ジャグナー森林に告ぐ

第十一話
2004/03/24公開



リオの尻尾はピンと立ったまま硬直し、目は真っ直ぐにこちらへ向かってくる男を捉えて放さなかった。
息を荒げているその鎧姿の戦士は、武器を構えたままのリオを見下ろして口を開いた。

「ヒュームの、女戦士を見なかったか?」

挨拶もなしにいきなりそんなことを尋ねられ、リオは眉をひそめる。

けれどもすぐに、胸の奥に期待が灯った。
リオは目の前の男をじっと観察する。

強面の中に、青い瞳が二つ。
短く逆立てた栗色の髪は、今は汗に濡れて力なく垂れていた。
銀色の鎧に背負った両手剣。
装備の質からしても、この男が腕の立つ戦士だということはすぐに分かった。

そしてリオは、三角の耳をぴくりと動かしながら観察を終えた末、静かに言った。

「……いいえ、知らないわ」

構えていた格闘武器を下ろし、力なく肩を落として答える。

リオは確信していた。
この男は、トミーの“連れ”ではない。

彼女の連れはのっぽのエルヴァーンだと聞いていた。
このヒュームではない。
そして、トミーは戦士ではなく獣使い。
男が探している“戦士の女”ではないのだ。

お互いに求めている相手が違う。
そう思いながら、リオは小さく溜め息をついた。

「そうか……。邪魔したな」

戦士はそう言うと、踵を返してそのまま走り去っていった。
リオは思わず顔を上げる。
人見知りな性格を押し殺して、精一杯声を上げた。

「あ、ねぇ!あたし達と一緒に……!!」

けれどその声も届かず、男は聞こえていない様子で、ジャグナー森林の奥へと姿を消していった。
ぽかんと口を半開きにしたまま、リオはその背中を見送る。

そして、途端に険しい表情を浮かべ、近くの木に蹴りを入れた。

「何よっ!聞くだけ聞いて、さっさと行っちゃうなんて……ムッカツク男!!」

『いいわよこっちだって暇じゃないんだから!』と吐き捨てるように毒づく。
リオはトミーが戻っていった方角―――街道から外れた南の森へと駆け出した。

ここでトミーとはぐれてしまったら、大変だ。

焦る心を押さえきれず、リオは木々の間を駆け抜ける。
ずっと一人でやってきた冒険。
誰にも頼らず、孤独でも構わないと思っていた。

―――なのに、どうしてだろう。
一人でも平気だったはずの自分が、今は妙に心細くてたまらない。

トミーの後を追い、南の森へと走っていくと、前方に、見慣れた橙色の装備が視界に飛び込んできた。
トミーだ!
安堵の表情を浮かべたリオは、次の瞬間、彼女の手元に目を留める。
彼女は剣を抜いていた。
身構え、何者かと対峙している彼女の視線の先には―――

カブトムシ!!!?

トミーはじっと動かぬカブトムシにじりじりと近づき、今まさに剣を振りかぶろうとしていた。

目を見張って一直線にトミーの元に駆け寄ったリオは――――――飛んだ。

「この馬鹿ヒュムーーー!!!!」

「うぃーーーーーーーー!!!?」


全力のタックルでトミーを吹き飛ばし、二人して地面を転がる。
そしてカブトムシの前から馬鹿ヒュームをかっさらったリオは、そのまま馬乗りになって吠えた。

「一体!一体何考えてんのよあんたは!?さっき言ったでしょ!あたしらは弱いのよ!!カブトムシは二人掛かりだってキツイんだからね!!!ほんっと馬鹿なんだから!」

恐ろしい形相で牙を剥くリオの下、トミーは怯え切ったように身を縮める。
そして、怒涛の如く罵声を浴びせられると、ヒュームの娘は小さな声で説明した。

――カブトムシは、問いかけに答えてくれなかった。
だから、自分の方が強いと分からせれば、答えてくれるかもと思った。
だから……決闘を申し込もうとした、と。

「……」
リオは呆れてものも言えないと言いたげな顔をして脱力した。

「うぅ、ごめんなさい……」

トミーが、顔を腕で覆いながらしょんぼりと謝る。
リオはようやく怒気を引っ込めて、溜め息をついた。

「……まったく……驚かすんじゃないわよ、馬鹿ねっ」

殺気立っていた声は、今はもうそこにない。
どこか呆れ混じりの安堵を含んだ口調だった。

大きな溜め息をついているリオを見上げて、トミーは内心、早く上から退いてくれまいかと思っていた。

―――と、その時。

ガルルルル……

低く、獰猛な唸り声のような音が響いた。

「ん?……リオさん、もうお腹空いちゃったんですか?」

「あたしじゃないわよ!!!」

リオが顔をかっと上げて、即座に怒声を返す。
―――次の瞬間、茂みを割って黒い大きな塊が飛び出してきた!

そいつは一直線に跳躍し、トミー達目掛けて空中から襲いかかる!

「「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!?」」

トミーとリオは、絶叫とともに散り逃げた!

直後、二人がいた場所の地面に、その“黒い塊”の巨大な爪の手がドン!と突き刺さる。
土をえぐり、重々しい音を立てて着地するその生き物を、尻餅をついた二人は呆然と見上げた。

漆黒の艶やかな毛に包まれた、筋肉質な巨体。
四本の太い脚に並ぶ鋭い爪が、地面に食い込んでいる。
牙を剥き、低く唸るその姿は――ーまさに野獣。

……虎…!!

二人は即座に跳ね起き、武器を構える。
虎はリオを睨み据えたまま、唸り声を上げた。

「……どうやら、あたしに懐いてついてきちゃったみたいね…」

リオが苦虫を噛み潰したような表情で呟く。

そりゃそうだ。あれだけ騒いで猛ダッシュで突っ込めば、森の猛獣が気づかないはずがない。

虎が再び飛びかかろうとした瞬間、トミーが斬りつけて牽制し、その注意を自分に向けた。

「こっちだよっ!」

怒りの唸りを上げた虎が、トミーに前脚を叩きつける!
トミーは左腕の盾でそれを受け止めるが―――凄まじい衝撃にトミーの身体が浮いた。
なんとか体勢を立て直し、虎との距離をとる。
その様子を見ながら、リオは腰を落とし、構え直した。

「……一匹なら二人で何とかなるわ!……多分」

「た、多分?」

「とにかく、とっとと片付けちゃいましょう!」

そう言ってリオが踏み込もうとした時、その時―――

「リオさん下がって!!!」

トミーの叫びに、リオは咄嗟に一歩退いた。
その直後―――リオの足元、数十センチ先の地面に一本の矢が突き立った。

肝を冷やしつつ、矢が飛んできた方向を横目で探ると―ー―
少し離れた木陰に、弓を構えたオークの姿が見えた!

「オーク!?―――うあっ!!」

動揺するトミーに、再び虎が襲いかかる!

リオは叫び声を聞いて、トミーとオークを交互に見て、思わず舌打ちした。

どうやら、リオはオークも連れてきてしまったようだ。

目の前には、今まさにトミーに襲いかかる漆黒の虎。
その背後では、二本目の矢を放とうとする獣人オーク。

リオは歯を食いしばり、額に浮かぶ汗を拭うこともできず、深く息を吐いた。

「…っ……まずったわね……」


いつの間にか、ジャグナーの狭い空は分厚い雲に覆われていた。



   *   *   *



このジャグナー森林には、襲ってくる“敵”が何種類もいる。

オークやゴブリンといった獣人はもちろん、虎も獲物を求めて徘徊している。
他にも、カブトムシや球根のモンスター、キノコの化け物などもいるが―――
これらは基本的に、こちらから手を出さなければ襲ってくることはない。

場違いなくらい巨大な羊でさえ、こちらが攻撃しなければ無害だ。
だが―――どいつもこいつも、トミーにとっては手強い相手ばかりだ。


もし、あいつが何かに絡まれたら……。

想像しただけでゾッとして、体中に鳥肌が立った。



死について尋ねられたあの時、俺はこう答えた。

「あぁ。まだ駆け出しの頃に二、三回あるぞ」

トミーは引きつった声をもらして身をすくめ、ぎゅっとモーグリを抱きしめて俺から視線を逸らす。

「……パ…リスさんと……ロエさ、も、経験……あるの、かな…?」

喉を震わせながら、あいつは必死に言葉を繋いだ。
泣くまいと懸命に堪えているつもりかもしれないが、俺から見ればとっくに手遅れだ。

少し目のやり場に困って、何となくドアの方に視線を向けた。

「ロエさんは知らないが……パリスの奴は最低でも一度はある。初死にが俺と一緒だったからな」

当時のことを思い出し、苦笑いが漏れる。
トミーへと視線を戻し、続けようとした。

「まぁ、俺達くらいのキャリアになれば、誰だって最低五回くらいは死を経験して…る……」

その瞬間、思わず口を閉じた。
ぼろぼろと涙をこぼしながらうつむくトミーの姿に、言葉が詰まる。

パリスからよく『無神経だ』と言われるが……この時ばかりは自覚せざるを得なかった。

居心地の悪さから、俺はトミーに背を向け、ベッドに腰を下ろす。
しばらく頭の中で言葉を探し、二呼吸ほど置いてからようやく口を開いた。

「……まぁ、なんだ。誰だって死にたくなんかねぇよ。お前が言うように、例え蘇るとしても、だ」

言いながら、気付かぬ内に、いつもより穏やかな口調になっていた。

「だから冒険者は修行して、経験積んで、自分の能力を高めていくんじゃないか。俺だってそうだ。危険が少ない狩りができるように、日々精進してる」

そして今は、“お前を傷つけない言葉”を選ぶことに、全力を尽くしている。

「お前の努力次第で、パーティの仲間の危険を減らすことができるだろ。お前は戦士なんだから、魔法で傷を癒すことができなくても、前に立ってパーティの盾になることができる」

トミーの呼吸が、徐々に整ってきた。
そっと振り返ると、あいつは少しだけ視線を上げ、どこか一点をじっと見つめていた。

鼻をすすり、唇を噛み締めている。
その顔には、何かを決意したような――ーそんな強さが宿っていた。

そして、まだ少し震える息の中から、静かな声が聞こえた。

「護りたい…………みんなを…護るんだ」

そう言って手の甲で涙を拭うと、トミーは背筋を伸ばしてこちらを見た。

「……私、みんなの盾になる」




あの時のあいつの目は、とても美しかった。
しばらく目が離せなかった。

俺はその瞬間、はっきりと理解したんだ。

この女は、大切にしなければならない、と。


それからというもの、狩場であいつを見かけると、いつも傷だらけだった。

宣言通り、パーティの盾を務めていた。
そしてそのパーティの中で、トミー以上に傷を負っている奴は、一人もいなかった。

だがあいつは、どれだけ傷を負っても、辛そうな顔は決して見せなかった。
むしろ、望んだ生き方を見つけたあいつは、信じられないほど、生き生きしていた。


でも、俺は嫌だった。
―――いや、怖かったんだ。


あんなことをしていて、いつかあいつ自身が命を落としてしまうんじゃないかって。


その恐怖は日に日に募り、俺の中に重くのしかかっていった。

だから俺はナイトを目指し、誰よりも優れたリーダーになろうと必死になった。
仲間を護る術を学び、詰め込めるだけの知識を頭に叩き込んだ。

戦士よりも盾に適しているナイトになって、限りなく安全な狩りを実現する。


お前が護ろうとしてる仲間も、お前自身も。
全部俺が護ってやる。

だからお前は傷付くな。


……気がつけば、俺はそれだけを考えて、ここまでやってきたんだ。


全部、お前のためだった。
お前のために戦ってきた。

なのに俺は、お前から目を背けた。
自分が傷つくのを、怖がったんだ。

これで今、あいつが傷付いてみろ。
俺は―――俺自身を絶対に許さない。


「トミーーーーーーッ!!」

静まり返ったジャグナー森林に、喉を枯らして名前を叫ぶ。

けれど、その声に応える者は誰もいない。
ただ、自分の荒れた呼吸だけが耳に残る。

不意に、頬に汗とは違う雫が落ちた。

見上げれば、いつの間にか空は分厚い雲に覆われ、空が、静かに泣き始めていた。

次々と沸き上がる後悔の念を噛み殺しながら、俺は足を止め、辺りをぐるりと見回す。
心の中では感情が荒れ狂い、黙りこくった深い森を、俺は目を見開いて睨みつける。


「…あいつを……返せ!!!」


<To be continued>

あとがき

というわけで、リオとダンはあっさり別れてしまい合流ならずです。
パリスのくだらないジョークはどこまで事態を悪化させるのか……。