小さな手は求める

第二章 第三話
2004/08/02公開



ここ数日の間吹き続けた風は、今日の夕暮れと共にぱたりと姿を消した。
何処からともなく風が連れてきた雲が上空で置いてけぼりにされている。
風に急かされる旅に疲れたのか、雲は身を崩し広がると輝く星の光を遮った。
月すら雲に隠れてしまっている今、辺りは墨汁をかぶったように黒く染まっている。
そのひんやりとした闇の空間で、ノルヴェルトは呼吸を整えようと深くゆっくりと息をしていた。
すでに疲弊した体はしっかり構えることができず、両手で握った剣は力なく地面へ向かって垂れ下がっていた。
エルヴァーンの少年が見据える先には、闇の中にぼんやりと浮かぶ一つの人影。
漆黒の鎧を身に纏ったエルヴァーンの男が剣を片手に立っていた。
地面を転がり回ったように砂まみれのノルヴェルトは、自らの汗に濡れた髪の乱れもそのままに、男を見つめて硬直している。
ばくばくと大忙しの心臓が必死に働くが、酸素が足りないと肺が悪態をついている。
ノルヴェルト少年は目の前にいるエルヴァーンの男、フィルナードに意識を集中させたまま無意識に乾いた唇を舐めた。
そして息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って――――――止める。

ノルヴェルトは渾身の力で地面を蹴り、フィルナードとの距離を一気につめた。
脱力気味になっていた腕に力を込め、下から斬り上げるように剣を振るった。
脇腹目掛けて振るった剣は、フィルナードの持つ剣とぶつかって高い金属音を放った。
片手で握られているフィルナードの剣はまったくビクともせず、ノルヴェルトの両手に痺れが走る。
その衝撃に顔をしかめた次の瞬間、フィルナードの剣が乱暴に振り払われた。
ノルヴェルトの剣を力任せに跳ね除け、夜の空気と共に少年の銀髪を微かに散らす。
フィルナードの目が闇の中で鋭く光っているのが視界に映った。
少年は歯を食いしばって下半身に力を込めると踏み止まり、水平に剣を振るった。
しかしその頃にはすでにフィルナードの姿は視界から消えていた。
手に痛みを感じると同時に、両手でしっかり握っていた剣が宙に吹き飛んだ。
その凄まじい威力に足が浮き、乾いた地面に背中を打ちつける。
一瞬息ができなくなった。
何も聞こえない中ノルヴェルトが目を開けると、雲の間から姿を現した月を背負ったフィルナードが見下ろしていた。
彼は剣を振り上げている。
月の光に照らされて剣が輝いている。
そしてその剣がノルヴェルト目掛けて勢い良く振り下ろされる。
少年は剣が食らい付く箇所を想像して身を硬くすると、力の限り目を瞑った。

無論、少年の体に剣が襲いかかることはない。
代わりに、倒れている少年の肩が踏みつけられた。
痛みに顔をしかめて薄っすら目を開けると、相変わらず冷たい眼差しのフィルナードがいた。
「殺されるのを待つなと、何度言ったら分かる。最後まで殺しに来い」
ノルヴェルトの肩を踏みつける足に力が込められる。
「俺はお前を殺さない。そう思っているのなら本当に殺してやろうか?」
そこまで言って少年をじっと見つめると、やがて少年の肩から足を下ろして背を向けた。
ノルヴェルトはその頃になって思い出したかのように忙しく呼吸を再開する。
見ると、フィルナードは吹き飛んだ剣を拾い上げて腰に収めていた。
フィルナードが持っている剣の中で一番小振りのものをノルヴェルトに貸していたのだ。
「今日はここまでだ。そんなにバテていたら何をやっても無駄だ」
その言葉に、ノルヴェルトは何も答えずただ唇を噛んで身を起こす。
体中が痛い……。

ノルヴェルトがマキューシオらと出会ってから数ヶ月が経っていた。
その間自分達で抱えられるだけの難民を保護し続け、昨日も父親を抜いた二家族を保護したばかりだ。
頃合と限界を見たマキューシオ達は、ここでサンドリア周辺の難民捜索を一旦打ち切りジュノに向かうことを決定した。
現在マキューシオらが連れている難民の数は約一五〇。
難民達を守りながら進むのは難しく、ジュノまでかなりの月日がかかるだろうという話だ。

この数ヶ月でノルヴェルト少年は大分成長していた。
小柄だった体も、ちゃんと食事を摂るようになってからというもの身長はぐんぐん伸びる。
出会ったばかりの頃はまだマキューシオの胸辺りに頭がある感じだったが、今は段々マキューシオと目線の高さが近くなってきていた。
やせ細っていた体にも徐々に筋肉が付き、表情も少し凛々しくなったように思える。

ノルヴェルトは、フィルナードに踏みつけられた肩を押さえて呼吸に徹していた。
座り込んだままの少年を眺めて、フィルナードが歩み寄る。
「マキューシオの教訓か、その肩は」
ノルヴェルトが押さえている肩を、冷めた視線で見つめる。
ノルヴェルトは一旦肩に視線を落として黙ったまま頷いた。
彼が押さえている左の肩には、マキューシオの剣の傷が癒え切れずに残っているのだ。
マキューシオはフィルナードと違って、本当に斬る。
そして傷痕が残らない程度の深さまで傷を癒すが、それ以上は処置を施さないのだ。
フィルナードはくくくと笑った。
「マキューシオは優しいと思っていただろうが、それは大きな間違いだ。あいつ程酷な奴はいないぞ」
結局ノルヴェルトは、マキューシオとフィルナードの両者から剣を教わっていた。
昼間はマキューシオ、そして夜はフィルナードに稽古をつけてもらっている。
はじめはマキューシオに黙ってフィルナードにも剣を教わっていた。
だがある日、フィルナードとの稽古をマキューシオに見つかったのだ。
怒られるかと肝を冷やしたノルヴェルトだったが、マキューシオの少年に対する態度は変わらなかった。
私は教えないと言っただけで、教わるなと言ったわけじゃない。
一言そう言っただけだった。
フィルナードの言う通り、確かにマキューシオの方が厳しいような気がする。
「しかしな、だからと言って俺が甘いというわけじゃない。俺は手加減をする剣など知らん……斬る時は殺す時だ。………稽古中お前に死なれても面倒だ」
相変わらず表情の乏しい顔でフィルナードはそんなことを言った。
座り込んだままのエルヴァーンの少年は思わず呆然としてしまう。
やがて、ノルヴェルトは塞がり掛けた傷のある肩をぎゅっと握り締め、深い溜め息をついた。

「おじちゃ~~~~ん!」

―――と、遠くからこちらに呼びかける声が聞こえた。
その声はとても幼く、無邪気で軽く息を弾ませていた。
「おじちゃん、ひるおじちゃ~ん!」
難民達が集まっている方向から小さな影二つが、こちらに向かって歩いてくる。
いや、本人達は走っているつもりなのかもしれない。
危なっかしい足取りでこちらにやってきたのは、エルヴァーンの幼子二人だった。
五,六歳くらいの少年が、さらに小さな少年の手を引いている。
おぼつかない足取りの幼子の手を引いた少年は、フィルナードの傍までいくと彼の足にしがみ付いた。
「ひるおじちゃん、まきーしょは?」
ひるおじちゃん、とはフィルナードのことで、まきーしょ…はマキューシオのことか。
ノルヴェルトは少年の言語を頭の中で変換した。
「ヴィル…」
足にしがみ付いた少年を静かに見下ろすフィルナード。
ヴィルと呼ばれた少年がフィルナードの足にしがみ付く際、連れていた幼子の手をぽんと放した為、小さい方の少年は驚いてバランスを崩し、ぼてんと尻餅をついていた。
顔が今にも泣き出しそうに歪んでいる。……まずい……かもしれない。

この少年達はフィルナードの甥っ子だ。
前に聞いたのだが、フィルナードは最前線で獣人と戦う軍の騎士だったらしい。
しかし一年程前の獣人軍との大きな戦闘で負傷し、妹親子を含む数名の民と共に戦場跡に残っていたところをマキューシオらと出会った。
その両軍の大きな衝突では、結局軍は敗走し、多くの戦士や民が犠牲になったという。
フィルナードは街を追われた妹親子を安全な場所へと送り届ける為に、今もマキューシオ達と行動を共にしているらしかった。

「ヴィル、何しに来た。すぐに戻れ」
幼い子どもに向かって放たれた声は低く、見下ろす視線も冷たかった。
少年はフィルナードの足にしがみ付いたまま、つぶらな瞳で彼を見上げている。
二人の甥の内フィルナードが『ヴィル』と呼んでいる兄の方は、ぱっと見少女に見間違えそうになる中性的な顔立ちの美少年で、大層フィルナードに懐いていた。
もしも、自分があの少年の立場で、あんな突き刺すような眼差しを受けたら間違いなく泣くだろうに……と傍目から見ていてノルヴェルトは思う。
そう考えてもう一人の甥っ子のことを思い出す。
ちらりと横目で見ると、弟の方は喉を引きつらせて今まさに限界を超えようとしていた。

「ノルヴェルト、稽古は終わったか?」

するとその時、民が集まっている方向から、鎧の音をさせながらマキューシオがやって来た。
彼を振り返って、ヴィル少年が『あ、まきーしょ!』と嬉しそうに声をあげる。
「うぃーーーーーーーーーーーーー!!!」
――と、暗闇を劈くような声が聞こえた。
何事かと声のした方向に視線をやると、座り込んでいた弟がマキューシオに向かって両手を伸ばしていた。
彼の存在に気が付いたマキューシオは眉を開くと、『あぁ、ここにいたのか』と優しく微笑み、抱っこと言わんばかりに手を伸ばしている幼子に歩み寄る。
「ヴィル、母上様が探していたぞ」
弟の方を抱き上げながら、フィルナードの足にくっついたままの兄へと告げる。
「だって、パーがまきーしょにあいたいっていうんだもぉ」
「あいー」
パーとは弟のことだろうか。
弟はマキューシオに抱かれて、彼の首に必死にしがみ付いていた。
どうやら弟はマキューシオにとても懐いているようである。
「……ヴィル達を連れ戻してくれ」
フィルナードがしがみ付いたままの兄を見下ろしてマキューシオに言う。
『稽古は終わったんだな?』と確認するマキューシオに頷いて見せると、黒髪のエルヴァーンは雲に身を隠そうとしている月を見上げ険しい顔をする。
今にも舌打ちしそうな不機嫌な様子のフィルナードを気にすることなく、ヒュームの剣士は頷き返した。
「ノルヴェルト、君も一緒に来なさい。食事がまだだろう?」
穏やかな声にそう言われ、ノルヴェルトはハッとした。
ずっと座り込んだままだったことを思い出し、格好悪くて慌てて立ち上がる。
そして体に付いた砂を払い落としながら唸るような曖昧な返事を返した。
「フィルナードも、代わりの者を見張りにつけるから休んでくれ」
こちらに背中を向けたフィルナードに言うと、『さ、ヴィル』と兄に向かって手を差し出した。
漆黒の鎧姿の男に引っ付いたままの兄は、しがみ付いている足の持ち主とマキューシオを見比べる。
それからおずおずとフィルナードの足から離れた。
マキューシオは兄の小さな手を取るとノルヴェルトにも歩くよう促した。
「ばいばい、ひるおじちゃん」
ヴィル少年が振り返ってフィルナードに手を振ったが、フィルナードは特に反応せず何も言わなかった。

皆が野宿しているところまで戻ってすぐに、ノルヴェルトらをガルカのモンク、ドルススが迎えた。
白い鬣に囲まれた顔をこちらに向けると、太い腕を曲げて腰に手を当てた。
その大きな体の向こう側に、ほっそりとしたエルヴァーンの女性が一人立っている。
「やっぱりお前のところだったか」
ドルススがヴィル少年たちを見て溜め息混じりに言った。
ヴィル少年は、今度はマキューシオの足にしがみ付き、弟の方はマキューシオの腕の中で寝息を立てている。
ドルススの後ろにいる――今前に出てきたが――エルヴァーンはこの兄弟の母親だろうと察しがついた。
『さぁ』とマキューシオがヴィル少年の背中を軽く押す。
ヴィルはとたとたと歩いて母親の元へ向かった。
続いてマキューシオが抱きかかえていた弟の方を母親に渡そうとする。
すると、目を覚ました弟は途端に表情を歪め、ぐずって泣き出した。
「ははは、お前は本当にマキューシオのことが好きだな」
ドルススが太い笑い声で言った。
痺れを切らせた母親がマキューシオの腕の中から弟をむしり取る。
弟は喚きながらマキューシオに手を伸ばすが、母親はマキューシオにその手が届かないように身を引いた。
一層声を大きくする弟に困った様子の母親は、段々表情が強張り始める。
それに気がついたノルヴェルトは嫌な予感がしたが、そこでマキューシオが動いた。
進み出て弟の小さな手を握る。
「母上様を困らせてはいけない。大丈夫、私は何処へも行かないよ」
そう言って微笑むと、弟はきょとんとした顔で黙った。
マキューシオが彼の頭を撫でると、そのアイボリーの髪はサラサラで柔らかい。
マキューシオの言っていることを理解しているのかいないのか、やがて弟の顔に笑みが浮かぶ。
その無邪気な笑顔を見てマキューシオは静かに微笑んだ。
「やはり……君には笑顔が似合う」
「まったくだ、本当に良い顔するもんだ」
ドルススが腰に手を当てたまま太い声で笑った。

その光景を一歩下がった位置で見ていたノルヴェルトは、何も言わずにただじっと立っていた。
なぜだか急に、自分は平和ではない時代に生まれてしまったのだと強く自覚する。
突然寒さを感じた。………気のせいだろうか?
頭の中にマキューシオが言った言葉が木霊している。深く、重く。

深々とお辞儀をして、子ども達を連れ足早に去っていくエルヴァーンの女性。
ヴィル少年は母に手を引かれながらも、やはりこちらに手を振って別れの言葉を言った。


ノルヴェルトはその夜、頭の中が騒がしくてなかなか寝付くことができなかった。
あれこれ一度に考えようとする頭を抱えて毛布に包まる。
マキューシオの言葉が頭から離れない。
それを軸に恐怖や、悲しみ、憎悪などのあらゆる感情が渦巻いている。
しかし稽古などで体は疲れていたので、ノルヴェルトはいつの間にか眠りに落ちていた。



そうして翌朝、ノルヴェルトは甲高い悲鳴で目を覚ましたのだった。



<To be continued>

あとがき

暗い暗い暗い。
二軍の貴重な賑やかし担当は次回登場です。