ピエロと弟と詩
空から見下ろすサンドリアの町は、星の瞬く夜空の下、黒い大地にぼんやりと浮かび上がっていた。
人々が眠りにつく時間は、とうに過ぎている。
それでも、冒険者達が行き交う表通りは明かりが灯り、まだ賑わいが残っているのが見て取れた。
暗い空から、柔らかな光に包まれたその町へ向かって、飛空艇はゆっくりと降下していく。
町の灯を反射してきらめく海面に触れた瞬間、冷たそうな水飛沫の音が響いた。
着水の衝撃に揺れながら、飛空艇は海面を滑り、まるで見えないレールの上を進むように、港の乗り場へと引き寄せられていく。
―――この飛空艇を操縦している者は、一体どれだけ訓練を重ねたのだろう。
そんなことをふと思いながら眺めていると、到着を知らせる声が聞こえた。
乗り合わせた他の冒険者達は、我先にと次々に飛空艇を後にしていく。
パリスはしばしの間、彼らの様子を他人事のように眺めていたが、思い出したように昇降口へと足を向けた。
飛空艇乗り場を出ると、やはり町は静かだった。
到着の賑わいも束の間、冒険者達が散り散りになった後は、再び夜の静寂に包まれていく。
パリスは何となく辺りを見回し、『さて……』と独りごちて、ゆっくりと歩き出した。
―――わっはっはっは……
ふいに、後方から賑やかな笑い声が聞こえた。
パリスは肩越しに振り返る。
少し離れた場所にある酒場の扉が開き、一人の男が店から出てきたところだった。
店内から漏れ聞こえる酔いどれ達の笑い声が、どことなく日の代わりを意識させる。
パリスは時刻の遅さを改めて実感しながら、これからの自分の行動について思案を巡らせつつ、石造りの通路へと足を踏み入れた。
エルヴァーンの国であるサンドリアの建造物は、基本的に石造りで統一されている。
迷路のように入り組んだ場所もあるので、他国の人間が『息苦しい』と言うのも無理はないとパリスは思っていた。
確かに、堅苦しくて窮屈に感じるかもしれない。
閉ざされた空間が連なる無骨な町の造りは、まるでエルヴァーンの文化そのものを体現しているようだった。
転々と灯がともる通路に、パリスの足音だけが静かに響いている。
だが、今の時間は自分くらいしか出歩いていないだろうと油断していると、警備に当たっている騎士とばったり出くわして肝を冷やす。
そんなことがよくあるのが、サンドリアという場所だ。
生まれも育ちもサンドリアであるパリスは、それをよく分かっているはずだった。
だが今宵は、どこか気が緩んでいた。
狭い階段を上っていると、不意に、上の方から騎士風の男が姿を現した。
足元に視線を落としていたパリスは思わずぎょっとして、慌てて脇に寄って道を譲る。
お互いに軽く会釈を交わし、そのまますれ違った。
ところが、パリスが階段を上り切ったところで、背後から声がかかった。
「もしかして……」
自分に向けられたように聞こえたその声に、パリスは眉をひそめて振り返る。
階段の下には、先程すれ違った男が立ち止まり、こちらをじっと見上げていた。
薄暗い中、男はまじまじとパリスの顔を見つめている。
赤く長い髪をひとまとめに後ろで束ねた、エルヴァーンの青年だった。
「……おやおやおや、気が付かなかったよ」
気の抜けたような調子で、パリスの方が先に言葉を返す。
それは、しばらく振りの友との再会だった。
* * *
やはり、酒場の中はドアを開けただけで賑わいが外へと溢れるほど賑わっていた。
一日の務めを終えた騎士や、町で働く男達が主な客層のようだ。
見渡す限りでは、騎士の姿は数は少なかった。
ほとんどは無骨な男達がくだらない話題で盛り上がっている、そんなテーブルばかりだった。
その喧騒を少し離れた、店の隅のカウンター席に、パリスとその友人は並んで腰を下ろした。
「どうだ、出世はしたか?」
注文を済ませた直後、友人は開口一番にそう切り出した。
パリスは苦笑いしながら頬を掻く。
「冒険者の若造捕まえて、いきなりそういうこと聞くんですか君は。僕ぁ相変わらず、ただの貧乏な冒険者でーすよ」
「ほう、まだ冒険者を続けているんだな」
「これでも僕ぁ、結構一途なんでねぇ~」
ヘラヘラと笑いながら答えるパリスに、友人は『よく言う』と苦笑を返した。
彼はパリスとは対照的に、きっちりとした身なりをしていた。
店に入って重厚な鎧こそ一部を外したものの、騎士としての威風堂々としたオーラは健在だった。
ぴしりとまとめた赤い髪は微かな乱れもなく、いかにも高貴な雰囲気をまとっていた。
「リェン君は?出世なさったんで?」
パリスに『リェン』と呼ばれたその青年は、『俺もまだまださ』と控えめに笑った。
丁度その時、店員が二つのグラスを運んできて目の前に静かに並べた。
リェンが手に取った細いグラスには、彼の髪と同じような深紅のカクテルが揺れている。
「今は昔と違って、ずいぶん平和になりましたからね。自分の腕を見込んでもらえる機会なんて、そうそうないでしょうに」
そう言いながら、パリスはグラスには手を伸ばさず、ぼんやりとその中身を見つめた。
半透明のカクテルの中で光が揺れている。
リェンはそんなパリスの様子に、ぴくりと眉を動かして身を乗り出した。
「最近では騎士団を抜けて冒険者になる者も出てきてな……まったく、恥知らずが多くて敵わん」
「冒険者の僕を前にして言う言葉かい?それ」
「お前は騎士団に入団すらしなかっただろう」
「あーーあーーあーー何も聞こえないーーー」
困ったように笑いながら、パリスは耳を両手で塞ぐ。
リェンは口元を引きつらせ、呆れたように小さく溜め息をつくと、カクテルをカウンターに置いて懐に手を入れた。
何かを探し始めた彼を見て、パリスは思わず目をしばたかせる。
ちらちらとリェンの手元と顔を見比べながら、恐る恐る口を開く。
「何?え、ナニナニナニ?」
「出世はせずとも、吉報ならある」
そう言いながら、リェンは懐から一通の封筒を取り出した。
その中から一枚の紙を取り出し、パリスに手渡す。
パリスは、見てもいいのかと視線でリェンに問い掛ける。
リェンが深く頷くのを見てから、彼は折り畳まれた紙を開き、目を通した。
数秒ほど黙読した後、紙から目を離さず、ゆっくりと口を開く。
「『親愛なるリェンへ。先日はありがとう、花束とっても嬉しかったわ。まさか突然あんな風にプロポーズされるとは思わなくて、驚いて泣いちゃいました』。……プロポーズ!?いやぁ~やるもんだねリェン君!」
「……?何を読んでいる。そんなことは書いていないはずだが」
可愛らしい口調で手紙を読み上げ、調子に乗って感想まで述べているパリスの顔を、リェンは真顔で覗き込む。
パリスは爽やかに笑っていたが、その視線に気付くと肩を落として困ったような表情になった。
「………君は本当に冗談がきかないよねぇ……」
「お前はどこからが冗談なのか分からない」
「いやいやいや、今のは明らかに冗談じゃないの。君自身のことでしょうが」
苦笑いしながら紙を丁寧に折りたたみ、パリスはリェンに返した。
「……遠征への参加、ですか」
自分のグラスに手を伸ばしながら、パリスは少々声を抑えて呟いた。
店の中は相変わらず騒がしく、喧騒にその声がかき消されていく。
今の言葉が聞こえたのは、隣に座るリェンだけだった。
「相手はオークさんですかね?」
「そうだ。お前も冒険者なら、今の世界の様子は見えているだろう?獣人共に少々怪しい動きが見られる。警戒を強め、危険の芽は早い内に摘んでおかねばな」
そう言いながら、リェンは紙を戻した封筒をじっと見下ろす。
その口調は静かだが、ひとつひとつの言葉に力がこもっていた。
隣りでパリスはカクテルに口をつけ、鼻にかかったような声で適当に唸る。
「ふ~ん……」
その気の抜けた態度に、リェンは思わず眉をひそめた。
不満そうにパリスの顔を見つめる。
「冒険者は何も感じていないのか?世界は、決して平和ではない」
そう言いながら、リェンはふと視線を落とし、声を低くする。
「……………ジャンが死んだ」
その言葉に、パリスの手が止まった。
丁度カクテルのグラスを口に運んでいたが、ぴたりと静止する。
ゆっくりと横目でリェンを見ると、何も言わずにグラスを置いた。
「……ひと月程前に、噂で聞いたんだがな」
「なーんだ、噂か。噂っていうのは当てにならないものでしょ」
「詳しいことは分からない。だが、その噂は―――どうやら本当のようだ」
リェンの真剣な声を聞いて、パリスはぽりぽりと頭を掻いた。
カウンターに肘をつき、黙り込む。
その沈黙は、思っていたよりも長く続いた。
やがて、リェンの方が先に違和感を覚え、顔を上げる。
見ると、隣りに座るパリスは、視線をどこか一点に向けたまま固まっていた。
まるで何かを思い出しているかのように、微動だにしない。
「………どうした?」
「―――ん?いや、世の中物騒だな~ってね」
そう言って、いつもの気の抜けた顔に戻ったパリスは、椅子に座り直して溜め息をついた。
「ん~で?その遠征で頑張っちゃおうかな~って思ってるのかい?」
突然話を戻してきたパリスに、リェンは一瞬きょとんとした顔を見せた。
何のことか一拍置いてから思い出し、『あぁ』と小さく唸る。
封筒を静かにしまいながら声を潜める。
「……それもあるんだがな。実は、他にもひとつ……チャンスが転がり込んできそうなんだ」
「………『きそう』ってことは、また噂が情報源?」
パリスの突っ込みに、リェンは苦笑しつつ首を横に振った。
「噂とは少し違うんだが……。ただ、それについては詳しく話せない。しかし、この国の為に剣を捧げるのは確かだ」
そう言って微かに笑みを浮かべるリェンを、パリスはじっと見つめ、やがて思い切り首を傾げた。
頬杖をついたまま、少し呆れたような表情を浮かべる。
「何だかよく分からないけど……大丈夫なの?それ。っていうか何ですか、最近の騎士さんの情報源は噂話なんですか」
『参加する会議は井戸端会議ですか』と苦笑いする。
堅苦しく、威厳と格式ばかりが先に立つこの国で、騎士達が噂話に耳をそばだてている様子など、想像するだけで確かに滑稽だ。
パリスは半ば呆れたように首を振り、一つ溜め息をついてグラスに口をつけた。
リェンはそんな様子を横目でじっと見つめたまま、口を引き結ぶ。
そして、オールバックの髪には前髪などないというのに、まるでそれを掻き上げるような仕草をして口を開いた。
「……ほう。では、俺の耳に入っている“お前の噂”も、当てにならないと?」
「ふあは~?」
グラスを咥えたまま、気の抜けた返事をするパリス。
「お前がどんな生活をしているのか、噂で聞いているぞ。どういうつもりだっ」
語気を強めたリェンは、真っ直ぐにパリスの目を見据える。
その勢いに、パリスは少し面食らったように目を瞬かせ、喉を鳴らしてカクテルを飲み込む。
「………え~っと………」
肩を窄め、目を泳がせるパリスの様子に、リェンは片手で自分の顔を覆った。
「……まぁいい、誰にだって秘密の一つや二つはある。だが、お前の噂は広まり過ぎているぞ」
「あっはっはっはっは。そりゃぁ、まぁ、人気者ですから♪」
「……まったく……掴めない奴だ」
ニヘラッと笑って見せるパリスを指の隙間からじっと見つめながら、リェンは疲れたように深く溜め息をついた。
パリスとしては、ただ冗談として聞き流してくれれば良いと思っていた。
だからこそ、リェンの真顔にわずかに笑みを歪ませる。
彼とは幼馴染ではあるが、昔からこうして時折、反りが合わないような気がして仕方が無かった。
「……ヴィヤーリット殿は、どうされたのだ?」
突然落ち着いたトーンでリェンが呟いた。
『やれやれ』とでも言いたげに、グラスを口元に運ぼうとしていたパリスの手が止まる。
そして―――丸めていた背中が、ぎこちなく真っ直ぐに伸びた。
「耳にするのはお前の話ばかりで、ヴィヤーリット殿の情報は全く手に入らない……」
リェンはグラスの中をじっと見下ろしながら、独り言のように呟く。
「……本当に、知らないのか?」
その一言だけが、酒場の喧騒の中でひどくはっきりと聞こえた。
まるで周囲の音がすべて止まったかのように。
リェンがパリスへと視線を向けると、彼は丁度残りのカクテルを飲み干したところだった。
グラスを置き、息を吐く。
ほんのり上気した頬に笑みを浮かべて、パリスが言った。
「うちの母様から聞いてない?……まぁ……母様は認めたがらないんだけどね」
そう言って、パリスはポケットの中を探り始めた。
「兄さんは死んだ」
リェンの目を真っ直ぐ見て、はっきりとそう答える。
それから、ふっと小さく笑って見せた。
そして懐から金を取り出すと、カウンターにそっと置いて近くの店員に声をかける。
椅子から立ち上がると、リェンもつられるように立ち上がった。
だがパリスは笑いながら彼に両手の平を見せて、制するような仕草をした。
「いやぁ、ゴメン。なんかこのカクテル、ちょっと強かったみたい。待ってる人もいることだし、酔いつぶれる前に帰らせてもらいま~すよ」
確かに、パリスは頬は赤く染めている。
少し酔っている風に見えた。
―――いつからこんなに酔っていたのか。
パリスの噂話について話し始めた辺りだったような気もする。
リェンは、心配よりもまず疑問の方が先に立った。
「それは冗談だろう?ヴィヤーリット殿が、どのように命を落とされたと言うんだ」
「ん~……非の打ち所がなかった兄さんのことだからね。そう言いたい気持ちも分からなくはないよ」
「なぜだ」
パリスが出口に向かおうとし、リェンの横を通り過ぎようとしたその時―――リェンは一歩前へ出て彼の前に立ちはだかった。
「悪いけど、兄さんのことは噂話にされたくないんだ」
パリスはそう言いながら、片手でそっと目元を覆った。
そしてすぐに、ふと顔を上げていつもの調子でにっこり笑う。
「だからナ~イ~ショ♪」
軽くリェンの肩をぽんぽんと叩きながら、おどけたように笑った。
「あ、そうそう。代金ね、ちょっと手持ちが足りなかったんだよ。なので足りない分は奢ってください、騎士殿♪」
ヘラヘラと笑いながらカウンターを親指で示し、パリスはリェンの横をすり抜けていく。
リェンはまだ納得いかず、呼び止めようと口を開きかけたが―――
それよりも先に、パリスの声が飛んできた。
「んじゃあ、お父様によろしく」
ヒラヒラと手を振りながら、軽くそう言い放つパリスにリェンは思わず眉をひそめる。
「……それは、俺のか?それとも……?」
その問いに、パリスは後ろを振り返ることなく、軽く肩をすくめた。
「ん~………どっちでも」
そう言って、店の扉に手をかける。
軋む音とともにドアノブが回り、酒場のざわめきから一転して、夜の静寂がパリスを包んだ。
やがて扉が閉まり、彼の背中は暗がりへと溶けていった。
* * *
月の光さえ届かない、深い闇に包まれたその場所には、一枚のドアがあった。
しんと静まり返ったその扉の前に、長身のエルヴァーンが一人足を止める。
手にした荷物の中から、一通の封筒を取り出し、そっと視線を落とした。
封筒は淡い緑色。中にはクリーム色の便箋が入っている。
だがこの暗さでは、例え便箋を広げたとしても、そこに書かれた文字を読み取ることはできないだろう。
それでも―――彼の頭の中には、その文章が鮮明に刻み込まれていた。
しばし黙って佇んだ後、彼はようやく手を伸ばし、静かにノックする。
そして、ためらいがちにドアを押し開けた。
扉の向こうもまた、こちらと同じく闇の中。
しかし彼の眼は、すでに暗さに慣れている。
彼はすぐには足を踏み入れず、ただじっと室内を見つめていた。
やがて、部屋の奥から、布が微かに擦る音が聞こえる。
「……遅くなりま~した」
声を潜めて、そっと部屋に足を踏み入れる。
だが、入室した彼はすぐには進まず、扉を閉めたその場でまた立ち止まった。
また、微かに布が擦れる音がした。
立ち尽くしていたエルヴァーンの青年は、小さく溜め息をついた。
「……手紙、読みました」
静かにそう告げる声が、暗闇に溶ける。
「……そんなに気になりますか?」
「………………トミーちゃんのこと」
床板がわずかに軋む。
青年はゆっくりと、慎重な足取りで部屋の奥へと進んでいく。
「あなたは……何も心配しなくて良いんですよ?」
暗闇の中そう放たれた声は、ひどく優しい響きであった。
だが、その優しさの奥底には、静かに渦巻く何かがあった。
揺るぎない意思がわずかに滲む。
彼の仲間達は、きっとこの声を知らない。
日頃の彼からは想像もできない、もう一つの顔。
夜明けは、もうすぐそこまで来ている。
あとがき
これを『パリスの事情話』と言ったら怒るでしょうか?(滝汗)全然明らかにしてないし。
逆に更なる疑問を大量提供した感じですね☆
そして、一世を風靡したリェンの記念すべき登場話です(´-`;)