罪人たち

第二章 第十六話
2005/06/11公開



ノルヴェルトの声を聞いて飛び出してきたスティユは、娘の姿に目を見張った。
「どうしたのソレリ!!?」
泣きじゃくっている幼い娘を引き寄せ、即座に身体の状態を調べる。
少女の服は所々赤く染まり、肩まである髪も部分的に血で濡れていた。
膝が少し汚れていたが傷はなく、見た限りではソレリはどこも怪我をしていない。
「何があったの!?セトは!?」
少女の顔を覗き込んで尋ねるが、泣き叫ぶ幼子が状況説明できるはずもなく。
ソレリはひたすら泣いていた。
そこでマキューシオが進み出て、『もう大丈夫だから』と囁きながら娘を抱き上げた。
「……とにかく中へ」
激しく取り乱している妻にそう言うと、マキューシオは家の中に戻っていく。
その指示に動揺しながらも従うスティユを見て、呆然と立ち尽くしていたノルヴェルトはハッとした。

少女と一緒に出掛けていったミスラの名前を呟いて辺りを見回す。

ソレリが家の中に入った今、外は静かな雨音だけがさぁさぁと広がっている。
ノルヴェルトは、ソレリが戻ってきたはずの道に向かって駆け出した。
「セト!!」
黙って雨に濡れているしんとした路地に向かって彼女の名を呼ぶ。
これで返事が返ってきたら、どんなに安心するだろう。
心臓がばくばくと苦しくて上手く呼吸ができない。

通りに出るのに、皆同じ道を通っているのは知っていた。
だから、少し進んだ先にある曲がり角を目指して走る。

角を曲がったら、そこに何かとても恐ろしいものがありそうで―――

曲がる直前に、もう一度あのミスラの名前を叫んでから飛び出した。



足を止め、肩を上下させながら目の前の光景を凝視した。
霧のような雨に白んだ薄暗い路地がエルヴァーンの青年を出迎える。
その霞んだ路地の、奥の曲がり角からこちらに向かう途中までに、鮮やかな赤い痕跡があった。
戦争の時、嫌と言うほど目にした赤と同じ。

それを見た時、即座に、『関係ない』と思った。

関係ない、これはセトには関係ない。
きっと違う道で帰ってきてる。
だから早く別の場所を捜しにいこう。

頭の中で自分の声が叫んでいる。
しかし、ノルヴェルトは足が地面に縫い付けられたようにその場を動けず、目を逸らすこともできなかった。


すると、赤い痕跡が雨に滲んでいるその路地の奥。
先の曲がり角から、一人の男が姿を現した。
身の丈からしてエルヴァーンであるその男は、薄手のローブで身体を覆っていた。
フードは取っており、濡れた黒髪の中からエルヴァーンの尖った耳が飛び出ている。

見た瞬間―――ノルヴェルトの脳裏に一人の騎士の姿が蘇った。


「…………フィルナード……?」


その男がノルヴェルトに気がついて大きく目を見開いたのが、離れた場所からも分かった。
その顔を見て、あの漆黒の騎士とこの男とは別人であると気が付く。
男は曲がり角の先に誰かがいる様子で、そちらに向かって何か言っている。
するとすぐに、新たに二人のエルヴァーンが角の先から姿を現した。
二人とも男と同じようにローブに身を包んでおり、覗いている足元から鎧を着ていることが分かった。
あとから現れた内の一人、銀髪のエルヴァーンがノルヴェルトを観察しながら進み出た。
その顔に浮かび上がっているものを、気が動転しているノルヴェルトは理解できない。

「………やっと会えたな」

静かな雨音の中放たれた男の声は、歓喜に満ちていた。
後ろに控えている二人を軽く振り返って、『仲間だ』と言うのが微かに聞こえた。

……誰……?

「猫を捜しに来たのだろう?」
再び話し掛けてくるその男を、ノルヴェルトは肩で息をついたまま呆然と見つめる。
相手は自分のことを知っているようだが、何者なのか思い当たらない。
彼がいう『猫』というのは、セトのことなのだろうか。
多分そうなのだろうと思うが、なぜだか、とてもそう思いたくなかった。

「あの猫なら我々が回収した」

分からない。
男が何を言っているのか。

「安心するが良い、もう死んでいる」

分からない。
なぜそう言って笑うのか。

分からない分からない分からない。

路地に残っているのは誰の血痕?
後ろの二人のローブにも血がついている?
ソレリは血まみれになって一人で帰ってきたーーなぜ?

分からない分からない分からない。


分かりたくない。



銀髪の男は苦笑しただけで、ノルヴェルトの動揺を無言で受け止める。
後ろに控えていた二人を振り返り、淡々と告げた。
「少し大人しくさせろ。私は団長をお呼びする」
すると二人の男が、同時にローブの中からしゅらっと剣を抜く。

関係ない。
この男達はセトとは関係ない。

―――こんなこと、聞くべきじゃない!!


「セトに…何をした!?」

角を曲がっていく銀髪のエルヴァーンに叫ぶが、彼は歪んだ笑みを向けて去って行った。
道を塞ぐようにして手前に立っている二人の男が剣を構える。
そして、一人が濡れた地面を蹴って勢いよくノルヴェルトに突進した。
霧雨の中、向かってくる男を見て咄嗟に背に手を伸ばすノルヴェルト―――だが。

剣がない…!!!

避けようと思った瞬間には、相手の剣が腿に食い込んでいた。
激痛の電流が全身を駆け抜けるが、それが切欠で一気に頭が冴える。
続いて放たれた二撃目を、身を捻って紙一重のところで回避した。
ふらりと後退すると、刺された腿の辺りが一気に熱を帯びていく。

血のついた銀の剣が、今度は右腕に向かって水平に放たれる。
その瞬間、ノルヴェルトは引いた大勢から大きく前に踏み込んで男の腕を掴んだ。

「お前達…彼女を殺したのか?」

掴んだ腕をねじ切る勢いで手に力を込め、男の目を覗き込んだ。
男はぴくりと眉を動かす。
「あぁ」
短く返答し、瞬時に腕を持ち上げて身を翻すと、上手くノルヴェルトの手を振り払った。
そして男はその回転のまま再びノルヴェルトの足に剣を向ける―――だが、先にノルヴェルトの拳が男の横っ面を殴り飛ばした。
体勢を崩した男はよろめいて路地の壁にもたれる。
「なんでセトを!!!」
素手で殴った痛みなど感じずに、ノルヴェルトは音を立てて歯を食い縛った。
続けて男に掴みかかろうとするが、もう一人のエルヴァーン、不覚にも一瞬フィルナードと見間違えた黒髪の男が素早く飛び出してきて、思い切り腹部を蹴られた。
一瞬で呼吸を奪われ、ノルヴェルトはそのまま後ろに吹っ飛ばされた。
濡れた地面を派手に転がると突き当たりの壁に背中を打ち付ける。
回転していた視界が真っ白になり、全身に痺れが走る。
激しく咳き込みながらも身を起こそうとすると、点滅する視界に黒髪の男が立ち、その足にこめかみを蹴り飛ばされた。
勢いで横倒しになると、石畳の雨水が頬と銀髪を濡らす。
ノルヴェルトは一瞬意識を手放した――――しかし、声が聞こえた。

「ノルヴェルト!!?」

朦朧とした頭を弾かれたように起こして声の方向を見る。
スティユがこちらの姿を見つけ、驚愕の声をあげて足を止めたところだった。
「―――来るなぁ!!!」
呼吸を忘れていた口が咄嗟にそう叫んでいた。
必死にもがくが、力いっぱい踏みつけられていて起き上がることができない。
先程殴り飛ばしたもう一人の男の影が、ゆらりとスティユの方へ動くのが見えた。


―――――と、次の瞬間。


微かな呟きが聞こえ、スティユに向かっていた男の周りに黒い霧が発生した。
「―――なっ」
突如現れた霧に驚愕して男が防御態勢を取る。
そして男はすぐに、突然自身に発動した魔法の効果で自分の視界が闇に侵されたことに気が付いた。


「下がれ」

その言葉と共に、スティユの後方からゆっくりとマキューシオが進み出てきた。
静かな雨音の中、視覚を奪われたエルヴァーンの男は、女と自分の間に何者かの気配を感じ取る。
姿の見えないそれに警戒して剣を握る手が思わず力んだ。
「くっ……何者だ?」
魔法によって状況が見えない男は、その重厚な気配に緊張した声で尋ねる。
スティユの前に立ったマキューシオの足には、ソレリがすがるように掴まっていた。
ソレリは、状況は理解できないもののこの場の殺気立った空気を感じ取って震えている。
涙の滲む瞳でスティユを見上げると、覚束ない足取りで母の手に飛びついた。
はっとしたスティユがソレリを抱き上げ、自分の胸元に娘の顔を抱き込む。

「下がれ、と言ったんだ」

男の質問を相手にせずマキューシオの口から放たれた言葉は、とても静かな声だった。

「―――――っが!?」

マキューシオと男の間に緊張が張り詰めている時、黒髪のエルヴァーンの短い悲鳴が聞こえた。
隙を見たノルヴェルトが、剣を持つ男の腕を下から蹴り上げたのだ。
虚を突かれた男の手から剣が離れる。
素早く起き上がったノルヴェルトは体勢を崩した男に体当たりした。
吹き飛ばされた男が水しぶきを上げて地面に倒れるのを見ながら、ノルヴェルトは唸り声を上げると落ちた剣を掴む。
剣を片手に猛然と男に飛び掛ろうとするノルヴェルトにマキューシオが言った。
「ノルヴェルト、やめろ!」
今までにない、力のある師の声が雨の路地に響く。
ノルヴェルトはその声にぴたりと足を止めたが、剣を握り締め、牙を剥いて男を睨み付けた。
「こいつらがセトを殺したんだ!マキューシオ!こいつらがセトを!!」
怒りに狂った声でノルヴェルトが叫ぶのを聞き、マキューシオは目を細めた。
黒いローブで身を覆っているエルヴァーンの男達に静かに視線を馳せる。
「……見たところ賊には見えない。何者だ」
一歩前に進み出ながら、二人の男にマキューシオが尋ねる。
視覚を奪われた男は、マキューシオの気配が近付いたのを感じてびくりと後退した。



「そこまでだ、二人共下がれ」

―――とその時、先程の偉そうな銀髪の男が、去っていった曲がり角から再び現れた。
ずぶ濡れになり泥に汚れたノルヴェルトは一層表情を険しくしてその姿を睨む。
見ると、再度現れたその男の後ろには、赤髪のエルヴァーンの青年が立っていた。

視界を奪われた男がこちらを警戒しながらゆっくりと後退を始め、黒髪の男も現れた二人のもとに素早く下がった。




「……これは…素晴らしい」

雨の中、両者の間に流れる沈黙を破ったのは、赤髪の青年だった。
彼は他の男達同様、立派な鎧の上に薄手のローブを羽織っている。

その時になってようやく気がついた―――彼らは騎士なのだと。

そして三人の騎士達の様子からして、赤髪の彼が、一番地位の高い人間なのだろうと推測できる。

ノルヴェルトは頭に血が上った状態で、先程銀髪の男が言っていた『団長』が彼なのだろうかと眉を寄せる。
見たところ自分とそう変わらない若さで、四人の中では最年少に違いない。
ノルヴェルトは彼が何者なのか疑問に思うと同時に、その威風堂々とした赤髪の青年の姿には、何となく見覚えがあるような気がした。

「変わらないな。……おや、片腕はどうした?誰かに恵んでしまったのかな?」
マキューシオを見てそんなことをいう青年。
なぜ彼がそんなことを言うのか分からないノルヴェルトは激しく混乱した。

まったく状況を理解していない様子のノルヴェルトに溜め息をつくと、赤髪の青年が改まって口を開く。

「私にとっては必然で、待ち侘びた瞬間であるが……貴殿らは何もかもが突然で訳が解らないといった様子だな」
赤髪の青年の整った顔が涼しげに笑った。

「私の名はテュークロッス・B・ゼリオン。イヌマエル・C・ゼリオンの嫡子である。貴殿らにはジェラルディンと共に四年前の大戦で誠に世話になった」
テュークロッスと名乗った赤髪の青年騎士は、横に控えている銀髪の男を示して言った。

それを聞いた途端、ノルヴェルトらは目を見張った。
一瞬で四年前の悲劇の記憶が脳裏に蘇る。

そう、目の前にいるテュークロッスは、あの時保護した三人の騎士の一人。
軍師を「父上」と呼んでいた、あの青年だった。
そしてその彼の横に控えているジェラルディンも、軍師親子と共にいたあの騎士。

「戦争が終結した今でも、薄汚く寄り添って生きているとはな……。やはり野良犬にはそのような生き方しかできぬようだ」
ノルヴェルトらに軽蔑の眼差しを向けて言うジェラルディンを、テュークロッスが静かに制する。
そんな彼らを見つめて、ノルヴェルトは熱くなっていた体が一気に冷めていくのを感じた。
テュークロッスの口ぶりからして、彼らは長い間ずっと自分達のことを探していたようだ。
そして彼らが自分達を見つけた今、セトが彼らの手によって殺された。

なぜこんなことが起きている?

振り返りはしないものの、ノルヴェルトは意識を自分の背後に馳せた。

それは四年前のあの日、ティークロッスの父であるあの軍師を―――


「復讐……というわけか…」


何もかもを悟ったようなマキューシオのその言葉に、ノルヴェルトはビクリと身を震わせた。
それを聞いてテュークロッスは眉を開くと、何やら疲れたような表情をする。
「そのような言葉で簡単に片付けられるものではないのだが……」
テュークロッスが気だるそうにジェラルディンに視線をやると、ジェラルディンは小さく頭を下げてからノルヴェルトらに向き直った。
「テュークロッス様のお父上であられるイヌマエル様は、四年前の惨劇で弱き難民達を護るために自ら前線で戦われ、名誉の戦死を遂げられた」
唐突に彼の口から出た言葉の意味が解らず、ノルヴェルトは思い切り怪訝な顔をした。
「……軍内ではそういった報告により、イヌマエル様は英雄として葬られている」
低い声でゆっくりと話すジェラルディンは、そこまで言うと途端に表情を険しくした。
「しかし事実は違う。イヌマエル様は卑怯な手によって殺害されたのだ。名も無い野良犬共のお頭であるその男にな!」
憎しみに染まった表情と声がマキューシオに容赦なく向けられた。
まったく予想していなかった衝撃が身体を貫き、ノルヴェルトは言葉を失った。

脳裏にあの時の悪夢のような光景が蘇る。
緊張した空気、泣き叫ぶ子供、スティユの悲鳴。

そして、血の滴るマキューシオの剣。




―――しかしあの時、殺意の剣を握っていたのは誰だった?



「………その通りだ」


ゆっくりとした静かな口調で、マキューシオがジェラルディンの言葉を肯定した。
直ちにスティユとノルヴェルトの視線がマキューシオに向けられる。
自分が辿り着いた結果とは全く違うことを言い出したマキューシオを、信じられないという目で見つめた。
マキューシオはこちらの視線に気付いているはずだが、一瞬たりともこちらに目は向けなかった。
「あのことを忘れた日などない。多少時間を譲っていただいたが、私は自分の犯した罪を有耶無耶にする気はない。責任は果たすつもりだ……罰は甘んじて受ける」
その言葉にノルヴェルトは堪らず口を開くが、マキューシオはすぐに言葉を続けた。
「しかし、その前にどうしても説明してもらわねばならないことがある」
マキューシオには珍しく、語気が強まった。
「何故私達の同居人が帰ってこないのか、説明してもらわなければ理解できない」
黒髪から雨の雫を滴らせて、マキューシオはテュークロッスを凝視した。
その時の彼の横顔は、戦争中皆のリーダーであったマキューシオの姿を彷彿させた。
マキューシオの言葉を無感情な様子で聞いていたテュークロッスは、最後の彼からの問い掛けにぴくりと反応すると視線を落とした。



「あの場に居たからだ」


少しの沈黙を置いて放たれたテュークロッスの言葉は、感情で震えていた。
「今更貴様らがどんなに真実を叫んで回ったとしても、それを信じる者は誰もいないだろう。もっとも、自分が殺したのだと振れ回るほど気が違っているとは思わないがな。……父は偉大だった、名誉の戦死を疑う者など誰一人としていない」
濡れて垂れ下がった赤髪をかき上げて続ける。
「だが、貴様達は父の屈辱的な最期を見た。考えられない父の最期を!あの出来事を記憶に持っている人間が生きていると思うだけで不愉快だ。吐き気がする程にな」
顔をしかめて歯噛みするテュークロッスは早速具合が悪くなったかのように、片手で頭を支えた。
ノルヴェルトは最高に気分の悪い感情が背中を這い上がるのを感じる。
「今やあの記憶を持って生きているのは貴様達だけだ……。ふん、あの戦闘で死んでいれば良かったものを」
吐き捨てるように言うテュークロッスの言葉に、ノルヴェルトらはふと眉を寄せる。
途端に嫌な予感がした。
ノルヴェルトらの疑問をすぐさま読み取ったテュークロッスが言う。
「あの場に居た難民共はあの後すぐに殺したよ。貴様達は姿をくらますのが早かったので取り逃がしたがな」
当然のようにそう言ってのける彼にノルヴェルトは目を見張った。
「…殺したのか!?折角助かった命を!」
「たったの八人ではないか」
「その八人を護るために一体何人の戦士達が死んだと思ってる!!」
部下の騎士から奪った剣を力いっぱい握り締めるノルヴェルトを見て、テュークロッスを護るように部下二人が身構えた。
「…狂ってる…!」
「あぁ、まったく気が狂いそうだったよ。だがこれで、やっと父の無念を晴らせる」
そう言いながら部下二人を押し退けて前に出ると、テュークロッスは軽蔑の眼差しを順番にノルヴェルトらに向けた。
「私が生きている貴様達に会うのはこれが最後だろう。部下も貴様達の顔を覚えた、私自ら赴く必要はなくなるからな」
歪んだ喜びを表情に湛えて、満足げに笑うテュークロッス。
彼の部下二人は引き結んだ口に微かな笑みを浮かべている。
魔法で視覚を遮られていた男はすでに魔法が切れた様子で、マキューシオのことを一際強い視線で睨み付けていた。
「良かろう、今日のところはこのへんで失礼する。突然耳に入った情報を確かめるため、急遽抜け出して来たのでな。執務に戻らねばならん。猫一匹を狩ることができたし貴様達の確認もできた、今日はそれで十分だ」
剣を握ったノルヴェルトの手は、感覚がなくなる程強く握られガチガチと震える。
「……逃げたければ逃げるがいい。所詮、無駄だがな。四年の歳月は私を高めるには十分な時間だった。今や貴様らが行ける場所なら、何処へでも手は届く」

そう言ってこちらに背を向けるテュークロッスーーー次の瞬間、ノルヴェルトが渾身の力を込めて剣を投げつけた。
マキューシオとスティユの驚愕した声が発せられたとほぼ同時に、真っ直ぐにテュークロッスに向かうそれをジェラルディンが剣で叩き落した。
面倒臭そうに振り返るテュークロッスを睨み付けてノルヴェルトは牙を剥く。

「お前は俺が……絶対に殺す…っ!!」


テュークロッスが愉快そうに笑った。

「猫の最期の言葉を教えてやろう」



「最期の最期まで、『殺してやる』と叫んでいたよ。本当に、醜い猫だった」

嫌なものを思い出して苦笑するように笑う騎士達は、小雨の中ゆっくりと去っていった。
ノルヴェルトは口の傷から血が滴るほどに歯を食い縛ると、騎士達の姿が見えなくなった途端に何かが吹っ切れたように駆け出した。
殺意に満たされた身体で剣を拾い上げようとすると―――背後で名前が叫ばれる。

「――――マキューシオ!?」

自分ではない名前が叫ばれ、ノルヴェルトは一欠けらだけ残っていた理性で振り返った。

濡れた路地に力無く倒れ込むマキューシオに、ソレリを抱いたスティユが駆け寄っていた。



   *   *   *



間も無くして雨は止んだ。
外はしんと静まり返り、真っ暗な闇で覆われている。

マキューシオは顔色を蒼白にして倒れたものの、意識は失っていなかった。
皆ずぶ濡れで家に戻り着替えると、マキューシオはベッドに横になった。
泣き疲れたソレリがマキューシオの隣で寝息を立てている。

襲われた時に、ソレリはどんなものを目にしたのだろうか。
セトが死ぬところを見てしまったとしたら、少女の心に支障が出ないか心配である。

しかし、どうやらソレリは全く状況を理解していない様子だった。
セトがどのようにソレリを護ったのかを想像すると、涙が溢れて止まらなくなった。

ソレリが静かな寝息を立て始めた頃、耐え切れなくなったスティユが声を漏らして泣き始めた。
静かな部屋にスティユの嗚咽だけが聞こえる。
ノルヴェルトは部屋のドア近くに椅子を引っ張り、自分の剣を抱えて座っていた。
彼は着替えもせずに、水の滴ったままじっと何処かを睨み付けている。

切欠さえあれば、ノルヴェルトはすぐにでも家を飛び出したかった。
全身が燃えるように熱く、視界はただ一つの感情によって真っ赤に見えていた。
スティユの泣き声を聞きながら、剣を持ってこの家を飛び出す切欠を待っている。


不意に、ベッドに横になっていたマキューシオが上半身を起こした。
それを見たスティユがはっと涙を拭くとベッド脇の椅子から立ち上がる。
「やっぱり、お医者様のところに行った方がいいんじゃ……」
「いや、心配しなくてもいい。ただ少し疲れが溜まっていただけだ」
ノルヴェルトはそう答えるマキューシオを横目で見た。
最近体調が悪そうな様子は全くなかったはず。
久々に魔法を使ったから体に負担が掛かったのだろうか?
しかし、マキューシオはそれほど精神的に弱いとは思えない。
帰宅してすぐにケアルを掛けてくれた時も、一際顔色が悪くなるようなことはなかった。


「…………すまない」
自分の手元を見つめて、マキューシオが呟いた。
ノルヴェルトはその一言が耳に入ると、一瞬で感情が沸騰した。
一番、師の口から聞きたくない言葉だった。
「何がですか?何でマキューシオが謝るんですか?人殺しはあいつらだ!!!」
思わず椅子を蹴って立ち上がるノルヴェルト。
「名誉?屈辱?狂ったこと言いやがって…っ!セトが何したっていうんだよ!!」
ぽたぽたと雫を零しながら髪を振り乱して叫ぶ。
「マキューシオは悪くない!誰もマキューシオを責める奴なんかいない!!あの軍師は殺そうとしたじゃないか!だからマキューシオが止めたんだ!それなのに自分達のことは棚に上げて……くそっ……あいつら絶対」
「やめて!!!」
興奮したノルヴェルトが一気に捲し立てると、堪らずスティユが叫んだ。
四年前に聞いたものと同じ悲鳴を耳にして、ノルヴェルトはびくりと動きを止める。
「……ソレリが起きてしまうよ」
このマキューシオの静かな一言で、ノルヴェルトは完全にその場に棒立ちになった。



沈黙が訪れると、ノルヴェルトを酷い絶望が襲った。


セト。


あの時護った難民達。
あの、自分に眼差しを向けていた娘も。


いない。


スティユに目をやると彼女が滲んで見える。
ノルヴェルトはそこでやっと、自分が泣いていることに気が付いた。

乱暴に目を擦ると、ふとマキューシオに視線を止める。
マキューシオは昔よく見た穏やかな表情をしていた。
何かを決断したような色が見えるそれを目にし、ノルヴェルトは慌てて口を開く。

「罪は……償わなければならないんだ」

ノルヴェルトよりも先に、マキューシオの言葉が沈黙の中に紡ぎ出されてしまった。
己の察知の遅さに苛立ったノルヴェルトだが諦めずに言う。
「あいつらはマキューシオを罰しようとしてるんじゃない!影ながら抹殺しようと―――暗殺しようとしてるんですよ…っ」
「逃げましょう」
はっきりとした口調でそう言ったのはスティユだった。
驚いて彼女を見ると、彼女はマキューシオの隣で眠っているソレリの横に屈んだ。
泣き腫らした幼い少女の柔らかな頬を指で撫でるスティユの姿は、とても儚げだった。
「あなたは生きてください。命を落とした皆のために……この子のために」
そっとソレリの髪を撫でながら言うスティユを、マキューシオは黙って見下ろした。


マキューシオはスティユに対して何も返さなかった。
ただ少し悲しげな顔をして、じっとソレリを見つめるだけだった。
涙の溜まった目を擦ると、スティユは『支度をします』と言って俯きながら部屋を出て行った。
きっと彼女は手際良く支度をしながら、たくさん涙を流すだろう。
そう思ったノルヴェルトは胸が苦しくなったが、その場を動くことができなかった。
拳を握ると足元を睨み付け、強く心で思った。


今は、逃げよう。
まずはエルヴァーンの多いこのサンドリアから離れよう。
そして逃げながらも力を蓄えて………


「何度も言ったはずだ」
――――と、ノルヴェルトに対し唐突に強い口調でマキューシオが言った。
驚いて、はっと顔を上げて師を見る。
「憎しみほど空しい感情はない。……憎しみに染まって自分を見失うんじゃない」
始めこそ語気が強かったが、後半は複雑な表情をして声のトーンを下げる。
今この状況でそんなことを言うマキューシオにノルヴェルトは目を見張った。
「マキューシオ……セトが殺されたんですよ?あいつらはセトを殺したんだ!!」
『マキューシオはあいつらが憎くないのか』と叫ぼうとして、ふとノルヴェルトは、過去にもこのようなことを喚いたことがあったように感じた。
口も手も、全身が震えてしまって言葉が出なくなったノルヴェルトを前に、マキューシオは口を引き結ぶ。
「………世の中は……良い人間ばかりじゃない……」
失望したような、諦めたようなそのマキューシオの言葉に、ノルヴェルトは衝撃を受けた。
電流のように全身に震えが走り、手から血の気が失せるほど強く拳を握る。
「………マキューシオが何と言おうと……俺はあいつらを許さない。どうしてマキューシオはいつも……まるで人間じゃないみたいだ………時々思う…」
「憎しみは君を幸せにはしない」
「関係無い!!」
一際大きく怒鳴って数歩進み出る。
眠っているソレリにふと視線が止まるが、今のノルヴェルトには思いやる心はなかった。
今喚いている自分がどうしようもなく空虚な感じがして、ノルヴェルトはこの部屋から逃げ出したくなった。
だが、マキューシオに対してまだ言いたいことがある。

「マキューシオは……あの男を殺したことをただの罪だと言うんですか…?」
感情的な震える呼吸の中から恐る恐る言葉を紡ぐ。
「そう、罪だ」
何の躊躇いもなく即答した師は続ける。
「そして、私が犯したあの罪のせいで、また命が奪われた」
マキューシオは、自分はあの時に死ぬべきだったとまで言った。
師のそんな姿にノルヴェルトは泣き出したくなり、振り払うように首を左右に振る。
「違う!!!」
その否定の叫びで、視線を落としていたマキューシオがノルヴェルトを見上げた。
「もしあの時マキューシオがあの男を殺さなかったとしても、俺が殺してた!気付いていたんでしょう!?もう俺はそんなことにも気付かない程子供じゃない!」
踵を返しドアを開くとマキューシオを振り返る。

「マキューシオはあの時、俺を護ったんだ!!!」

腹の底から叫んで部屋を出ると力任せにドアを閉めた。
そして、スティユが驚きの表情でキッチンからこちらを見つめているのに気がついて、その泣きはらした目から視線を逸らすと何も言わずに奥の書斎へと向かう。


本来感謝すべきことをマキューシオに怒鳴り散らした。
何が何だか分からなくなってきていたが、ノルヴェルトは自分の叫びが怒りに満ちていることだけははっきりと分かっていた。

どうしようもない、激しい怒りだ。

誰もいない書斎に入るとドアを閉め、部屋の奥にある物置きからフィルナードの鎌を引っ張り出した。
ぎゅっと鎌を抱き締めて部屋の隅に座り込むと、腕に顔を埋めて蹲った。





……フィルナード…




どうして俺はいつも


あの人の負担になってしまうんだろう?



<To be continued>

あとがき

セトまでも、無念の内に最期を迎えてしまいました。
そして、どんなに頑張っても、結局は護られている。
ノル、が…頑張れ(´-`;)