重過ぎる剣に宿りしは

第二章 第十三話
2005/04/22公開



血の沼ができた洞窟前から離れた岩場に、もう一つの血の沼ができていた。
洞窟前の沼と比べたら規模は大きくない。
だが―――確かにここでも鮮血散る戦闘があったのは間違いない。

そう、ここは……フィルナードと別れた崖の下だ。

俺がその場所に向かうと、地面の赤黒い泥は乾燥し始めていた。
軍の人々が調査している中に飛び込んでいく。
周辺には、大きな刃物で派手に斬り裂かれたオークの遺体がばらばらと転がっていた。
俺はあの人の名を呼びながら、その残骸の中を捜して駆け回った。

この場所で、一人の騎士が獣人軍を食い止めた。

軍の人間にそう伝えると、彼らは目を丸くして辺りを見回す。
この数を一人で―――。
そこまで言って、言葉を飲み込む。
フィルナードの名を知る者もいて、騎士達の間でざわめきが起こった。

そうだ。
その“フィルナード”だ。

それほど凄い彼のことだ。
きっとまた、近くの日陰で座っているに違いない。
涼しげに、声を掛けるとあの冷たい目で、また。

俺は色々と叫びながら、あの漆黒のエルヴァーンを無我夢中で探した。
『誰もいない』と言って騎士達が何度も俺を止めようとした。
けれど、俺はどうしても信じたくなくて、捜すことをやめなかった。

狂ったように駆け回る俺のもとに、一人の騎士が歩み寄った。

その騎士の手には、血でべったりと汚れた大きな黒い鎌がある。
俺はその鎌に見覚えがあった。
フィルナードがいつも背に携えていた、黒い殺す道具。
崖に突き刺さっていたのだと言って、騎士は俺にそれを渡した。
両手で受け取ると、少し乾いた血がぬるりと俺の手を捕らえる。

考えられなかった。
この鎌はずっと、彼の背にあるものだと思っていた。
この鎌を自分が握ることなど、一生あるはずが無いと思っていた。
なのに、なぜか今、この大きな鎌を自分が両手で握っている。

なぜ?

……それは―――――。



血まみれになって俺の前に現れたその鎌を抱き締め、俺は天を仰ぐと声をあげて泣いた。



   *   *   *



「……………」

薄っすらと目を開けると、キラキラと輝く川の水が眩しく視界に映った。
手に持っている釣竿の先から垂れた糸が、大人しく川の水に浸かっている。
いつの間にか眠ってしまったのだと気が付いて空を見上げる。
この場所に来た時よりもずいぶん日が高くなっていた。
木陰でずるりと木に背を預けていた体勢を座り直し、ぼんやりと水に浸かる釣り糸を見つめる。

そろそろ帰ろう。

そう決めると、寝起きの重い身体を立ち上がらせて、釣竿を片付ける。
釣上げた数匹の獲物を布で包んで鞄にしまうと、街を囲んでいる外壁に向かって歩き出した。

ロンフォールの森は、真上から照らす太陽の光に濃い影を落としていた。


夢を見ていた。
四年前のあの日の夢を。

まだ子供だったあの日のことは、一生忘れることはないだろう。

見た夢のことを思い返しながら、ノルヴェルトは落ち着いた足取りで街に向かう。
あの頃砂にまみれてバサバサだった銀髪は潤い、今はさらりとそよ風に揺れている。
荷物を持つ手も、草を踏む足も、あの頃と比べるとずいぶん大きくなったものだ。

もう、鎧など身に着けてはいない。

戦争は終わった。
今はもう、いつ死ぬか分からぬような、荒野をさ迷う日々とは違う。
戦う理由などなくなった。
だから、今は街で生活している民とまったく同じ身なりなのだ。

ただひとつ―――背中に引っさげた両手持ちの剣を除けば。


ノルヴェルトは戦争が終わって四年経った今でも、剣を手放すことができずにいた。
仲間達を奪った獣人への怒りは未だ消えることなく、ノルヴェルトの中に燻っている。
戦後このロンフォールの森にも獣人は姿を現し、時に人を襲う。
ノルヴェルトはそんな獣人を殺し、獣人の持ち物や国からの報酬で生計を立てていた。

正直に言えば、ノルヴェルトは報酬がなくとも獣人を殺したいと思っている。
しかし、彼の師がそれを許さなかった。
戦後間もない頃はノルヴェルトも相当反抗したが、月日を経て成長した今は大分落ち着いている。
と言っても、結局、獣人を殺すことは止められずにいるのだが。

四年前、ノルヴェルトは気がおかしくなる程の獣人に対する憎しみを負った。
別の感情など体の中から全て消え失せてしまうくらいの憎悪。
そのまま憎しみだけになってしまえば楽だったのかもしれない。

しかし、ノルヴェルトは憎しみに染まることを許されなかった。

戦場から生き残った掛け替えのない、大切なものがあったから。


フィルナードの鎌は、今でも大事に手元に置いている。
あの漆黒の大鎌は四年前のあの日以来、血に濡れることはなかった。
重く、殺傷能力の高い、危険な中に不思議な美しさのある大鎌。

あの鎌は、フィルナードのものだ。
彼しか、あの殺す道具を扱うことはできない。

ノルヴェルトはそう思いつつ、未だに心のどこかで、彼の死を拒絶していた。


また、ノルヴェルトは人の剣ではなく、自分の剣を持ちたいと思っている。

成長した青年の背で歩調に合わせて揺れる両手剣。
果たして、この剣は護る剣だろうか?それとも殺す剣?


ノルヴェルトは獣人に対する激しい憎悪を浄化できないまま、今を生きている。

青年の心はもう、取り返しがつかないほどに傷付いていた。



街を囲む外壁に開いたゲートを潜り、街中に入る。
ゲートを潜って脇を見ると、少し離れた所で大きな青いクリスタルが不思議な光を放っていた。
その傍らで人々が両手を組んで祈りを捧げている。
あれもまた、ノルヴェルトの心を傷つけたものの一つだった。

戦後のある日、突然世界各地で摩訶不思議な奇跡が起こるようになった。
―――獣人に殺された者が蘇ったのだという。
その後各国の研究者が調べた結果、これはアルタナの女神が起こす奇跡だと。
アルタナの民を愛する女神の御慈悲だと、世界は喜びの声をあげた。
クリスタルに意識を馳せて女神へ祈りを捧げると、獣人やモンスターによって命を落としてもその祈りを捧げた場所に蘇るというのだ。
また、傷を負った時には女神に祈りを捧げれば自己治癒力が増すらしい。

クリスタル戦争で命を落とした多くのアルタナの民を思い、慈悲の心とその愛によってもたらされる女神の奇跡。

ノルヴェルトはこの奇跡が、どうにも受け入れられずにいた。

何が慈悲。何が奇跡。

あんなに多くのアルタナの戦士達を見殺しにしておいて、今更何だと言うのだ。
そんなもの、偽善な神の気まぐれに過ぎない。

足を止めてクリスタルを睨み付けていたノルヴェルトは、奥歯を噛み締めると再び歩き出す。


俺は、神なんて当てにしない。

胸の内でそう毒付き、しっかりとした足取りで石造りの街へと歩を進めた。


街の様子を眺めながら歩くと、戦争の傷跡はほとんど消えたように思う。
崩れていた外壁も、焼けた家々も今はもう見られない。
道の両側に座り込んでいた難民達の姿も消え、街は活気を持っていた。
世界では、戦後の新しい時代が始まっているのだ。

皆が祖国の復興に尽くしてきたため、今このサンドリアの街はほとんどエルヴァーンしかいない。
王国の騎士団も今では完全に態勢を建て直し、現在は次世代の育成に力を注いでいるようだ。
ノルヴェルトは、騎士団に入りたいとか、そのようなことは思わなかった。
昔ほど『強くなりたい』という思いも、今は無い。

今はただ、幸せにしたい人がいる。


通りから路地に入り、少し進んで更に狭い道に曲がる。
街の賑わいが大分遠くに聞こえ、奥まった場所なので日当たりは良くない。
少し陰った道を曲がってすぐのところにある扉の前に立った。
ちらりと自分の荷物を確認して、今日は十分な収穫であると思い安堵の溜め息をついた。
「……ただいま」
年季の入った木製の扉を開けると同時に、ノルヴェルトは帰宅を知らせる言葉を言った。
「あ、おにちゃ~!」
家の中から甲高い声が聞こえて、視線を上げると小さな女の子が駆け寄ってきた。

色素の薄いセミロングの髪を跳ねさせながら前に立つ、幼いヒュームの女の子。

両手を後ろに回してはにかみながら、青い瞳でノルヴェルトを見上げる。
「おかえりなさい」
少女を見下ろして表情を和らげていると、奥から大人の女性の声がした。
長いブロンドの髪を一つに結んだ、意志の強そうな顔付きをしているヒュームの女性。
スティユという名前の彼女に、ノルヴェルトはもう一度『ただいま』と言った。

彼女がいるテーブルを見ると、卓上には合成の材料らしきものがたくさん置いてある。
合成の仕事中なのだと理解した時、不意に小さな手がノルヴェルトの手を引っ張った。
「おにちゃ~そとにあそびにいこう~?」
「ソレリ、お兄ちゃんは今帰ってきたばかりでしょう」
ノルヴェルトに遊ぼうとねだるソレリと呼ばれた女の子は、スティユの娘だ。
唸りながらノルヴェルトの手を引っ張るソレリを軽く叱ると、スティユは困った顔をノルヴェルトに向ける。
「でも……ノルヴェルト、良かったらソレリの面倒見ててもらえないかしら?危ないからと言っても傍を離れなくて……」
「マキューシオは?」
「奥の部屋に。少し前にセトが帰ってきたのよ。二人でチェスしててソレリを構ってくれないの」
どうやら彼女の夫は、奥の部屋であのミスラとチェスに熱中しているらしい。
いやーーー正しく言えば、熱中しているのはセトの方で、集中力が何だと言ってソレリを追い払っているのだろう。
『またですか』とノルヴェルトは呆れつつ苦笑いして、下の少女を見下ろした。
つまらない思いをしていた少女は早く遊びに行こうと手を引っ張る。
彼女が全体重をかけて引っ張ったとしても、長身のノルヴェルトはびくともしないのだが。
「分かった。二人にちょっと顔出してからソレリと出掛けるよ」
「ありがとう、ノルヴェルト」
申し訳なさそうに、だがほっとしたように胸を撫で下ろすスティユに、ノルヴェルトは釣ってきた魚を差し出した。
それを受け取りながら『まぁ、ありがとう』と嬉しそうに笑うスティユ。
ノルヴェルトは少し身を屈めてしっかりとソレリの手を握ると、彼女を連れて奥の部屋に向かった。

奥の部屋の扉は固く閉められていて、中から妙な唸り声が聞こえてくる。
腕組みをして首をひねっているミスラの姿を想像しながら、ノルヴェルトは扉をノックした。

落ち着いた男性の一言が聞こえて、ゆっくりと扉を押し開ける。
「ああ、ノルヴェルト。帰ったのか」
最初に視界に映ったのは、椅子に腰掛けて穏やかに微笑むヒュームの男性。
右腕がないその男性はノルヴェルトの師、マキューシオである。
テーブルを挟んで彼の正面に座っているミスラは、予想通り腕組みをして首を捻っていた。

「あー、無理っぽいよこれ、マジで無理なんじゃん!?マキューシオ強過ぎなんよ!」
「私よりもスティユの方が強いよ」
「超悔しいんだけどっ、ノルヴェルトもやってみ!」
バシバシと自分の膝を叩いて喚くセトは、狩りから帰ったままの格好だった。
ちょっとした防具を身につけたままチェス盤を睨み付けている。
「いや……俺はこれからソレリと外に出掛けてくるよ」
青年がそう答えると、彼は自分のものだと主張するように少女がぎゅっとしがみつく。
その様子にマキューシオは眉を開いた。
「ああ、悪いね。ソレリ、お兄ちゃんの言うことをちゃんと聞くんだよ」
少し申し訳なさそうな目をしてから、少女にマキューシオが言う。
ソレリは思い立ったように父の傍まで駆け寄った。
「ねぇ~パパもきて?」
「駄目だよマキューシオ!もう一回!もう一回!」
大人気ないセトが身を乗り出してマキューシオを逃がすまいと叫ぶ。
マキューシオはやれやれと頷くと、『私の子供は一人のはずなんだが』とノルヴェルトに小さく笑った。

「あ、そうだソレリ!森の兎がだいぶ懐いてきたからさ、今度連れてったげるよ」
思い出したように言うセトに、『うさぎ!?』と喜色満面でソレリは駆け寄った。
「だから今はパパ、うちに貸しといてね」
そんなことを言いながらソレリの頭を撫でるセトに、見ている二人は苦笑した。
ソレリの頭の中はすでに兎でいっぱいになったらしく、素直に『うんっ』と深く頷く。
「よぉ~し、じゃあ行ってこい!」
セトに背中を押されたソレリは、軽い足で駆けてノルヴェルトのもとに戻る。
「それじゃ、行ってきます」
二人に向けて手を振るソレリに目を細めてから、ノルヴェルトは言った。
「行ってらっしゃい」
「行ってら~」
にこやかに言葉を返す二人。
ノルヴェルトは再び少女の小さな手を取り、家を出た。


セトは、ノルヴェルト達と同様に、四年前のあの日を生き延びたのだった。
あの戦いで、獣人と味方の魔法が近くで同時に炸裂した衝撃で吹き飛び、オークの遺体の下に埋れて気絶していたため、彼女はほとんど無傷で済んだ。
前線に立ったにも関わらず、ほぼ無傷で生き残ったことは、彼女にとっては相当の苦しみであったに違いない。
彼女の他にも、数名の戦士があの日を生き延びた。
しかし彼らは皆、あの戦闘で負った傷が深く、終戦を待たずにこの世を去っていった。
最終的に生き残った戦士は、マキューシオとスティユ、そしてセトと、ノルヴェルトだけだった。

セトは現在、狩人として収入を得ながら、マキューシオのところに居候している。
いずれは出て行くつもりらしく、今は少しずつ金を貯めているようだ。
ノルヴェルトは以前、自分もあそこを出ることを考えた。
しかし、二人からは出て行くことは無いと言われたし、彼ら夫婦の力になりたいと思った。
マキューシオは片腕であるし、ソレリが生まれて大変な面もあるだろう。
昔は何の力にもなれなかったが、剣を捨てた彼らの力にならなれる自信がある。
ノルヴェルトは、マキューシオに救われたこの命を、師のために使おうと心に決めていた。

ぼんやりと昔のことなどを思い出していると、手を繋いで歩いていたソレリが不意につまずいた。
ノルヴェルトはソレリが膝を着く前に慌てて彼女を持ち上げる。
驚いた顔で呆然としているソレリに大丈夫かと尋ねると、彼女は黙って頷いた。
そのままじっと見つめると、俯き加減になってトボトボと歩いている少女の様子に気が付いた。
家を出る時はスキップをしていたのに、一体どうしたのだろう。
そう疑問に思ってすぐに、ノルヴェルトは先程までの自分のことを思い返した。
昔のことを思い出しあれこれと考えていたのだから、もしかすると怖い顔をしていたかも……。
子供は大人の感情に敏感なところがある。
ノルヴェルトが困ったように首を掻いていると、前方に噴水が見えてきた。

「あ…ほら、ソレリ。噴水だよ」
少女を覗き込みながら噴水を指差し、意識的に声のトーンを少し高くして言った。
「小鳥が水浴びしてる」
はたと目をしばたかせると、ソレリは少し表情を明るくして噴水に向かって駆け出した。
ソレリに手を引かれて中腰のままノルヴェルトも彼女に続き、噴水まで行く。
驚いた小鳥がノルヴェルト達から逃げて、噴水の反対側に移動する。
小さいソレリが噴水を覗こうと頑張っているので、ノルヴェルトは彼女を抱き上げた。
軽々と少女を抱えて、ノルヴェルトは忙しなく水浴びをする小鳥達を見つめる。

―――戦争が終わって四年。
武装していないマキューシオ達の姿も今では見慣れたものだ。
家の奥に仕舞い込んであるマキューシオの剣は、もう二度と彼の腰に下げられることはないだろう。

ノルヴェルトは以前、ソレリになぜ自分だけ剣を背負っているのか問われたことがあった。
少女が疑問に思うのも当然だ。
今時街中で帯刀しているのは騎士くらいなものだ。
街で暮らす人間には、ノルヴェルトが背負っているような剣など必要ないのだから。

ノルヴェルトは、その少女の素朴な質問に答えることができなかった。
もしもマキューシオが同じ立場だったら、『護るためだ』と即答したと思う。
ノルヴェルトだって、マキューシオ達を守りたいと思っていることに違いは無い。
しかし、戦場に立たない彼らを守るのに、最早剣など必要ないはず。
それなのになぜ、こんな剣を背負って歩いているのか。

それは、黒くて深い憎悪があるからだ。

なぜマキューシオ達は、ああも容易く剣を手放すことができたのか。
ノルヴェルトは不思議だった。
あんなにたくさんの仲間達を奪われたにも関わらず、彼らは終戦と共に剣を捨てた。
理解できない。
四年経った今でも、胸中の憎悪は己の魂をじりじりと焦がしているというのに。

ソレリが降りたがったので、ノルヴェルトはゆっくりと少女を下ろしてやった。
地面に降りるなりソレリは元気よく噴水の反対側へと走る。
ノルヴェルトは鞠のように跳ねている幼い少女を眺めながら、近くの段差に腰掛けた。


『どうしておにちゃは、けんをしょってるの?』

あの少女が言った言葉は、ある意味非常に的を得たものであるとノルヴェルトは思った。

―――そう、自分は剣を背負っている。

マキューシオの『護る剣』と、フィルナードの『殺す剣』の両方だ。
ノルヴェルトは死ぬまで、この二つの剣の魂を背負って生きていくのだろう。
しかし今はまだ、二人の剣から教えられた何かを背負っている状態。
この剣はまだ自分のものではないし、はっきりとした役割も分からない。
表面に【護りたい】という願望を塗られた、【殺したい】という欲望の剣。
存在理由さえ明快でない、異形の剣だ。

そのようなことを考えると、小鳥に忍び寄っているソレリを眺める表情も無意識に深刻になる。

小さくて、ぱっちりとした青い瞳をキラキラさせて笑うソレリ。
彼女は今のところマキューシオ似だと思うのだが、成長するとやはりスティユに似てくるのだろうか。
ソレリの青い瞳を見て、ノルヴェルトはマキューシオの瞳を思い出した。

戦争時代、あんなに希望の色をしたものは他に無かった。
それなのに終戦後の彼の瞳を見ると、あの頃の輝きが嘘のように光は消え失せている。
彼の様子は戦時中とほとんど変わらなく感じるが、その瞳の変化は確実で。
まるで、彼は空っぽになってしまったかのような……そんな錯覚を覚える時もある。

ノルヴェルトには、未だにマキューシオのことがよく分からなかった。
四年前、あの日の彼の行動についても―――真相は今も闇の中だ。
知りたいとは思っている。
けれど、あの後マキューシオは長い間、生死の境を彷徨うほどの危険な容態であったし、終戦後も各地を転々としては落ち着く間もなかった。
だから何一つ、尋ねることも、できないまま。

やはりあの時、マキューシオは自分を救ったのだろうか?
ノルヴェルトはそれを思う度に、彼の底知れぬ優しさに胸を痛めていた。


マキューシオの剣は、本当に多くの命を救った。

戦争ですべての力を使い果たしてしまったかのような彼を、ノルヴェルトは今でも心の底から尊敬している。
あんなにも救うために命をかけて戦ったあの人のことを、一体何人の人間が覚えているだろう。
当時マキューシオは、自分達の情報を人に与えてはいけないと言っていた。
軍には勿論のこと、保護した難民にすら素性は明かしていなかった。
救われた多くの民は、恐らく軍のある部隊に救われたと思っているに違いない。

思わず、握った手に力がこもった。

―――――とそこで、ノルヴェルトの足元に小石が転がってきた。

はっとして視線を上げると、無邪気な笑い声と共にソレリが駆け寄ってくる。
表面のつるつるしたその小石を拾い上げて『きれいねぇ?』と首を傾げるソレリ。
さっきまで小鳥を追いかけ回していた彼女は、よく見ると両腕の袖がびしょびしょに濡れていた。
噴水の池の中に手を突っ込みでもしたのだろうか。
「わ、ソレリッ」
驚いてハンカチを出して彼女の腕を拭く。
よく見るとスカートと髪も濡れていた。
きゃはきゃはと笑っているソレリの手を握ると、水に触ったせいか来た時よりも大分冷たくなっている。
「風邪ひいちゃうよソレリ、帰って着替えなきゃ」
ソレリの手を握って立ち上がると、甲斐甲斐しく接してくれるノルヴェルトに対して、少女は嬉しそうな顔で頷いた。
「ママとパパにみせてあげるの」
そう言って小石をかざすソレリの頭を撫でて、『帰ろう』と歩き出す。


もしドルススが生きていたら―――
今のマキューシオを力強く支えたろうに。

もしワジジが生きていたら―――
呆れるほど前向きな態度で、マキューシオを常に笑顔にしただろうに。

歩き出してすぐに、またそのようなことで思考が埋め尽くされる。
いけない―――と軽く頭を振って、今はそういうことを考えるのはやめようと思った。
手を繋いで歩いている小さな少女が、行きの時のようにしょんぼりしてしまうから。

ふとソレリを見下ろすと、彼女はご機嫌な足取りで何やら独り言を言っていた。
「……せかいでいちばんやさしいひと」
耳を傾けるとそんな言葉が聞き取れた。
「ん?誰が?」
ノルヴェルトは、軽い足取りで歩くソレリに問い掛ける。
大きくて暖かい手を握り締めた少女の、澄んだ青い瞳が、ノルヴェルトを見上げた。

「おにちゃ~」

はっとしてノルヴェルトは言葉を失った。
しばらく呆然と少女を見下ろす。


純粋。
この幼い少女は何の疑いも疑問も持たない瞳で、世界で一番優しい人は自分だと言う。

ノルヴェルトは口を結んで俯くと、ソレリの手を握る手に少し力を込めた。
「…………違う……違うよソレリ」
搾り出したような声で言うと、目をぱちくりさせているソレリを見下ろす。

「世界で一番優しい人は……ソレリのパパだ」

ソレリは、何故自分の言ったことを否定されたのか分からないという様子だった。
「ソレリのパパ?」
そう言って首を傾げると、やがて嬉しそうに微笑む。

ここで、少女の純粋さに感動して涙の一つでも零しそうなものであるが、ノルヴェルトは泣かなかった。
涙を流すどころか、今、ノルヴェルトの心は、驚きに肝を冷やして激しく動揺している。
この小さな少女の純粋な気持ちが光となってノルヴェルトの心を貫き、その光に、心の奥で蠢く憎悪の塊が一瞬照らし出されたような気がした。
だからノルヴェルトはぎくりとして、一瞬言葉を失ったのだ。

ノルヴェルトは忙しない胸の鼓動を感じつつ、足元に視線を落として再び口を結んだ。



マキューシオ。

俺はまだ、あなたにたくさんのことを学ばなければならない。
戦いを終えた片腕のあなたに頼るのは、最早許されないことだと分かってる。

でも、どうか―――俺を導いてください。


この心の奥底にある憎悪が、俺の身体を支配する前に。



<To be continued>

あとがき

戦後四年のノルヴェルト達です。
当然と言えば当然ですが、喪失感が半端ない。orz
それぞれが何かを背負い、戦後を歩き始めていました。
どうか見守ってやってください。
あ、設定勝手にあれこれといじって誠に申し訳ないです。
村長設定はこんな感じで書き進めていきますので悪しからずでーす。(´ー`;)
理不尽で偽善な神の正体は村長でーす。