がいたら間違いなく不機嫌な顔をしただろう。
ぱっと西側の煙霧の中に目を凝らしてから二人がフィルナードへ視線を戻すと、ゆっくりとした足取りで白んだ砂煙の中に消えていく彼の背中が見えた。
遠く離れた東側の場所で、また少し岩が崩れ落ちたような音が低く響く。
「………フィルナード……ッ」
不意に、今度は西側から苦しげな声が聞こえた。
こっちに来ているとフィルナードが言っていた少年の声。
「ノルヴェルト!こっちだ」
まだ砂埃が濃く漂っている中で、なるべく埃を吸い込まないように抑えた声でマキューシオが呼ぶ。
すると砂煙の向こうから、不安から解放されたような気配。
やがて一羽のチョコボが姿を見せた。
当然、その背中にはノルヴェルトが乗っている。
「二人とも無事だったんだっ、良かった!」
「何でお前がこっちに来てんだ?」
ワジジのストレートな言葉が、安堵の表情を浮かべているノルヴェルトに突き立てられた。
微かに笑みすら浮かべていたノルヴェルトは、ぎょっとした顔をすると慌てて師を見る。
マキューシオは何も言わず、口を引き結んでノルヴェルトの言葉を待っていた。
素直に困った顔をする少年は数回口を開閉してから言葉を絞り出す。
「その………俺はフィルナードの補佐…だから……だから…」
そこまで言うと顎を引いて口の中でぶつぶつとその先を続ける。
「早く戻ろうぜぇマキューシオ!」
ノルヴェルトの言い訳などには心底興味のないワジジ。
戦線に戻りたくて堪らない様子で、マキューシオを振り返ると手綱を波打たせた。
先にチョコボを駆け出させるワジジにマキューシオは『あぁ』と短く言葉を返す。
ワジジがすぐ横を通って西に向かうのを視線で追い、すぐにマキューシオへ視線を戻したノルヴェルトは何かを言いたそうな顔をしている。
――――――ドギュッ。
いきなり、二人の左側から妙な音が聞こえた。
その直後、何かが地面に倒れる音。
ノルヴェルトは敵に直面した野生動物のように一気に緊張して身を硬くした。
どうやらフィルナードが始めたようだ、残党狩りを。
「マ……!」
「こちらはフィルナードに任せてある。私達は西に戻るぞ」
周囲で始まっている見えない狩りをどうしても見たいというように、ノルヴェルトは必死に辺りを見回して歯噛みしている。
「マキューシオ、俺も」
「君は戻りなさい」
いきり立った声で言いながらチョコボを降りようとするノルヴェルトの横を通り過ぎ、マキューシオは抑揚のない声ではっきりと言った。
ノルヴェルトを置いて西にチョコボを歩かせ始めたマキューシオの背中を、少年は強い視線で見つめる。
「お願い!お願いですマキューシオ!」
思わず声を張り、埃を吸い込んで激しく咽るノルヴェルト。
チョコボの上で前屈みになって咳き込む少年の後方で、クゥダフの断末魔が響いた。
砂埃のせいで何も見えない周囲のあらゆる距離、方向から、フィルナードの存在が数秒置きに聞こえる。
獣人の悲鳴と、何かをぶちまける音。地面に重い何かが倒れる音。
自分も戦うと言うくせに恐々と周囲に視線を漂わせるノルヴェルトは、一瞬、自分から東側の埃の揺らめきの合間に獣人の姿をその眼に捉えた。
そしてその瞬間の少年の表情は、マキューシオの胸に重く、鈍痛のような衝撃を与える。
ずっと捜し求めてきたものを、見つけた眼。
鋭く、重く、激しい何かを宿した。
年若い少年が日常を生きる中で通常生み出し得ない表情。
「ノルヴェルト」
一瞬だけ見えた獣人の姿に釘付けになったノルヴェルトが、思わず獣人から視線を引き離してしまう程の悲しげな声が呼んだ。
どうしたのかと少年が目を向けると、その声とはかけ離れた顔をした師がいた。
今にも少年を怒鳴りつけそうな目をしたマキューシオ。
「指示が聞けないのなら抜けてもらう」
何処か凄みのある声色で放たれたその言葉。
少年はあっという顔をすると、手綱を握り締めている自分の手に視線を落とした。
それからそのまま数秒の間を置き、恐怖を表情に出したノルヴェルトは『ごめんなさい』と呟く。
ノルヴェルトは只ならぬオーラを纏った師に恐怖したが、勿論それだけではない。
マキューシオが口にした『抜けてもらう』という処遇が衝撃的だった。
ただの脅しで言ったのではなく、彼の中には本気でそういう選択もあるのだと直感したのが、尚の事ショックだった。
頭を垂れて謝るノルヴェルトを、マキューシオはしばしそのままじっと見つめた。
少年が恐る恐る視線を上げ、師と目が合い肩を震わせる。
それを切欠にしたようにマキューシオは無言のままチョコボの向きを変えた。そして西へ。
ノルヴェルトは慌てて彼に続いた。
二人が戻った頃には、西側はドルススの指揮の下、圧倒的な勝利を収めていた。
ばらばらと完全に足並みを乱して逃げ散る獣人達。
ドルススは、その獣人達を逃がした場合に生まれる後の危険を心得ていた。
逃がさぬよう指示を吼え、西側にいたクゥダフ達の殲滅を遂行する。
やがて戦闘を終えた戦士達が難民達の元に戻り、互いに勝利を喜び、被害の確認。
その頃には谷間を曇らせていた砂煙は落ち着き始め、マキューシオと数名がチョコボに跨り東側の様子を確認しに向かう。
東は瓦礫によって盛大に塞がり、動かない獣人達が岩々の下敷きになって沈黙していた。
そして、その手前の地面には所々に獣人の体が転がっている。
まだ若干砂埃で霞んでいるその場所の隅には、黒い外套に身を包んだ男がじっと腰掛けていた。
* * *
その後、一団は谷から出ると南に回り、東へと移動した。
戦士達は大規模な戦闘の疲れを背負っているし、早いところ何処かに落ち着いて難民達の処置をせねばならない。長距離は移動できなかった。
川の傍にある大きな丘の影に陣を張ることを決め、戦士達は野宿の準備に取り掛かった。
夜の冷えが来る前に再び難民達に毛布を配り、質素なものであるが食事を配給する。
隅々まで指示を出さずとも、戦士達は自分に出来ることを見つけ、自ら動いた。
そして難民達の方がひと段落つくと、手が空いたものから休憩に入り食事を取る。
ノルヴェルトはセトの良い使い走りにされ、チョコボの世話をし、物資が積んである場所をうろうろしていたところでスティユに声をかけられた。
もう座って一息つくように言うと、彼女は少年にスープとパンを手渡す。
礼よりも先に口にしたいことがあったノルヴェルトは、すぐに去ろうとするスティユを呼び止めようとした。
しかし、ようやく休憩に入れた若い戦士達のグループに絡まれ、それは叶わなかった。
その戦士達と一つの焚き火を囲んで座った。すっかり日が暮れていた。
溜息をつきながら、最も重い胴体の鎧を外して傍らに置く戦士達。
ノルヴェルトはその様子を見て何故か慌てて自分も鎧を脱ぐと、辺りを見回す。
態勢は大分整ったようだ。夕暮れ時には全員が右往左往していたが、今は多くの戦士達が腰を下ろしている。
ノルヴェルトは首を伸ばして周囲を探った。
他の戦士達と同様に、ノルヴェルトも先程までずっとあちこち走り回っていた。
それなのに、その間一度もマキューシオの姿を見かけなかったのが気になる。
先程スティユを呼び止めたかったのは師について聞きたかったからだ。
きょろきょろしていると周りの戦士達が不思議がった。
ノルヴェルトは首を横に振ると、のろのろと食事を始める。
大概、今宵のような戦闘後の夜には、マキューシオは自分の勤めがひと段落つくと少年の顔を見に来る。
そしてノルヴェルトの疑問や、腑に落ちないという訴えに耳を傾けて共に時間を過ごしてくれるのだ。
頭上から自分を呼ぶ声が聞こえた場面を想像しながらスープを口にすると、周りの戦士達の話題が耳に入ってきた。
「今考えてみりゃ絶体絶命だったよなぁ」
マキューシオの指揮がなければ今頃皆死んでいた、と。
頷き合う戦士達は誇らしげで、声は一日の仕事を終えた労働者のように爽快だった。
あのまま退き続けていたら包囲されてアウト。
谷に逃げ込んでただ応戦していても結局は挟み撃ちにされてアウト。
聞いていると、まるでスポーツ観戦後の会話のようだった。
そんな風に話しているが、怖くはなかったのか?これっぽっちも?
スープに口を着けたまま上目遣いになって目で問う。
もしあの作戦の何処かでミスがあり失敗したとしたら、それこそ皆死んでいただろうに。
ノルヴェルトはふとそう思うと背中が寒くなった。
若い顔に顎鬚を生やした向かい側に座っているエルヴァーンは、パンを頬張りながら、不意に『マキューシオは俺のお袋に似てる』と言い出す。
それに笑って突っ込みを入れる周りの連中は焚き火の炎よりも明るい。
そのエルヴァーンが自分の母親に纏わる話を熱く語り始めるのを、ノルヴェルトは上の空で聞いていた。
マキューシオが母親に似ているとはどういうことなのか。
周りの戦士達と同じように疑問に思うが、案外、分かるような気がしてきた。
しかしどういうところが母親的なのだろう。マキューシオは男であるというのに?
母というよりは父や兄と言う方が自然なのではないだろうか。
マキューシオのあの落ち着きと面倒見の良さは、彼が育った環境によって培われたものかもしれない。
例えば、大人数の兄弟の長男だったとか…。
ふと、師の家族のことを考えてみたら、昼間の姉弟のことを思い出した。
もう二度と立ち上がることのできない足をした姉と、健気な幼い弟。
姉の状態を鮮明に思い出したノルヴェルトは急に怖くなり、再び辺りを見回した。
こうして若い戦士達の輪に入っていたら、師は自分を見つけにくいかもしれない。
黙々と進めていた食事は気が付くと終わっていて、戦士達は食後の談笑に入っている。
話題は完全にお互いの家族の話に移行したようだ。
皆、寂しさの上に笑みを塗りたくったような顔をして大声で喋っていた。
座ってから結構時間は経っている。もう勤めはひと段落していてもいい頃なのに。
一向に姿の見えないマキューシオを目で探しつつ、代わりにあの妹弟を見つけてしまうのではないかとノルヴェルトは恐れた。
何故恐れたのかと言えば、もう一度あの姉弟と顔を合わせる勇気が、ない。
どんな顔をすればいい?何を話したらいいのかなんて見当もつかない。
やがて一人になるであろう弟に励ましの言葉を?―――言えるわけがない。
姉の少女を抱き上げた時のぬくもりを思い出し、怖くて堪らなくなった。
ノルヴェルトはスープの器を置いたまま無言で立ち上がると、戦士達の疑問の視線を一身に浴びながらその焚き火の輪から駆け出した。
* * *
戦士達が囲んでいる焚き火が転々としている辺りから、少しばかり離れた場所。
マキューシオとドルスス、スティユ、ワジジはいた。
彼らを月明かりがぼんやりと照らしている。その場に焚き火はない。
月明かりの下で何か議論をしている様子の彼らは皆、真剣な顔をしていた。
何を話しているのか予想は付かなかったが、ノルヴェルトは弾んだ息の中から師の名前を呼ぶ。
すると、三人がぱっと顔を上げて駆けて来る少年を見る。
小さめの岩の上に腰を下ろしているマキューシオは、遅れて、ゆっくりと振り返った。
「ノルヴェルト、どうしたの?」
マキューシオが口にすると思っていた台詞をスティユが言った。
それに少し戸惑い、息苦しさを時間稼ぎに利用して四人の様子を眺めた。
何の話をしていたんだろう。
「……そう…あの、ちょっと気になることがあって」
妙に静かな場の空気に耐えられなくなって、ノルヴェルトは苦し紛れに切り出した。
スティユが『気になること?』と小首を傾げるが、相変わらずマキューシオは無言だ。
ノルヴェルトとスティユのやり取りを傍観するつもりなのか、話に入ってこない。
「難民の中にいるヒュームの……その……姉弟のことなん、ですけど」
「あぁ、セトから聞いたよ」
どっしりと地べたに胡坐をかいているドルススが頷きながら言う。
「俺もさっき見たけど、姉ちゃんの方はもう長くないぞあれは」
「ワジジ……そういう悲しいことははっきり言わないで」
肩を落としてワジジを誡めるスティユは、座っていた岩の上からたんと降りる。
「そう、あなたも気になったのね。昼間も色々とあったみたいだけれど……。お疲れ様、ノルヴェルトがいてくれて助かったわ」
凛々しい顔付きのスティユがふわりと笑い、ノルヴェルトは何だか恥ずかしくなって下を向いてしまった。
ノルヴェルトの年頃では、褒められたり感謝されたりするのは何処か恥ずかしいものである。
少年が足元に視線を落として押し黙っていると、姉弟の様子を見てくるというスティユの声が聞こえた。
「あ、俺、飯食いたいぞ」
ノルヴェルトが顔を上げると、難民達の元に足を向けたスティユの後にワジジが続いている。
ワジジは食事がまだだったらしい。もしや他の三人もまだなのだろうか。
思いながら、去っていく二人を見送りノルヴェルトはひやっとした。
スティユと一緒に行かないのかと尋ねられたら、どう答えればいいのか分からない。
姉弟に会う勇気が無いなんて言えないし、他に何を言っても言い訳がましく思われるだろう。
自分から言い出したことなのにいきなり話題を変えることもできず、ノルヴェルトはその場に突っ立ったまま動けなくなってしまった。
段々と疑問の色を浮かべるドルススの眼差しに肝を冷やしながら、上目遣いに師のことを一瞬だけ盗み見ると口を噤む。
――――マキューシオ、どうして何も言ってくれないの。
「…………どうした?」
マキューシオはきっと怒っているんだ、昼間のことで。
そう思い当たった瞬間に、いつものマキューシオの優しげな声が聞こえる。
被害妄想かもしれないが、先程は師の眼差しに少し冷たいものがあったように思えた。
しかし視線を上げて見てみると、マキューシオは何かを観念したような顔をしている。
何故そんな顔をしているのか分からなかったが、師の優しい声を聞いて、そんな疑問はビクついた気分と一緒に何処かにすっ飛んでしまった。
「あのっ………あの時は、ごめんなさい」
今言わなければ!と慌てたノルヴェルトはそう言うと、あっと口に手を伸ばしてから『すみませんでした』と言い直す。
自分の言葉遣いを気にしている様子の少年を見て、マキューシオは小さく溜息をつく。
手招きすると、ノルヴェルトを近くの石の上に座らせた。
満面に『許して』と書いてある少年の顔を間近で見たマキューシオは眉を開く。
ドルススは拳を口元に当て、少年に気付かれないように必死に笑いを堪えていた。
「君は、とても素直だな」
目を細めて微笑むマキューシオに『全くだ』とドルススは笑いの滲んだ声で同意する。
自分がどんな顔をしているのか見えていないノルヴェルトは眉を寄せた。
「それに、君はとても優しい」
言葉を噛み締めるようなゆっくりとした口調で言うマキューシオは続けた。
「……だから、自ら憎しみに身を浸すことはない。修羅になろうとするな、ノルヴェルト」
『君は君のままで良い』という師の髪を、月夜のそよ風が揺らす。
ノルヴェルトはきょとんとしてマキューシオの顔を見つめ、やがてきゅっと口を噤むと目線を明後日の方向に逸らす。
何か思うことのある顔をしている少年を、二人はじっと見守る。
「…………優しいとか、そういうの恥ずかしいよ」
非常に言いにくいことだが言いたくてしょうがないというような様子で呟く。
「今の時代には、優しさなんてあったって、しょうがない…です。必要なのは強さでしょう?」
眉をしかめて確認するような口振りでマキューシオを伺うノルヴェルト。
そんな小生意気なことを言う少年を見て、ドルススはにかっと笑い、マキューシオは首を傾げる。
「気持ちだけじゃダメだって、マキューシオも思うんでしょう?セトから聞きました」
そこでマキューシオは『あぁ』と思い出したような声を漏らして少し困った顔をした。
「僕は……俺は強くなりたいんです」
ぎゅっと拳を作って足元を見つめ、徐々に目付きを厳しくする少年。
マキューシオは真剣な顔をしてじっと見つめ、少年に視線で問うた。
それで、強くなって―――どうしたい?
その眼差しに気が付いていない様子のノルヴェルトは、唸るような声で言う。
「早く強くならないと、今度はみんなを……」
少年は最後まで言い切ることはできなかったが、マキューシオは目をしばたかせた。
ふとドルススに目を向けると、ドルススは満足そうに笑って肩をすくめる。
『ほら、やっぱりな』とでも言うようなドルススの笑み。
マキューシオは溜息にしては気の抜けた息を付くと首を摩った。
ノルヴェルトが顔を上げて師を見ると、彼が妙な表情で自分のことを見ていることに眉を寄せる。
申し訳なさそうな、謝るような、弱々しい笑みの浮かんだマキューシオの顔。
「そうだな……君の言う通りだ。気持ちだけでは救えないよ。ただ闇雲に突き進んでも、己の身を傷付けるだけだ。気持ちがあれば良いというものではない」
落ち着いた口調で言うマキューシオに対し、エルヴァーンの少年は『でしょう』と言うような顔をする。
「だが、強さがあっても、気持ちがなければそれは同じことだ」
「同じ?」
「そう、同じだ。それに、強さが優しさを生むことはなくても、優しさは強さを生む」
ふうと一息ついて、少し考える顔をしてから続ける。
「ノルヴェルト、単純に強さを手に入れれば良いというものではないんだ。折角持っている優しさを、思いやる気持ちを、恥ずかしがったり捨てたりすることはないんだよ」
ゆっくりと諭すように言うマキューシオ。
彼の言葉を聞き、ノルヴェルトは非常に複雑な顔をすると視線を落としてじっと考えた。
「………でも、みんなの役に立てないのは、本当に嫌なんだ…」
腰掛けている石の上に、片足を上げて膝を抱え込む。
「俺には何もできない。戦うことも、病気や怪我を治すことも」
蹲る少年は腕の中に顔を潜らせて口ごもる。考えているのは昼間のことだ。
あの姉弟のこと。容易く動じる自分。各自マキューシオを信じ尽力する戦士達。
ぎゅっと目を閉じて蘇る光景に震えている少年の肩に、マキューシオの手が置かれた。
「ノルヴェルト」
顔を上げると、月明かりに照らされた師が微笑んでいた。
「あの姉弟のことは気に病むな。私達はある程度癒す力を持ってはいるが、神じゃない。割り切らなければならないこともあるんだ。私達にできることは、彼女達を町まで無事に送ること。そこからは、彼女達の力で生きてもらうしかない。例え………そう長く時間が残されていなくても」
ノルヴェルトの肩から手を下ろして、マキューシオは夜空の月を見上げた。
「それから、私達の力になりたいという君の気持ちはよく分かった。けれどノルヴェルト、私には仲間達を護る責任がある。私は賢者でも猛者でもない。少しでも集中を欠くことは許されないんだ。だからあまり私を困らせるな」
『いつも君のことが気掛かりで困る』と、マキューシオは笑いながらノルヴェルトの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「はっはっは、マキューシオの言うことを聞かないのは、スティユとお前さんくらいだよ!」
膝を叩いてドルススがそう笑うと、ノルヴェルトは再び複雑な顔をする。
子ども扱いされているようで気に入らなかったが、正直なところ凄く嬉しかった。
怖いと震えていた心は落ち着き、ほっとして体が軽くなったような気がする。
ノルヴェルトは意識していなかったが、無力な自分を許す言葉が欲しくて堪らなかったのだ。
「焦らなくても、君は必ず強くなれるよ……」
あまり撫でているとノルヴェルトが嫌がると思い、そう言って締め括るとマキューシオは少年の頭に置いた手を下ろす。
横に立ってにこと微笑んでいるマキューシオをちらちらと見上げて、ノルヴェルトはどう反応したら良いものかと困惑顔になっていた。
そこでふと、先程考えたことを思い出して『あっ』と顔を上げる。
『ん?』と首を傾げるマキューシオに、ノルヴェルトは迷いつつも口を開いた。
「……あ…あの…」
「どうした?」
「……マキューシオって、兄弟いるんですか?」
「兄弟?」
唐突な質問にマキューシオは声のトーンを上げて目をしばたかせた。
少年が自分の家族に興味を抱いていることに驚いた。
そして何処かで少し安心する。あれから一年以上が経って、ついに家族の話題を持ちかけられる程になったのだなと。
「姉と弟が」
『いたよ』と続けそうになったが、咄嗟に言葉を切った。
「そう…なんですか」
「うん?どうした?」
「はっは!大方、大兄弟の長男坊かと思ったんだろ」
ドルススの声にノルヴェルトは素直に頷く。
なるほどとマキューシオは頷くが、少年が次に口にするであろう問いを予想して感情の薄い笑みを浮かべ、彼が自分に視線を戻すのを静かに待った。
「そういえばノルヴェルト、ずっと気になってはいたんだが」
視線を戻した少年が興味の目で師を見上げたが、そこでドルススが問いかける。
二人してドルススを見ると、彼は若干しかめた顔で自分の白い鬣を掻いていた。
「お前さん、親父さんはどうした?」
これまで、母と弟を獣人に殺され復讐心に憑かれていたノルヴェルトの前で家族の話はタブーであった。
父親については、当然、この少年を保護した時にすぐ確認したかったことであるが、ノルヴェルトは父親に関して何も言わないし、もういないのかもしれぬと皆は思っていた。
思っていたが、これまでにはっきりとノルヴェルトの口から聞いたことはなかった。
この問いを受けてノルヴェルトは最初、きょとんとしていた。
何故かぽかんとした顔をしている少年の目はおぼろげだった。
「父さんは、多分死んだと思う。町があんなことになる二日前の朝に、騎士がうちに来たんだ。目が覚めて窓の外を見たら、門のところで騎士と母さんが話してて……その時の母さんの様子で分かった…」
結局母親は自分達には何も話さなかったけれど、自分も弟もそれを察したと。
スラスラと、まるで行った祭りが大して面白くなかったと親に話す子どものように言う。
「親戚もあの日町から逃げ出せたとは思えないし……僕には………俺には…」
そこまで言って言葉を途切れさせる少年に、残念そうな声で『そうか』とドルスス。
マキューシオは口ごもる少年の背中をじっと見つめて何も言わなかった。少年の叫びはその後ろ姿から充分伝わってきていた。
此処を追い出されたら他に行く宛なんてない、天涯孤独なのだと。
「マキューシオの」
突然、ノルヴェルトは勢い良くマキューシオを振り返った。
「家族はどうしてるんですか?安全なところに?」
その時。
顔を向けたものの師の目を直視できない少年の瞳に垣間見えた微かな『期待』を、マキューシオは見逃さなかった。
そして同時にマキューシオは、少年からのその問いの答えを、はぐらかすのはフェアじゃないと考える。
ヒュームの剣士は首を横に振ると、ゆっくりとした口調で言った。
「家族は皆、もういない」
言った瞬間、少年の目が大きく見開かれた。
「えっ……獣人に?!」
予想通り、『期待』を露にした少年に対し、マキューシオは穏やかな表情のままもう一度首を振る。
「私の家族は皆……事故で死んでしまった」
そう言いながら少年のことをじっと注意深く観察した。
ノルヴェルトは落胆したように肩を落とすと、ぎゅっと口を引き結んでいる。
それは、獣人に対する憎しみを共有したかったという顔だと、マキューシオは視た。
仲間を見つけたと思ったのに、とでも言うような様子のノルヴェルトを見て、ドルススは頭を掻いている。
又、ドルススは少年に向き合っているマキューシオにも視線を送り、思案顔になっていた。
マキューシオはしばらくじっとノルヴェルトを見つめると、やがて少年の名前を呼んだ。
「……理不尽に大切な人を奪われたんだ、憤る気持ちは分かる。だが、憎しみに囚われて自分を見失ってはいけない」
ノルヴェルトが見上げた先のマキューシオは、そのブラウンの瞳で真っ直ぐに少年の目を見つめていた。
「相手をどうするかじゃない、君がこれからどうするかだ」
「ノルヴェルトー!」
そこで、戦士達のいる方向から少年のことを呼ぶ声が聞こえてきた。
三人が声の方向に視線を向けると、小さなワジジが大きな声で『セトが呼んでる』と叫んでいる。
どうやら彼はもう食事を食べ終えたようだ。
少し困ったような顔で視線を戻すノルヴェルトにマキューシオは頷く。
短気なワジジが遠くで絶え間なくぎゃあぎゃあ騒いでいるのに焦りつつ、ノルヴェルトは『行きます!』と返事をしたが、まだ行こうとはしなかった。
「マキューシオ、あの、俺」
喚く声を気にしてじりじりとワジジの方に足をずらしながら言う。
「家族を殺されて、相手を許せる人なんて……いないと思います。ドルススとか、ワジジとかが獣人に殺されたらマキューシオは」
「お前でかいくせにノロマだぞー!!」
「俺は!マキューシオが殺されたら嫌だ!!絶対許せない!!」
もはや呼び声ではなく怒声になっているワジジの声に観念して駆け出しながら、ノルヴェルトは語気を強めて早口に言い捨てた。
小さな杖を振り回しているワジジの元に駆けて行く少年の背中には、べったりとこう書いてある。
『強くなりたい!』―――と。
見送ったマキューシオとドルススには聞こえないが、先導して戦士達の中に入っていくワジジはずばずばと切れ味の良い小言を言っているに違いない。
いくつもの質素な焚き火の灯りが集まり、ぼんやりと明るい陣中。
その灯りから少し離れた、月明かりに頼った場所にマキューシオとドルススだけになる。
「……………」
陣を眺めて沈黙していると、不意にドルススが笑いに似た息をついた。
「事故、か」
溜息交じりにそう言って月を見上げてから、ドルススはマキューシオを横目に見る。
マキューシオは何か言いたげな旧友と視線を合わせると、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「そう」
嘘はついていない、というような顔をして肩をすくめる。
「……『戦争』という、事故だ」
マキューシオの身の上を旧友であるドルススは知っている。
この獣人達との戦争が始まる前の時代、アルタナの民同士で戦をしていた時代から。
ドルススはこのヒュームの旧友が、自分自身のことをあまり話したがらないことを知っていた。
ノルヴェルトに対してもマキューシオはやんわりとかわすものだと思っていた。
先程はその手助けをしてみたつもりだったが、珍しいこともあるものである。
全てを教えはしなかったものの、彼が家族のことを少年に話したのは驚きだった。
「もう少し教えてやれば、ノルヴェルトの疑問も解いてやれたんじゃないのか?」
「まだ早いさ。彼には重荷になるだけだ」
「まぁ、間違いなくショックは受けるだろうな」
寂しげな薄い笑みを浮かべてマキューシオは頷く。
「まだ早い。………でも……いつか聞いてほしいとは思っているよ」
陣を眺めてぽつりと言うマキューシオに、ドルススはにっと笑って『そうか』と頷いた。
そこで、少年がマキューシオに放とうとした問いに彼はどう答えるつもりだったのかと考える。
一瞬尋ねてみようかと思ったが、それは愚問だと思い、口にはしなかった。
今、肩を並べて共に戦っている異種族の仲間を憎むかうんぬんなんて話は、くだらない。
「……で、さっきの、ノルヴェルトを抜かすかどうかって話だが~」
ゆっくりと膝を立てて立ち上がりながらドルススは切り出した。
『さっき』というのは、ワジジとスティユがいた先程のことである。
突然マキューシオが口にした、驚愕の提案についてのことをドルススは言っている。
「今確認した限りだと、俺は大丈夫だと思うぞ?ちょっと危うい部分も確かに感じられたがな。でも、着実に俺達はノルヴェルトの【大切なもの】になれてきてるんじゃないのか?復讐よりも魅力的なものにな」
『それが俺達の役割だったんじゃないのか?』と、ドルススは言い添える。
ノルヴェルトが強さを求めるのは、果たして何の為なのか。
報復の為に強さを求めることから始めた少年は、今現在その趣旨が変わり始めている。
当の本人はまだ気が付いていないかもしれないが。
マキューシオもそれを感じてはいたが、何故かあまり喜ばしい顔はしなかった。
『確かに彼は少しずつ変わり始めている』と俯き加減で呟くと顔を上げる。
「しかしドルスス、私は……私達は、彼の【大切なもの】になってはいけないと思うんだ」
ノルヴェルトの大切なものになるには、自分達は儚い。
そう言うヒュームの青年を見て目を丸くするとドルススは笑った。
「はっはっは!大将がそんな弱気では困るぞ、マキューシオ」
「ドルスス、君も分かるだろう?私達はとても脆い。彼の希望には相応しくないんだ。今日も本当に危ないところだった。結果は上手くいったが、こちらにも犠牲は出ている。今日の数名がいつ数割や大半になってもおかしくない。だから私達はノルヴェルトの中であまり大きな存在になっては……。彼に選択させるには今しかない」
「ノルヴェルトは間違いなく俺達を選ぶよ。それはお前さんもよく分かってるだろう?」
夜の湿った空気が、荒野の風に流されていく。
「お前さんはノルヴェルトを救いたかったんだ。自分みたくなってほしくなかったから。そうだろう?」
顎を擦りながら言って、ドルススは太い腕を胸の前で組むと一つ溜息をつく。
「最初ノルヴェルトを仲間として迎えるかどうか議論した時、お前さんは迎えるに反対だったな。賛成は俺とスティユだけだった。んだが、お前さんは結果的にノルヴェルトを迎えると決断した」
腕を組んだまま胸を張って仁王立ちすると誇らしげに続ける。
「おかげで、あいつは今生きてるんだと俺は思っているがね」
ドルススは心底陽気な笑みを浮かべた。
普段、マキューシオは仲間達の前で弱音など吐いたりしないのだが、どうもドルスス相手だと時折出てしまうようだ。
今もまた後ろ向きな自分が出てしまったと、マキューシオは気がついて頭を掻いた。
そもそも今に限らず、どうしようもなく不安になり歩む足を止めてしまうことがあっても、そんな自分の背中を押してまた歩き出させてくれるのはいつも仲間達だった。
皆はマキューシオが見せる希望に惹かれてついてきたと言うが、マキューシオは実際その逆だと感じている。
自分が希望なのではない。道を照らしているのは他でもない仲間達なのだと。
今もまた前向きな明るさを持って背中を支えた旧友に、マキューシオは苦笑して見せた。
それから空に浮かんでいる丸い月を見上げて目を細める。
「………私達との出会いは、彼にとって良いものだったと思うか?」
落ち着いた声で静かに問う。何かを思い出しているような横顔だった。
その旧友の表情を見てドルススは再び溜息をつき、唇の端を吊り上げる。
「ノルヴェルトの顔を見れば一目瞭然、だな!」
やれやれという仕草を見せるドルススに、マキューシオは『ありがとう』と小さく笑った。
実は、マキューシオが心配しているのは、いつ消えてしまうか分からない自分達が少年の財産になることだけではない。
仲間達が想像し得ない、マキューシオ自身の問題が、未来へ大きく影を落としているのだ。
確かに、ノルヴェルトのことは救いたかった。自分と同じ過ちを犯してほしくなかった。
だが、いつまでも近くに置いていたら、逆に似てしまうのではないかと思ったのだ。
彼にはもっと、良い師が必要だ。
過去の自分と重ねて見てしまい、いつ少年を、己の中に燻る憎悪の対象にしてしまうか分からぬような、危険な男ではなく。
彼から恐怖と悲しみを拭い去り、彼を心から笑顔にさせてやれる人間が。
「やほーーー二人共ー!ご飯食べなー!」
陣の方から声が聞こえた。今度はセトの声。
薪の束を脇に抱えて大きく手を振っている彼女に、ドルススが大きな声で返事をする。
思考に耽っていたマキューシオは神妙な顔に穏やかさを取り戻し、口を開いた。
「私はもう少し此処にいる。君は先に行っててくれないか」
マキューシオを振り返ったドルススは眉間にしわを寄せて腰に手を当てる。
「あんまり自分を後回しにしてると、スティユにどやされるぞ?」
にっと笑って意地の悪い声で言うと『早く来いよ』と片手を上げて踵を返す。
マキューシオは『あぁ』と返して、のしのしと陣に向かって歩いていくドルススの背中をじっと見送る。
―――不意に、ドルススが足を止めてマキューシオを振り返った。
「もっと望めよ、マキューシオ」
マキューシオは不意打ちを食らったような顔をしてまじまじと彼を見た。
ガルカのモンクは拳を掲げてみせると、声を出して笑いながら陣中へと去って行った。
色々と、たくさんマキューシオに伝えたいことがあったのだが、ドルススはメッセージの全てをその一言に込めた。
旧友との間柄、長々と片っ端から全てを言葉にするのは野暮だ。
それに、マキューシオには今の一言で充分に伝わったはず。
マキューシオは陣の方向から吹く戦士達の賑わいを乗せた風に髪を揺らしながら、口を引き結んで足元に視線を落とす。
呼びかけてさっさと陣の奥へと引き下がったセトの様子を見ると、スティユがやきもきしているのを見掛けたセトが気を回して呼びに来たと思われる。
スティユにもいつも助けられてばかりだ。彼女はよく気が付く。そしてとても賢い。
はつらつとしたセトにも、向こう見ずなワジジにも、信じて戦ってくれる多くの戦士達にも。いつも救われてばかりだ。
皆が自分に見ている希望は、皆の希望が反射しているに過ぎない。
戦士達の声が遠くに聞こえるその場に一人立ち尽くし、マキューシオは夜空を見上げた。
ちかちかと小さく瞬く星が真っ黒な空に散りばめられている。
「……………フィルナード」
夜空を見上げたままぽつりと口にした。
「聞こえているなら、何処にいるか教えてくれないか?」
言って、戦士達のいる方向に背を向けて立つとゆっくりと辺りを見回す。
辛抱強くじっと待っていると、やがて少し離れた岩の向こう側で何かがきらりと光ったのが見えた。
岩の向こう側で大きな鎌がゆらりと横に揺れて、その漆黒の身を月明かりの下に現す。
その鎌はマキューシオが向き直ると、すぐにまた岩の向こう側に沈んで消えた。
大鎌が姿を現した岩をじっと見つめ、口を開く。
「私の教える護る剣と、君が教える殺す剣を糧に、ノルヴェルトは必ず強くなるだろう」
微かに冷たい風が吹き、マキューシオの外套を揺らした。
ぼんやりとした月明かりの下に一人で立ち尽くしたまま、ふと陣の方を見つめて目を細める。
戦いを乗り越えたことに喜び、夢を語り、励まし合ういくつもの戦士達の焚き火。
その集まった灯りの中にいるであろうエルヴァーンの少年のことを考えながら、独り言のように呟く。
「ただ、私の剣では、自分の身を護れない」
穏やかな口調で言いながら腰に下げている細身の剣を見下ろし柄を握る。
少年の真っ直ぐな瞳と正直な顔が脳裏を過ぎり、ふと微笑を浮かべた。
「………将来……君の剣が彼を護る」
そう告げて、もう一度漆黒の鎌が煌いた岩のところを見つめ悲しげに微笑んだ。
尤も、岩の向こう側に座っているエルヴァーンの騎士にその表情は見えていないだろう。
マキューシオは安堵したような小さな溜息をつくと、『宜しく頼む』と呟いて踵を返した。
すると、ゆっくりと歩き出すマキューシオを陣中から駆け出したノルヴェルトが迎える。
「マキューシオ!あっちで二人が待ってますよ」
「二人?」
「ドルススとスティユ」
『あぁ』と納得した声を漏らすマキューシオの前に立って、『こっちです』とノルヴェルトが先導する。
早く師を二人の元に連れて行きたいらしい少年は、何度も振り返った。
マキューシオは、早く早くと物言う眼差しに微笑みながら少年の後をついていく。
「ノルヴェルト、どうしたんだそんなに急いで?」
「ドルススが、今日の作戦のこと詳しく教えてくれるって!あ。…それにはマキューシオを呼んできてほしいと言われました」
興奮気味の少年が説明しながら向かう先に、こちらの到着を待っている二人の姿が見えた。
安心した顔をするスティユと、大きな体を焚き火の灯りに照らされたドルススの笑顔。
マキューシオはその光景に目を細めると、賑やかな戦士達の焚き火が点々とする中を横切りながら、幸せそうに微笑んだ。
今宵はあの夜と同じ、満月。
陣の賑わいが風に乗って届く暗い岩陰に腰を下ろして、フィルナードはふと思い出した。
薄汚れ痩せ細ったエルヴァーンの少年が自分達と出会った日のことを。
闇に身を溶かそうにも、今宵は月が明るくて焚き火の明りが不要な程。
岩に背を預けて座り込んでいるエルヴァーンの騎士は、去っていったヒュームの青年の言葉を頭の中で繰り返してみる。
「……ふん……勝手なことを………」
思わず毒付いて、それっきりじっと動かず、ただ一人で夜の風に耳を澄ませていた。
悲壮な剣士を哀れむことはなかったが、もし神が実在するのなら、あの剣士の道に良い風を吹かせてやるのも退屈しのぎになるのではないかと考えた。
今宵のような、心地良い風を。
あとがき
『思い出よ、永久に美しく ~大切なもの~』でした。この番外はマキューシオのためのものだと思っています。
第二章は基本ノルヴェルト視点だったので、見えなかった彼の本音がここにあります。
彼は頑固で、少し、背負い過ぎてしまったよね。
子が親を追うかのようにマキューシオを探し求めるノルが、愛おしく切ない。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
一言感想など聞かせていただけたら嬉しいです。