世界で一番優しい人

第二章 第十八話
2005/07/05公開



どうして?


どうしてこんなことになったのだろう?


やっぱり、あんな騎士共なんかさっさと見捨ててしまえばよかったんだ。


あいつらと、出会いさえしなければ。



――騎士が憎い。



そして、理性のない獣人共がすべてを奪っていった。


家族だけに留まらず、かけがえのない大切な人達も。



――獣人が憎い。



皆が死んだ後に起こる奇跡など。


何がアルタナの女神か。



――憎い。



――――すべてが。




現在ジュノの町は、戦争中のようなざわめきは一切消え、人々が質素に暮らす綺麗な町となっていた。
難民もいなければ、当時たくさん駐留していた軍の人間達も今はもういない。
ただ普通の先進国として、街の中は時間が流れていた。

数年振りにやってきたジュノの変わりように、ノルヴェルトらは複雑な思いを抱きつつ、この大きな町に足を踏み入れた。
初めてジュノにやってきたソレリは瞳を輝かせている。
入国ゲート近くにある大きなクリスタルを見てはしゃぐことから始め、立派な教会や町の不思議な造りに何度も歓声をあげていた。

大陸と大陸を結ぶ架け橋のように存在するジュノ。
縦に幾つかの層に分かれている造りで、幼い少女が興奮するには充分な視覚的刺激を持っている。
ノルヴェルトは、数年前にこの国へ入った時のことを思い出すと、昔の自分の声が蘇った。

『僕も、一緒にいけるかな?』

あの問いを口にした時の、堪らない恐怖心は今でもはっきり覚えている。
ノルヴェルトは固く口を結ぶと、少女を抱き上げて無言で歩いた。

ノルヴェルトらはその大きな町の中をさ迷い、通りから大きく反れた人気の少ない場所に廃屋を見つけた。
その廃屋の中に入った時、ノルヴェルトは不思議な懐かしさを覚える。
サンドリアで親子とセトと五人で暮らしていた時の家に、何となく造りが似ていた。


以前の家と間取りが似ているその廃屋。
以前の家でいうとマキューシオの書斎であった部屋に、ノルヴェルトは一人で椅子に腰掛けている。

気分は最悪だった。

憎いという感情ばかりが渦巻いて、ノルヴェルトは死んだように身動きしない。
ただひたすら過去のことを思いつつ、じっと足元を睨んだまま、気が付くと外から微かに鳥のさえずりが聞こえてきた。

そう、ノルヴェルトは一睡もせずに朝を迎えたのだ。
なかなか寝付けないなどということは、逃亡生活が始まってからというもの、いつものことだ。
しかし、一睡もしないというのはそう頻繁にあったことではない。

そもそも、ノルヴェルトがこんな状態になったのは、昨晩の出来事が原因だった。

昨晩は悪夢のようで、本当に最悪な夜だったから。



   *   *   *



ノルヴェルトは健気にも、マキューシオの傍を離れることはしなかった。
相変わらず彼が口にするのはもういない過去の戦友達の名ばかりであったが、そんな彼の傍らにノルヴェルトは辛抱強く居続けている。

彼はきっと、昔の時間へ戻っているのだ。

スティユはそう言っていた。

自分と出会う前の時間に戻っているのならば、自分の名前が呼ばれるわけがない。
ノルヴェルトはそう失望すると同時に、さらに恐ろしいことに気が付いた。

今のマキューシオが自分のことを知らないのならば、ソレリのことも当然分からないのでは?

目の前で薄汚れたぬいぐるみとじゃれている幼い少女を見る、マキューシオの優しげな目。

その目は果たして、自分の娘を見守る父親の目か?
それとも、無邪気に遊んでいる他人の娘を眺める目か?

彼の妻であるスティユがその疑問に気が付かないわけがない。
ノルヴェルトは一人で遊んでいるソレリではなく、それを眺めるスティユやマキューシオばかり見つめていた。


スティユは、今でもマキューシオを信じているのだろうか。

ノルヴェルトは自分よりもスティユの方が、今の状況は辛く悲しいもののはずだと分かっていた。
愛する夫が自分達の娘のことまで分からなくなっているかもしれない。
それがどんなに悲しいことか、ノルヴェルトは自分では想像し得ないと思っていた。

だが、スティユは今でも変わらず、愛のある眼差しと仕草でマキューシオやソレリの世話をする。
それが家族というものなのか。

ノルヴェルトはどんなに傷付けられても、マキューシオ達と家族でいたいと切に思った。
彼らとの繋がりがなくなったら、自分は正真正銘、ただの死にぞこないになる。

ノルヴェルトは心の中で自分に対して叫び続けていた。


信じろ。

いつかきっと。

大丈夫だから。




しかし、その日のノルヴェルトは、自分で自覚している以上に疲れていた。


「……そういえば、ワジジは?」

そう呟いて、マキューシオが辺りを見回し始めた。
ノルヴェルトとスティユが二人同時にびくりと顔を上げる。

「フィルナードを呼びに行っただけにしては遅い」

呆然とした口調で一人ごちて、ゆっくりと椅子から腰を上げるマキューシオ。
今にもワジジを探しに行きそうな雰囲気のマキューシオを愕然と見上げてから、ノルヴェルトはちらりとスティユを見た。
彼女は酷く悲しげな表情をして、ぐっと唇を噛んで俯いていた。

知らずの内に限界を超えていたノルヴェルト。

その瞬間――心の中で、何かがふつりと切れてしまった。


「……いい加減にしてください……っ」


押し殺した声を絞り出すと、きょとんとした顔でマキューシオがこちらを見た。

どうせその眼差しも、こちらが何者か分かっていないのだ。

そう思うとノルヴェルトの身体はみるみる熱を帯びていった。

「もうたくさんだ……どうして分からないんですか!!」

ノルヴェルトは壁に預けていた背を弾かれたように起こして叫んだ。

「ドルススもワジジもフィルナードも、もう皆いないんですよ!皆死んでしまったんだ! もういないんですよっ!!!」

マキューシオは、何を言われているのかきっと分かっていないだろう。
そんな彼に言い聞かせるように、自分では受け入れたくなかったことを、ノルヴェルトは力一杯叫び続けた。

「四年前のあの日に皆死んだんだ! あなたも一緒に戦ったじゃないですか!!護るために、あの軍師を斬ってまで!あなたは最後まで戦ったじゃないですか!!」


「皆も戦ったんだ!勝機の見えない戦場で!あなたが見つめる未来を信じて!」


「だけど……!戦ったけど…っ…皆死んでしまったんだよマキューシオッ!!」


そこまで叫んで最後にもう一度『もういないんだっ!!!』と渾身の力を込めて叫んだ。

視界の端で、遊んでいたソレリが驚いて硬直しているのが見える。
ノルヴェルトは肩で息をついてマキューシオの目を見つめる。
しかし、彼に自分の言葉が届いたという実感は微塵もなかった。



――だが。

その夜は、ノルヴェルトの叫びに、マキューシオの言葉が返ってきたのだった。


「……とんだ勘違いを……」


ぼんやりとした口調で呟かれた言葉。

「私は何も護ってなどいない」

ノルヴェルトとスティユの呼吸が一瞬止まる。
二人が驚きの表情で見つめる中、マキューシオは残った己の片手を見下ろす。
一見、手を見つめているように見える彼の瞳は、もっと何処か遠くを見つめているようだった。

「あの日はたくさん殺めたな……。まだこの手に……あの日に感じた手応えが残っているようだ」


「……あの時、何が護れたというんだ? 辺りには骸しかなかっただろう?」


落ち着いた口調で懐かしむようにそう語るマキューシオの姿は、何とも言いがたい不気味さがあった。
ノルヴェルトはそんな師の姿に言葉を失っていたが、まだ身体の熱は治まらなかった。
歯噛みして口を開く――
すると、ノルヴェルトが打ち消すことのできない言葉が、マキューシオの口から零れた。


「あの軍師を殺したのも、護るためではない」


「――え…」

まったく予想していなかった発言にノルヴェルトは声を失った。


――そして師は、ノルヴェルトが最も望んでいなかった言葉を、紡ぐのだった。


「あれは違うよ……ただ、限界だっただけだ」

「……マキュ…?」

「殺してやりたいと思ったから刺したんだ……は……あんな男……」

口元を押さえて言葉を並べる師の表情は、今まで見たこともないもので。

「あの行動に理性など存在しない。黒くて醜い感情だけが起こした……ただの」

「マキューシオ…ッ」

「殺しだよ」

「やめてください……!」

ノルヴェルトは頭を殴られたような衝撃と眩暈を感じながら、マキューシオに懇願した。
彼が今何を言っているのか、ほんの一部さえも理解したくない。
しかし、どんなに言葉を投げ掛けても掻き消すことができなかった。

「私は何も護る気などなかった」

「そんなこと……」

「何も殺さずともあの男を止めることはできたのだから」

「聞きたくないっ」

血が逆流しているのではないかと思うくらいに気分が悪くなった。
全身に寒気が走る。吐き気がする。


あなたの口で。

あなたの声で。

あなたのその瞳で。

――そんなことを……。


「殺意を抱いた。だから殺したんだ」

「マキューシオッ!!」

ノルヴェルトは頭を抱え悲鳴じみた声で叫んだ。


次の瞬間。

――パンッ!

乾いた音が部屋に響いた。

ノルヴェルトは喉を引きつらせながら息をつき、怯え切った顔を上げる。
見ると、スティユがマキューシオの頬を叩いた直後だった。



数秒間、部屋の中が静寂に包まれる。



「…………や~あぁ~」

時が止まったようにしんとした部屋の中、ソレリが恐怖に耐えられず泣き出した。
ソレリの泣き声は徐々に大きくなり、部屋の沈黙を塗り潰していく。
そして、呆然と突っ立っているマキューシオを見上げているスティユも。

「それだけは……それだけは言ってはいけなかったのよ、マキューシオ…!」

嗚咽の中から叫ぶ。
弾かれたようにマキューシオに背を向けると、座り込んでわんわん泣いているソレリのもとへ向かった。
喉をしゃくりあげて泣いている幼い娘を抱き上げ、スティユは逃げるように部屋から出て行った。
ドアが閉まっても、ソレリのけたたましい泣き声が聞こえてくる。

ノルヴェルトは止め処なく溢れてくる涙を拭うことすらできずに、マキューシオを見つめた。
マキューシオは力なく椅子に腰掛けると、虚空を眺めてぶつぶつと呟いている。

「……やっぱり遅過ぎる……ワジジ……ワジジ……」

ノルヴェルトはそんなマキューシオを見つめて無言のまま首を左右に振った。
そしてゆっくりと後退して、ドアを開くと部屋を出る。
部屋を出るとソレリの泣きじゃくる声……それと。
スティユが泣いている。

ノルヴェルトは奥の部屋へと逃げ込むとドアを閉め、部屋の中央まで進んで膝を折った。
しばらく床に落ちる自分の涙を見つめていると、おもむろに背負っていた剣を引き抜く。
呪わしいその剣を力任せに床に叩きつけ、声を上げて泣いた。



   *   *   *



そうして今に至る。
ノルヴェルトの泣きはらした目元には酷い隈ができ、顔からは完全に生気が失せていた。


もはや彼は、信じることさえ許してくれないのだろうか。


「何もかも……あいつらが奪っていった……何もかも…」


呆然と考えながら口から零れるのは憎悪の唄。


マキューシオはもう、何も分からなくなっている。

昨日口走ったことも真実ではない。


そのように前向きに考える気力など、ノルヴェルトには残っていなかった。


もう嫌だ。

誰か助けて。



…………すべてを終わりにしてしまいたい。





「……ずいぶんとお疲れのようだな」

「!!!」

ノルヴェルトは即座に、投げつけたままにしていた自分の剣に飛びついた。
床に片膝をついたまま剣を構え、目だけを動かして気配を探る。
埃っぽい暗い部屋、窓は割れた戸が閉まっており微かに外の光が差し込んでいる。

幻聴――ではない、確かに今、何者かの声が……。

一瞬で緊迫したノルヴェルトの身体は、全神経を集中させて刺客と思われる人物の気配を探した。


決定的な第二声は、部屋のドアの向こう側から聞こえた。

「なかなかの反応だが……」

相手の居場所を確定したノルヴェルトは全身に闘志を漲らせる。
だが――次の瞬間、考えられない事柄に気がついた。

その声には聞き覚えがあったのだ。

先程までとは別の意味で鼓動が早くなる。


まさか、そんなこと、あるわけが。



「……ふん……図体ばかりでかくなって、中身はガキのままか……」

「フィルナード!!!」

三度目の言葉で確信したノルヴェルトは、剣を放り出してドアに向かって駆け出した。

間違いない!――確かにあの漆黒の騎士の声だった。

ドアの向こうでどのような顔をして立っているのか容易く想像できる。
ノルヴェルトはドアノブに飛び付くとそれを捻った。
しかし、不思議とドアノブはびくともしなかった。
逆に捻っても、押しても引いてもドアは微動だにしない。
苛立ったノルヴェルトは一度力一杯ドアを叩くと、すがるようにドアへ身を寄せた。

「フィルナードッ!良かった……生きてたんだ!!」

確かに気配を感じる。
あの目付きの鋭いエルヴァーンの冷たい気配を。

ノルヴェルトは必死にドアの向こうにいるもう一人の師へ叫んだ。

「フィルナード……マキューシオが……マキューシオ……が……っ。戻ってきてフィルナード、俺じゃ駄目なんです!」

昨晩さんざん泣いたにも関わらず、途端に涙が溢れてきた。
ドアの向こうから感じられる気配だけでこんなにも落ち着く。

「……俺はもう、そっちに戻る気はない」

皮肉れた声でそう答えながら鼻で笑うフィルナード。
そんな情の感じない態度も、今ではこんなにも安らぐ。

「マキューシオには必要なんですよ!ドルススが……ワジジが……あなたが!俺じゃ……駄目なんです…!」

「……やはり中身は何も進歩していないようだな…。弱音ばかり吐いていないで、いい加減前に進んだらどうだ? お前ほどあいつを護るのに適した奴はいない」

「……そんなの……嘘だ……」

ドアに押し付けた手で拳を作り、搾り出したような声で呟いた。

すると、ドアの向こうでフィルナードが舌打ちしたのが聞こえる。


「……俺がなぜ、お前にあの鎌を渡したか分かるか?」

突然のフィルナードからの問い掛けに、ノルヴェルトは嗚咽を噛み殺すように歯を食い縛って顔を上げた。

「それはお前が、俺とは違った使い方であの鎌を使いこなせると思ったからだ」


「次はお前があいつを護ってやれ、ノルヴェルト」


その言葉を聞いた瞬間、ノルヴェルトは自分の中である結論に行き当たり絶望した。


これは、夢だ。

フィルナードは、名前を呼んでくれたことなんてなかった。



ノルヴェルトは絶望感に打ちのめされながらも、自分の思い描いている師に夢だと分かっていても、すがった。
例え夢でも、また会えた。

「無理ですよっ……もう……俺には……無理だ……重過ぎる。俺じゃあの人を救えない……です」

尚も語りかけ続ける自分がどうしようもなく空しい。
でも、フィルナードが『くくく、重症だな』と返してきたことが残酷にも嬉しかった。

「あいつを護るのに最も適しているお前が……なぜ、自分では駄目だなどと思うのか。分かるか?……それはお前に覚悟がないからだ」

フィルナードはこんなに饒舌じゃない。
思いながらも、『覚悟?』と聞き返す。

「お前の決意には覚悟がない。だから失ってばかりいる。なぜそれに気が付かない?」

もうノルヴェルトとしては、フィルナードが言っていることなどどうでも良かった。

「お前の覚悟を妨げているのは何だ?恐怖か?優しさか?……くく……違うだろう?」

ただこのまま、ずっと、彼に言葉を投げ掛けられ続けたいとだけ。

「このままではいつまで経ってもお前は誰も斬れない、護れない」

それだけが自分の永遠になればいいと思った。



「…………ふん……もう手遅れのようだがな」


呟かれたその一言は、対話の終わりを告げる響きを持っていた。
ノルヴェルトは知らずの内に閉じていた目を開いた。


「フィルナード……!?」


――いかないで!!!!


飛び起きると、ノルヴェルトは部屋の隅にある椅子に腰掛けていた。
昨晩さんざん荒れた末に剣を背に収めてじっと蹲った態勢のままである。

一瞬愕然としてから、すぐさまドアへと駆け出した。
ドアノブを掴んで捻ると今度はすんなり回る。
ノルヴェルトは先程まで対話していた男の名を呼びながらドアを開け放った。

開け放った先には誰の姿もなく、埃っぽい廊下にどこからか紛れ込んだ光が線を引いている。
心の何処かでは誰もいないと分かっていたノルヴェルトは、廊下を見つめて立ち尽くした。

やっぱり、夢だったんだ。

今さら、涙も出なかった。

ノルヴェルトはしばしの間、薄暗い廊下をぼんやりと見つめて立ち尽くしていた。
やがて、涙の痕の残る顔をごしごしと乱暴に手で擦った。
両手で自分の顔を覆ったまま深い溜め息をつく。

見た夢の内容を思い出せば、自分がどんなに弱気になっていたのかがよく分かった。
もしも本当に昔の仲間が自分の前に現れたら、あの夢の時と同じことを自分は叫ぶのだろう。
ノルヴェルトは情けないような切ないような気分になり、もう一度溜め息をついた。


そうしてふと、家の中に漂う違和感に気がついた。
フィルナードの名を叫びながら部屋を飛び出したのだ。
あれだけ大騒ぎすれば疑問に思ってスティユとソレリが顔を出してもおかしくない。

しかし家の中は静まり返り、誰かが活動している気配は感じられない。
ノルヴェルトはそれに気が付きどきりとしたが、口を引き結んで家の様子を眺めた。
背中にちゃんと剣を背負っていることを後ろ手に確認し、そっと足を踏み出す。

マキューシオがいる部屋は、昨日のこともあり恐ろしかったので後回しにし、まずは水の出ない流しのあるキッチンを覗いた。
誰もいない。
今日になって誰かがその空間を使った痕跡も見当たらず、ノルヴェルトは首を傾げた。
まだスティユはあの部屋から出ていないのだろうか?

親子はいつも同じ部屋で寝ている。
ここにいないということは、まだマキューシオがいる部屋にいるかもしれない。

何だかとても嫌な予感がした。

ノルヴェルトは悪足掻きをするように家の中を見て回った。

自分が寝ている間に刺客が?
――そんなはずはない。

もしかして三人で外に?
――そんなまさか。

ノルヴェルトは痛いほどに鼓動する胸に手を当てて、ぐっと服を握り締めた。
そして意を決して、残るマキューシオの部屋のドアをノックする。
恐怖心を紛らわすために、ドアを開けると同時に大きな声で言った。

「おはようございます」



部屋の中はがらんとしており、ヒュームの親子の姿はなかった。



   *   *   *



ノルヴェルトは息を切らせてジュノ下層にある小さな噴水の前に立ち尽くした。

ソレリは噴水が好きだから、もしかしたらと思ったのだが……。

あれから家を飛び出し、ノルヴェルトはジュノの町を親子を探して駆け回った。
名を叫びたかったが、逃亡する身であるのでそう目立つ行動はできない。
この町に来てからまだ刺客からの襲撃には遭っていない。
だが、間違いなくこの国にもあの騎士は部下を潜伏させているだろう。
ノルヴェルトは刺客への警戒にも苛立ちつつ、平和な町中を必死に探し回っていた。

親子三人ともが忽然と姿を消した。

荷物はそのままだったーー
一体何のために外へ?

考えれば考えるほど嫌な予感がしてならなかった。
いち早くあの親子の姿を確認したくて、喉を枯らして息をつきながらも再び駆け出した。
もう時間はとうに正午を過ぎ、昼食を終えた人々が再び活動を始めている。

今日は寒い日だった。
空は灰色の雲がどんよりと重たく広がっている。
雲が反射させるぼんやりとした光の下で、町の人々は皆楽しそうに笑っていた。
並ぶ家々は外装を飾り付け、ぽつぽつとカラフルなランプが点灯している。
道を行き来する子ども達も皆笑っていて、ノルヴェルトは無意識の内に唇を噛んだ。

何て薄情なんだ、この町は!!
自分はこんなにも恐れと不安に怯えているというのに!

理不尽だがそんな怒りが込み上げて、ノルヴェルトはジュノ下層を一気に駆け抜ける。
ジュノ下層を探すのはもう二度目だ。
ノルヴェルトは少々投げやりになりながらも、ジュノ下層からロランベリー耕地へ繋がっている橋に出るゲートまでやってきた。
つまりジュノ下層の末端である。

「……どうして……?」

ゲート前で立ち止まり、ぐるりと辺りを見回してぽつりと呟いた。
どこを見たって幸せそうで、色鮮やかな町。
自分だけ別の世界に迷い込んだような感覚だ。

襲われた痕跡もないのに、なぜ親子は家から姿を消したのだろうか。
考えてみても最悪な予想しか立てられず、焦燥と恐ればかりが頭の中を支配した。

平常心を失ったノルヴェルトの目が、はたとゲート脇にあるクリスタルに止まる。
ぼんやりとした光を放っている大きな青いクリスタルが、まるで自分を嘲笑っているように見えた。
途端に身体が熱くなり、拳を握るとクリスタルを睨み付けた。

俺を翻弄してそんなに面白いか?
あんたはつくづく偽善な女神だ。
俺はあんたなんか絶対に崇めない、信じない、頼らない!

心の中でアルタナの女神を罵ると、ノルヴェルトはクリスタルから目を逸らし歩き出した。



「それじゃ、気をつけるのよ。迷子にならないようにね」

「はーい!」

その声を耳にして何となく視線をやる。
近くの民家のドアが開いて二人の子どもが中から駆け出してきた。
ドアを見上げて立つ二人は、ヒュームの少女とガルカの子ども。
二人はしっかりと手を繋いで家の中にいるヒュームの女性を見上げている。

「お兄ちゃんの手を離しちゃ駄目よ」

心配そうに言う女性に対して、ヒュームの少女は癖のある長い髪を揺らして深く頷いた。
ガルガの子どもに対し『この子のことお願いね』と女性が言っているし、種族からして二人は兄弟ではなく近所の友達か何かだろう。
無意識の内に立ち止まっていたノルヴェルト。
その二人の子どもが元気に駆けていくのをじっと見送った。

異種族でも、本当の家族じゃなくても。

あんな関係になれる世界が。

ノルヴェルトはヒュームの親子の姿を思い浮かべ、ぐっと口を結んだ。

そして意を決したように顔を上げると、近くで海を眺めながら煙草を吸っているガルカに歩み寄った。

「……すみません」

そして声を掛けたのだ。

退屈そうな顔でぼんやりしていたガルカは一瞬遅れて振り向く。
彼は何事かという顔をしていたが、ノルヴェルトは彼以上に緊張していた。

「ヒュームの……親子を見ませんでしたか?……父親……片腕の…」

徐々に声を小さくするノルヴェルト。
こちらから声を掛けておいて相手の顔は一切見られなかった。
尋ねながら、やはり聞くんじゃなかったと後悔しつつ、自分の足元を見つめる。

「あぁ、見た見た。小さい女の子連れたヒュームの夫婦だろ?」

あっさりとした回答に仰天してノルヴェルトは顔を上げた。

「一時間くらい前だったかな? 港で見掛けたよ。女の子がずいぶん汚れたぬいぐるみ抱いてたんで覚えてる。何だか思い出話してるみたいだったが……」

「本当ですか!?」

すぐさま駆け出そうとしたが思い留まって再び尋ねる。

「その……っ、どんな様子でしたか?」

「んん? だから、思い出話でもしてるみたいだったよ。ただの散歩だろ?」

ノルヴェルトはそこまで聞くと、『ありがとう!』と言って駆け出した。

各層を繋ぐ螺旋状の階段に飛び出し、一気にジュノ港まで駆け下りる。
そしてジュノ下層の下である港に出ると、一旦立ち止まって辺りを見回した。
肩で息をつきながら眺めるジュノ港は、先程自分が探しに来た時と何ら変わりないように見える。

あのガルカは一時間ほど前にこの港で見掛けたと言っていた。
一時間も前では、もしかしたらもう別の場所に……。

――とにかく早く見つけたい!!

ノルヴェルトは迷いを振り切ってジュノ港に駆け出そうとした。

すると。


…………おにちゃー……


ソレリの声が聞こえたような気がして、はっと動きを止めた。

「ソレリ?」

空耳でないことを祈りながら辺りを見回すが、ソレリの姿はもちろん、ヒュームの夫婦の姿も見当たらない。

代わりに、さらに下へ向かう階段に目が止まった。


知っている。
あの階段の先は、クフィム島に繋がる地下道の入り口がある。


思い出話をしていた――
その言葉が、胸の奥で不気味に反響する。


知っている。
この先にどのような思い出があるのか。


弾んだ息をつく喉が、一瞬、締め付けられる。
でもすぐに気持ちを奮い立たせる。

その思い出の中で、自分は同行を許可され、彼らとともに歩いた。
そして、誓いを――

足がわずかに震えた。
それでもノルヴェルトは、師の名を小さく呟いて階段を下りた。




以前のように地下道の入り口前に鎧をまとった戦士はいなかった。
階段を下りると、ひんやりとした空気の中、人気のない入り口前まで歩く。

しんとした薄暗い空間に自分の足音が響く。

ノルヴェルトは息を呑むと、入り口から地下道の中を覗き込んだ。




「――マキューシオ!!!」


薄暗い地下道の先に目を見張ってノルヴェルトは思わず叫ぶ。
数十メートルほど先へ進んだ辺りに、ヒュームの親子の姿を発見したのだ。

無心で地下道へ飛び込むと、ごつごつした湿っぽい道を親子のもとに走る。
マキューシオが前に立ち、後ろにソレリを抱き上げたスティユが続いていた。
見るとマキューシオは腰に剣を下げている。
それを見て、そういえば部屋にマキューシオの剣がなかったと今さら気付いた。

こちらに気付いていない様子なので、走りながら今度はスティユの名を呼んだ。
するとスティユは足を止め、はっとこちらを振り返る。
彼女に抱かれているソレリはどうやら眠っているようだ。
可愛がっている唯一の友達のぬいぐるみを抱き、暖かそうにスティユの腕の中に収まっている。

——間に合った。

その思いが胸を満たし、張りつめていた全身の力が一瞬だけ緩んだ。
マキューシオも立ち止まってこちらを振り返る。

――無事だ。

――三人とも無事だ。

ノルヴェルトは心底安堵しながら彼らに追いついた。

「ノルヴェルト……」

すやすやと眠っているソレリを抱いたスティユが、何か言いたげな顔をしている。

――完全に追いついて足を止めたその時。
マキューシオが一歩、こちらへ出る。

何か言おうとしたのだと思った。
だが言葉もないまま、肩を軽く突っぱねられる。

「え?」

なぜいきなり突き飛ばすのだろう――疑問に思ったが、突き飛ばされた肩に異物感を覚えて己の肩に視線を落とす。

一瞬で引き抜かれたマキューシオの剣が突き刺さっていた。

思い出したかのように凄い勢いで赤く染まり始める自分の服を愕然と見つめ、次にマキューシオを見る。

マキューシオのブラウンの瞳は、ノルヴェルトを映して小さく震えていた。



……ドウシテ……?



<To be continued>

あとがき

作中ヴァナはクリスマス。
ノルヴェルトの心も軋み始めております。
懐かしい人の登場もありましたね。
人は絶望の中でも誰かを想い、怒りに身を焦がしながらも、どこかで『信じたい』と願ってしまう。
救いを求めて、もがく。
その中でマキューシオが再び、剣を抜きました。
もうクライマックスです。