月下の闇

第二章 第二話
2004/08/02公開



ノルヴェルトは物珍しそうに辺りを見回しながら、静かに歩を進めていた。
あたりには、数十人の難民達が身を寄せ合い、今まさに眠りにつこうとしている。
夜の闇の中に点在する焚き木の明かりは、まるで頭上に輝く星々のようだ。
だが、星空とは違い、それらのかがり火は見るからに心細く、希望を感じさせるものではなかった。

くたびれた衣服に身を包み、疲れ果てた表情の人々。
自分と同じ境遇の難民たちを目にしながら、ノルヴェルトは心の奥底にいくつもの疑問を抱く。
そして、隣を歩くヒュームの剣士にそっと目を向けた。


―――『少し、歩かないか?』

声をかけてきたのは彼の方だった。
黒髪の剣士が通りを歩くたび、民たちは彼に気づいて頭を下げ、静かに見送っていく。
難民の多くは女と子供で、種族はエルヴァーンがやや多いように見受けられた。
自分達と同じサンドリア方面から逃れてきた者達だろうか。


ふと、昼間まで共にいた人々の顔が脳裏をよぎる。

ノルヴェルトは疲れ切った様子で眠る人々を見渡し、きゅっと唇を結んだ。

「彼女達は君と同じ、先日の両軍の衝突から逃れてきた者達だ」

唐突に、低く落ち着いた声で剣士が語った。

「こちらの方面にも街を離れた民がいると聞いて急いで来たが……一足遅かった。本当に申し訳なく思っている」

視線を伏せる剣士を見上げながら、ノルヴェルトはついに口を開いた。
心に最初に浮かんだ疑問を、そのままぶつける。

「あ…あなた達は………サンドリアの軍ですか?」

問いかけに、剣士は静かに顔を上げた。
どうやら、予想していた質問だったようだ。
ひと呼吸置いて、彼はゆっくりと語り始める。

「私達は散り散りになった難民達を保護し、安全な地へ導く活動をしている。今は、先日の戦で荒野に取り残された民を集めて、頃合いを見てジュノへ向かうつもりだ」

語りながら、彼の視線は遠くを見ていた。

「軍は祖国を、愛する者たちを守るため、必死に戦っている……だが、その陰で多くの民が命を落としている。多くは、難民となって」

戦火を逃れ、行く当てもわからず、道なき荒野を彷徨う人々。
彼らには食料もなく、いずれは移動中の獣人に見つかり、命を落とすことになる。


「荒野に散った人々を、軍は本当に救えるのか……答えは、否だ」

獣人軍を相手にする軍には、それに対応するだけで精一杯。
小さな命ひとつひとつに目を向ける余裕は、もう残されていない。
もちろん、戦場に立つ兵士たちの中には、家族の無事を案じる者も大勢いるだろう。
だが、彼らはそれでも戦線を離れるわけにはいかない。
ただ、軍という巨大な歯車の一部として、戦争の終息を目指して戦うしかないのだ。

「―――しかし、私は目の前で失われていく命を、ただ見殺しにすることはできなかった」

だからこそ、彼は軍を抜けるという決断を下した。
数名の信頼できる仲間たちとともに、この活動を始めたという。

やがて活動が広がるにつれ、同じ志を抱く者たちが自然と集まり、今では約四〇〇名の戦士が共に動いている。
組織名は―――無い。

「名称があると、軍から徴集がかかってしまう。だから私達に、名は無い」

綺麗事だとは分かっている。
それでも自分は救いたいのだと、剣士は話した。


そこまで話したところで、剣士は不意に足を止め、ノルヴェルトに向き直る。


「私はマキューシオ・スローサー。一応、ここのリーダーを任されている赤魔道士だ」


そう名乗ると、彼は静かに微笑み、ノルヴェルトに向けて手を差し出した。
ノルヴェルトは呆気に取られたように、ただじっと彼を見上げている。

気がつくと、二人はいつの間にか人々の群れから離れた場所まで来ていた。
焚き火の明かりは遠くなり、今はただ、夜空の星々が二人を照らしている。

ノルヴェルトはゆっくりと視線を落とし、差し出されたままの手を見つめた。
やがて、ぐっと唇を噛みしめ、足元を睨みつける。
そして、体の横で拳を強く握った。


「………マキューシオ…さん」
やっとの思いで絞り出したような、かすかな声だった。
それを聞いた剣士は、優しく微笑みながら言った。

「マキューシオでいい」

その一言に背中を押されたように、エルヴァーンの少年は顔を上げる。
その表情には、覚悟と決意の色が宿っていた。

「マキューシオ、僕に……僕に剣を…教えてください!」

差し出されたままだった手を、ノルヴェルトは両手で強く握りしめた。

「僕は強くなりたい!強くなって、獣人をたくさん倒すんだ!」


この想いは、ずっと胸の内でくすぶっていたものだった。
マキューシオたちに助けられ、この数日間、何度も何度も考えていたこと。

脳裏に蘇る家族の顔、そしてオークの姿。
死に物狂いで逃げ延びてきたのに。やっとの思いで、ここまで辿り着いたのに!
あんなに必死で走ったのに……あんなに呆気なく?


父は軍に召集されるその朝、ノルヴェルトにこう言った。
お前が家族を守るのだと。

ノルヴェルトは徴集の年齢にはまだ少し届かず、母と弟と共に家に残された。
長男として、守らなければならないと、心に誓った。

知恵を絞り、勇気を奮い、危険を避け、飢えに耐えながら、獣人の襲撃から家族を守る。
そして、いつか戦争が終わったときに、誇らしげにこう言ってもらうのだ。

『よく守った』…と…。
父の逞しい腕に、抱き締め…られ……。



数日前まではそう思っていた。
だが、もう、すべて終わった。
母も、弟も、もういない。
ほんの一瞬の出来事だった。何も、できなかった。



「教えてやるんだ、あいつらに……!僕はあの時、逃げたんじゃないって…っ。お前達なんか、恐れないって!!」

声が震え、感情が溢れ出す。
ノルヴェルトはマキューシオに掴みかかるように叫んだ。

「獣人達に思い知らせて…るんだ!僕が、どれだけあいつらを憎んでいるか…!僕がどれだけ怒っているか…!!」


―――だから、教えてよ!
あいつらの殺し方をっ!!!


その叫びは、痛みに満ちていた。
胸の奥から迸る、怒りと悲しみの咆哮だった。

ノルヴェルトは、あふれ出した涙を必死にこらえていた。
何とも細く、脆そうな腕が、やせ細った少年の手が、まるで喰らい付くかのようにマキューシオの手を掴んでいる。

マキューシオは黙って、それを最後まで聞いていた。
ノルヴェルトが震えながら見上げると、剣士の顔には、深い悲しみが浮かんでいた。



「…ノルヴェルト……。憎しみで生きることほど、虚しいことはないよ」

優しくも重たいその言葉に、少年は目を見開いた。

「どうして?獣人を憎んでない人間なんて、いないじゃないか!」

「憎しみで剣を振るっても、君の死が早まるだけだ」

「あいつらはみんなを殺したんだ!!何もしてないのに……殺したんだよ!?」

それでもマキューシオは、表情を変えずに首を振った。
その静かな仕草に、ノルヴェルトは息を呑む。
信じられない、という目で剣士を見つめた。


「僕は…獣人が憎い!マキューシオは獣人が憎くないの!?」
興奮したノルヴェルトがマキューシオに対して攻めるような口調でそう言った―――その時。


「………こんな静かな夜に、随分と賑やかだな」


突如、闇の中から声がした。
驚いたノルヴェルトは、慌てて辺りを見回す。
だが、どこにも人影は見えない。


―――ガチャ。

近くで誰かが重い鎧をまとったまま着地した音。

「ふん……戦争では弱い奴は死ぬしかない……」

闇の中からゆっくりと姿を現したのは、漆黒の鎧を纏ったエルヴァーンの男だった。
その背に背負った大鎌が月光を受け、鋭く光を反射する。

男は先ほどまで近くの岩の上にいたようだった。――見張りの者だろうか。

「フィルナード。子どもにそんなことを言うんじゃない」

マキューシオが静かにたしなめると、フィルナードと呼ばれたその男は、不気味に笑った。
黒髪を結うこともせずに伸ばし放題のまま、目には闇夜の中でも鋭い光が宿っている。
闇夜の中で鋭く光る彼の目には言い知れぬ恐怖を感じる。

だが、見入っていた少年の意識は、再びマキューシオの声で現実に引き戻される。

マキューシオはノルヴェルトの肩にそっと手を置き、彼をこちらに向き直らせた。
一度小さく息を整えたのち、優しく口を開く。

「ノルヴェルト。……では、ジュノに着くまでの間、君に剣を教えよう」

少年の表情が明るくなったのを見て、マキューシオは『ただし』と付け加える。

「私が教えるのは殺す剣ではなく、護る剣だ」


「くくく。待て、マキューシオ。こいつに負け犬として生きろと言うのか?」

低くくぐもった笑い声と共に、フィルナードが口を挟んだ。

「ガキとはいえ、こいつはエルヴァーンだ。逃げ回って生き延びるのではなく、誇りと共に真っ向から獣人共と戦うべきだろう」
低くて温かみのないフィルナードの声。

先程から二人に子どもだガキだと言われ、ノルヴェルトは内心不服だった。
だが、、肩に置かれたマキューシオの手の大きさと温もりに触れ、自分の手があまりに小さく、未熟であることを痛感する。

悔しさを押し殺しながら、ノルヴェルトはマキューシオを見上げた。
マキューシオはじっとフィルナードを見つめ返していた。
だが、その目に睨みつけるような鋭さはない。
敵意も怒りもなかった。
まるで、言葉を使わずに何かを伝え合っているような、静かな沈黙が流れていた。

数秒後、マキューシオが穏やかな口調で口を開く。

「ノルヴェルト。護る剣か殺す剣、どちらを振るうかは君が決めること。君の生き方だ……君が決めなさい」



「マキューシオ、ここにいたんですか!」

唐突に声がして、ノルヴェルトが振り返ると、昼間見かけたヒュームの女性が駆け寄ってくるところだった。
腰に短剣を差した彼女は、息を弾ませながらも落ち着いた声で話しかける。
「ちょっと……相談したいことが」
マキューシオはうなずき、彼女の方へ向き直る。
ノルヴェルトたちに背を向け、小声で何やら話し始めた。


その隙に、気配もなくフィルナードがノルヴェルトの隣に立つ。

ぞくり、と背筋が粟立つような感覚。
思わずノルヴェルトは顔を上げた。

「護ってばかりじゃ、敵は死なない」

漆黒の騎士は、感情のない目でノルヴェルトを見下ろしていた。
鋭くて冷たい、感情のない目で。

「獣人の殺し方なら、俺が教えてやる」


その言葉に、ノルヴェルトの背中が凍りつく。
思わず一歩、後ずさった。
そして無意識に、マキューシオの鎧の端を掴んでいた。
その感触に気づいたマキューシオが、ちらりと振り返る。
ノルヴェルトは自分の行動に気づき、慌てて手を離すと、おずおずと視線を上げた。
疑問符を浮かべて目をしばたかせている男女のヒュームがいる。
やがて彼らは微笑みを浮かべ、マキューシオは優しく頷いてノルヴェルトの頭に手を置いた。

「焦ることはない。自分が正しいと思った道を、歩いていけばいい」
その言葉に、ノルヴェルトは胸の奥が温かくなるのを感じた。
顔がほのかに熱を帯び、口をきゅっと結んで俯く。


―――ハッとして、ノルヴェルトは振り返った。

そこにはただ、深い闇が広がっているだけ。 漆黒の鎧に身を包んだエルヴァーンの姿は消えていた。



<To be continued>

あとがき

まだこの頃は一話の文章量落ち着いてて、ホッとするやら恥ずかしいやら。
ノルヴェルト少年が二人の師と出会いました。
少年の叫びは幼くて、未熟で、けれど真っ直ぐで。
二人の大人は、それぞれの正義のもと、少年の意思を受け止めました。
その狭間で少年がどう生きるのか、見守ってください。